ブログ記事16件
遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。年末年始は名古屋の妹宅で猫4匹に囲まれてすごした私です。自宅に戻り藤井風さんの動画みてfeelinggoodになったので今日おもったことをばちょっとかきとめようかと。2021年、正直わたくし悩んでいました!コロにゃんが流行りだした頃(2020年)は、ステイホームとか自粛とかって、働きすぎで休みたいけどさぼりたいとか言えないし、責められずに休む方法って健康上の理由しかない、みたいな人たちの願望がいろいろねじくれたり足したり引いたり
この記事は出来事を綴った前回の続きです。感情を出し切ればできたすきまに気づきと癒しが入ってくるー蓮の花の上で会いましょうー突然訪れた愛猫の死で落ち込んでいた私がどうやって立ち直ったのか。もしかしたらこういうことが起こっていたんじゃないかなって。まず私がたてた仮定がこちら。「悲しみなどの感情と気づき、癒しはこころの中の同じうつわに入る」何かショックな出来事が起こった時、そのうつわが悲しみでいっぱいになったとします。私の場合、カルちゃんとの突然の別れですね。そこで
大量の悲しみをだしきった後に入ってきたのは、気づきとそれからもたらされる癒しだったー。ここ数日でおこったことがあまりにも大きすぎて、まるで何年分かの経験をしたような気がしています。かなり久しぶりの更新なのですが、この経験をかきとめておきたくて投稿することにしました。起きたことをそのまま綴った今回の記事と、それがどういうしくみで起きたのかを考える次の記事と続きになっています。今日、18年連れ添った猫を荼毘に付してもらい、土に還すための骨壷に入れてもらいました。私が愛して愛して
12/23にあーすじぷしーのお二人のトーク&ワークのイベントに行ってきました。テーマは意志のパワー。来たる2018年にむけてのクラスです。基本的な流れは不思議な双子なほまほちゃんの、インドでのリトリートでの気づきのシェアとみんなで瞑想して自分への問いかけをして答えを書くというもの。いくつか、それマジで!今までと思ってたのと違う!って激震が走ったことがあったので備忘録として書きますね。手書きのタペストリーの前でおはなしするなほちゃん。まるできれいなオーラみたい。いつ
引き続き、現実を受け入れなくてはならないのはなぜかについてあーだこーだ言っていきたいとおもいます。前回、現実を否定するエネルギーがもったいないから、現実を受け入れて、持っているエネルギーを望む方へ使おう、ということを書きました。そういうたかて、難しいわってなると思いますので(非関西人ほど関西弁を使いたがる)、じゃあどうしたら現実を受け入れられるかについて触れたいと思います。考えられる主な方法は以下の二つ。1、現実を否定することがエネルギーの使い方的に捉えるとどれだけ非効率
ここのところエネルギーの使い方シリーズでお送りしていますこちらのブログ、どうも、まどかです。今回はエネルギーの使い方の視点からなぜ現実を受け入れなければならないのかについてあーだこーだいいたいと思います。よく、「現実を受け入れろ」っておまえの現状なんてこんなもんだから諦めなさい、みたいなちょっと後ろ向きな意味で使いますよね。これ、エネルギーの使い方的にいうと、ちょっと違うかな?と思って。さくっと結論先に言っちゃうと、なぜ現実を受け入れないといけないのか、それは
先日アップしたこちらの記事(まどか式エネルギー考古いものを捨てるから新しいものが入ってくる)ですが、エネルギーの使い方について語ってみたものの、そもそもエネルギーってなんなんだろう、どう説明したらいいんだろう、って思った時にふと思いついたのが意識の体力みたいなもんかと。ゲームとかでいうとヒットポイント、HPですね。体力って、限界あるじゃないですか。動き続けると疲れて何もできなくなっちゃう。その人が持っているエネルギー(まどか的にいわせると意識の体力)もやっぱりそういう
今回はいつものこころのあーだこーだとはちょっと趣を変えて、先日行ってきたちょっと不思議な日帰り神社参りについてレポートしたいと思います。あ、先に言っておきますが、前世とか神話とか知らんし、知りたくないし、という方は回れ右してくださいませ。よくキネシオロジーの勉強会でお世話になっている、新婚さんの上川先生の引率で、先生の日本語の五十音を使って心と体に変容のきっかけを与えるメソッド「あうん」でその土地とつながりやすくなる言葉を教えてもらったり、普段はわからないその土地の裏話?みたいなのを聞い
最近いまいちブログが更新できない病のまどかです。結局は他人からどう思われるのかを気にしているのと、自分をよく見せたいって思っているのが理由なんですよねー。じゃあなんで書こうかなと思ったかというと、実は書こうと思っていて途中までかいていたり、構想していたりする記事がいくつかあったんですが、これ一旦外に出さないと新しいもの入ってこないんじゃない…?って思ったからなんです。人でも物でも自分に入ってくるものって1、新しいものが入ってくるから古いものが手放せるのか
本当に本当にご無沙汰しています。実は前回の記事でゆるくいこうなんて言っていましたが、ブログ、まったくかけなくなっていました(>_<)。なのに、なのに、読んでくれている人はいてくれて、なんと前回の記事に100いいねがついていました。もうありがたすぎて泣けて来ます(;ω;)。記事がかなり長文になってしまったので、この間に起こったことを先にかいつまんで話しますと「こんな世界つまらない」と世界に対してスネた↓気づきも起こらなくなり、無気力になり、ブログがかけなくなった↓「世界=つまらな
かなり久しぶりの更新になりました、こころの法則研究家のまどかです。この自称の肩書きも気が変わったら変更するかもしれません、うへへ。この間何をやっていたかというと、目覚ましをかけずに朝起きてストレッチして録画したテレビみたりごはんつくったり旦那さんとでかけたりケアンズに旦那さんのレースの応援に行ったりそれをずーっと別ブログにかいたりしていました。そう、IHのセッションもせず、社会に貢献することとか一切なし。こちらのブログをなぜ更新しなかったかというと
「空気読めるようにならないと」とか「和を大事に周りにあわせるのがよい」とか日本人的教育で、環境に反応するだけで生きてきて、自分がどうしたいのかわからなくなっているor本当の自分とかけ離れた自分が世の中に現れちゃっている人ってけっこういるんじゃないのかなって。どうもー、こころの法則研究家とかいっているMadokaです。仕事が忙しくなったり、毎日の雑事に追われていると、起こった出来事に反応するだけ人間になりがち。「って言っても、やらないと回っていかないんだからしょうがないじゃない」と言
古くはブッダの時代から「中庸がいい」って言われていて、「そりゃ、極端なのはよくないよね」くらいにしか思っていない自分がいましたが、あ、それってこういうことが起こってるのかなって気がついたので今回語ってみようかと。どうもーこころの法則研究家Madokaでございます。つい別ブログで宮古島のグルメについて熱く語ってしまって、更新が後手にまわっております(-_-)。まあ、ここのブログね、ゆるさがウリなんでね、まあいいかと。先日聞いたお話なのですが、介護職の仕事先で理不尽に患者に
かなりご無沙汰しています、こころの法則研究家と名乗りだしたMadokaです。実は、4月末から宮古島に行っていて、トライアスロン応援したり、青い海で泳いだりしていたら、正直、人の精神の機微とか、他の人の葛藤とか、ど〜でもよくなっていました(爆)。不思議ですねー、都会にいる時は、「あー、心が不安定だ、この人のブログみたらヒントあるかも、読んでみよう」みたいにむさぼるように読んでいたのに、宮古島にいたら、自然が圧倒的すぎて、「あー、細かい文章とか読みたくないぜ!」ってなるんですね〜。私
自分の感覚や感情を大事にしよう、というのは最近いろんな方のブログとかでも書かれているのですが、自己否定村の出身の私としては、なかなかそれが難しかったり。以前の記事にも書いたのですが、「この厄介な感情をなんとかしたい」と思って七転八倒したり、「こんなふうに感じる自分はおかしいんじゃないだろうか」とか思って否定したり。でも自分の感覚や感情って、自分が何を本当に望んでいるのかを教えてくれる超重要ヒントだったりするんですよ。なので、こういう感覚は常識はずれだからだめだって却下して、感情を見