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再度のお知らせです♪久し振りにヴォートルでのライブです。是非ともご来店くださいませ。座席数が限られてますのでお早めにね✌️くじ引きでお歌を歌っていただくかも知れませんよ😉お待ちしております📲090-8005-1806
おはようございます。今日も全国的に暑い1日になりそうです。熱中症にはお気をつけてくださいね。今日はUFO記念日、空飛ぶ円盤記念日です。1947年のこの日、アメリカで初めてUFOが目撃されました。アメリカの実業家ケネス・アーノルドが飛行機で移動中に、時速2700kmもの速度で急降下や急上昇を行っている9機の見慣れない飛行物体を発見しました。アーノルド氏はこの物体を「空飛ぶ円盤(flyingsaucer)」と呼び、全米で報道されると、同様の目撃証言が相次きました。事態を重視したアメリカ空軍が
このお寺さんは、スンゲ〜よ!数々の歴史絵巻の登場人物のお墓などがあるのね。その中で、1つだけ取り上げやす。やっぱり、ザックリと99.99㌫の省略です。【崇禅寺、本堂】〜・〜・〜・〜・〜・〜室町幕府;第6代将軍、足利義教(よしのり)の首塚。※墓、ではなく首塚です。多分?やけど・・・世界中ドコにも、こんなデタラメな話はないと思う。【足利義教の首塚、その他。】①室町、第5代将軍(義量・よしかず)は、あやつり人形で実
室町幕府第6代将軍、足利義教、万人恐怖と言われますが、足利義教の人生を辿っていきます。足利義教は1394年6月13日、足利義満の子として生まれました。幼名は春寅。兄には1394年将軍となった足利義持、足利尊満、宝幢若公がいました。同年には異母兄弟の鶴若丸(足利義嗣)が生まれていますが、足利義嗣の誕生日は不明であり、足利義教が何番目の男子かは明確になっていません。足利義満の足利義嗣への可愛がり様は異常でしたから、足利義教は余り相手にしていなかったようです。足利義満にとって、政治の駒に使え
すでに決まっている方はこちら木漏れ日さん、さなさん、LISAさん。そして、こちらこはくくじひよこちゃんma-chanさんこっちゃんぺったんこバッグtaegon2021さん文鳥ボディバッグゆみぃさんセキセイトートバッグこちら、動画に上手く写ってないかもですが、実は2枚飛んでいってます。なので、ohkamein53さんと、ピーポーさん生地があるので、至急、バッグを作ろうと思います。全く同じものにはならないと思いますが、その辺はお許しくださいませ
室町幕府、第5代将軍・足利義量は将軍とは名ばかりで実権は父の足利義持が握っており、1425年に足利義量が急死した後も、法体の足利義持が引き続き政治を行ないました。その足利義持も1428年1月に病気になり、危篤に陥っても後継者の指名を拒否しました。それで将軍をくじ引きで決めようという流れになり、足利義教(当時は義円)が将軍になりました。ここで、後に『万人恐怖』と呼ばれる、足利義教の登場です。足利義教この時35歳。将軍の任期期間は12年と意外に短いものでした。先に言ってしまいますが、暗殺されてしま
趣味で能面打って20年。今はカルチャーセンターで教えをしています能面パパです。作品を見てくれた方に「世阿弥はどんな人なんだろうね」と言われて、ふと思いました。どんな人だっけ?室町時代に能を大成した。「風姿花伝」を書いた。足利義満に認められたが、足利義教には冷遇されて佐渡に流された。それから・・なんだっけ?世阿弥って名前は知っているけど、人物や業績は断片的しか知らないなあ。よし、いい機会だから世阿弥について書いた本を探してみよう。あんまり専門的なのとか、学術的なのはこちらのオツ
東洋の聖人カード3,850円Amazon『足利義教』室町幕府第六代将軍。三代将軍足利義満の五男として生まれるも、後継者から外れ、出家。僧侶としては、逸材と評され、大僧正も務めました。五代将軍義量が急死。後見人である四代将軍の義持は、病で倒れてしまいました。六代将軍を決めなければいけませんが、義持は
室町時代初期は日本人全体が実にたくましい時期でもありました。内政は混乱していましたが、その中で、たくましく生きる人たちも多かった時代です。特に凄いのは倭寇です。現在の日本人では及びもつかない発想を持っていました。しかも実行しています。お寺を再建したい。でもお金がない。そうだ!明(当時の中国大陸を支配している王朝)から奪えばいいじゃん。実際にその略奪品で、お寺が何件も再建しています。明は当時、自由貿易を認めていませんでした。朝貢貿易という貿易でした。朝貢貿易は誤解している人が多い
さて、今回はこの本の内容を読んでの考察に行ってみましょう。室町幕府全将軍・管領列伝(星海社新書)[日本史史料研究会]1,512円楽天やはり、この本の構成にあるように室町幕府最大のターニングポイント(転回点)は「くじ引き将軍」足利義教の時代ですね。その理由は、義教が「嘉吉の乱」で横死して以降、関東方面に関する記述はめったに見られなくなることです。足利義政が反乱を起こした成氏の代わりに兄(母親違いの兄)の政和を送り込んだことと細川政元が関東に行こうとしたぐらいのものです。
<第102代後花園天皇>(将軍)足利義教〔くじ引き将軍〕。1429年尚巴志・琉球統一。勘合貿易・復活。1439年足利学校。永享の乱〔足利持氏〕。1441年嘉吉の乱〔将軍義教VS赤松満祐〕。1457年コシャマインの乱〔アイヌ〕。
■『愚管抄』と『日本一やさしい天皇の講座』中世日本の歴史思想を示す古典の代表とされている『愚管抄』。著者である慈円は鎌倉幕府が設立する直前の平安末期の人であり、藤原摂関家、とくに九条家の人であり、天台宗のトップであり、台密の修法者であり、和歌の達人でもあるという、非常に多くの”顔”を持つ、当代一流の知識人でした。このため『愚管抄』の思考的要素も、この時代の知識人の常識となっていた末法の観念、末世の意識と時処機相応の論理、藤原家出身者たる自負と祖神春日明神への信仰、九条家の人たる自覚と慈
こんな社会はイヤだ、もう誰とも関わりたく無い。これから自分は、寂しい山の中で引きこもりたい。ー?→(・・?それは室町幕府の8代将軍・足利義政、足利義政(あしかがよしまさ)は、室町時代中期から戦国時代初期にかけての室町幕府第8代将軍(在職:1449年-1473年)。父は6代将軍足利義教、母は日野重子。早世した7代将軍足利義勝の同母弟。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/足利義政足利義政の父・足利義教は、くじ引きで将軍になった「くじ引き将軍」と
■三百年早い王権神授説義教と慈円それにしても、義教の「自分は神(八幡大菩薩)に選ばれたのだ」という強烈な自意識や、「南方一流、断絶さすべし(南朝は断絶させよ)」といった全くブレる素振りすら見せない鉄の意志は何によってもたらされたのでしょうか。特に義教の時代は、南朝の正統性を述べた歴史書『神皇正統紀」が、北畠親房の手によって記されてから百年近く経過しており、広く読まれていたと言われています。ならば、後世の”フランスの足利義教”ことリシュリューにとってジャン・ボタンの『国家論』という
■魔王と籤引き守護大名はわがまま放題の上、朝廷の風紀は乱れるばかり。また天皇の代替わりごとに南朝の末裔が蜂起し、将軍の代替わりごとに徳政一揆が起きる、このような秩序なき世となってしまっている最中、義教は「くじ引き」によって第6将軍として将軍職に就きます。一説によると籤引きは三度行われており、籤を三度引いて三度とも「青蓮院(=義教)」と書かれていたのだそうです。三度籤を引いて、三度とも義教であったと言われると、逆にその籤の信憑性に疑義をもってしまいそうですが、籤は公平に行われたという立場
■万人恐怖の背景~無為の時代から対決の時代へ~多くの歴史書、学術書では「万人恐怖」と呼ばれた義教の政治姿勢の根源を義教の個人的性格に求める傾向が強いようです。当時の間でも「悪御所」「万人恐怖」「天魔王」呼ばれていましたが、後世の歴史家からの評価も「独裁者」「サディスト」「嗜虐的な暴君」等々、その例は枚挙にいとまはありません。では本当に「万人恐怖の政治」は義教の嗜虐的性格が故に行われたのでしょうか。確かに義教自身の性格というものの多分に影響を与えているでしょうが、よくよく当時の社会
■無為なる世界皇室乗っ取りが完成しようかという直前に義満が謎の急死を遂げることによって、「強きにへつらい、弱きをくじく」、「不道、不義、無礼の世」と言われた足利義満の時代が終わり、4代将軍義持の治世へと移り変わります。義持の時代を語る上でのキーワードが「無為の儀」です。『室町人の精神』(桜井英治。講談社)では、「無為=穏便な処置」とされていますが、むしろ事実関係だけから見れば「何もしない」「何も決めない」と解釈する方が適切なのではないでしょうか。倉山満先生は著書『誰も教えてくれな
■魔王誕生前夜”万人恐怖”と恐れられた義教の専制政治。では、義教以前の政治状況とはどのようなものだったのか。『室町人の精神』(桜井英治。講談社)では、義教以前~初期の施政を表す政治用語として、「無為の儀」が存在していたと言います。「無為」とは、直訳すれば「穏便な処置」という意味ですが、その意味するところを考えてみたいと思います。三代将軍義満の急死から”魔王”義教が誕生するまでの約20年間、四代将軍義持の治世が長く続いていました。義持が将軍となったのは9歳の時。将軍職を辞し出家したにも
■無類の上「万人恐怖」「魔王」と呼ばれた独裁者にして、最後は嘉吉の乱で家臣に殺され、将軍の権威を失墜させたと後世の歴史家から酷評されてきた義教ですが、昨今はその評価が見直されつつあります。その代表例といえば『増補二人の天魔王-信長の正体-』(明石散人。ビジネス社)、さらには『大間違いの織田信長』(ベストセラーズ)をはじめとする憲政史家の倉山満先生の一連の著作でしょう。「第六天魔王」といえば信長の異名ですが、元々は義教のものでした。また信長といえば、「天下統一まであと一歩に迫った真
■通説としての魔王足利義教は応永元年(1394年)、足利義満の子として生まれます。幼名は春寅。応永10年、比叡山延暦寺・青蓮院に入室し、応永15年(1408年)に得度して門跡となり義円と名乗ります。開祖伝教大師最澄以来の英才と評され、わずか26歳にして延暦寺の長である天台座主になりました。幕政を担っていた4代将軍義持(5代将軍義量死後、将軍不在となり前将軍である義持が僧体のまま政治を行っていた)が後継者を定めずに死去したため、「くじ引き」により6代将軍に選ばれます。そのため義教は「くじ
岡田秀文著『魔将軍―くじ引き将軍・足利義教の生涯』最近、興味があって室町時代、特に足利義教に関連しそうな本ばかり読んでいるのですが、その中でもおススメの一冊。以前、「魔将軍」読書ノート:くじ引き将軍足利義教とは、先見の明がある革命者だったというブログを読んだ時も読みたいなと思っていたのですが、中々手付かずでいたところようやく読めました。フィクション要素も多分に含まれていますが、明石散人さんの『二人の天魔王「信長」の真実』の流れを汲む義教の姿が描かれています。お薦めです!
昼間は暑かったですが夕方はホッと一息。本に夢中になって洗濯物の取り入れが少し遅くなったんですがベランダから見えた空はすっかり秋の空でした。さて、読了した本は応仁の乱前に将軍だった足利義教の生涯を歴史ミステリー仕立てにされたこの本です。魔将軍―くじ引き将軍・足利義教の生涯(双葉文庫)Amazon作者は『応仁秘譚抄』からすっかりファンになってしまった岡田秀文さんです。この本の表紙でもそうなんですけど足利義教って肖像画からもなんか冷たい印象を受けますし検索すると
いつもなら年初めに訪れている石清水八幡宮今年はバタバタしていてまだ行ってません今の場所に引っ越してから毎年欠かさずお祓いしてお札を頂いてるんですが先日ふと思ったよ石清水八幡宮って室町時代にあのくじ引き将軍でお馴染みの六代目足利義教を決めた場所じゃないかってことに…四代目足利義持の次に五代目義量が即位したけど亡くなったので、取り敢えずまた義持に戻ったんだよねしかし次の将軍を決めてなかったのでくじ引きという神頼みになるということでしたまぁくじ引き将軍はいいとしようでも問題は
応仁の乱-戦国時代を生んだ大乱(中公新書)Amazon学校で必ず習う応仁の乱でもどうして起こったのかなぜ11年も続いたのかどうやって終わったのか全く覚えていないただ日野富子が悪女で8代将軍足利義政がぼんくらで御世継問題に細川と山名の家督相続問題がからまったという記憶しかないきっと同じような人は多いのではないだろうか本書の登場人部は300名くらいいるのでちょっと混乱することもある名前も微妙に似てたりして余計に混乱するのだが肝心要の人達さ
前回まではこちら⬇️目次私、足利義満の娘・智子です。私と満済殿は兄・義持の死後、後継ぎを要請された同じく兄の義円を説得しています。義円は私や満済殿が仕組んだくじ引きの本意を見抜き、後継ぎは義持の意向であることを知って考え込んでいました。義円「……満済殿、私が足利将軍家の後を継ぎ将軍となれば守護大名らは従うのか?」満済「守護大名、皆で義円様を盛り上げていくことでしょう。」義円「私が将軍になれば私の姿勢を突き通すぞ。」満済「義持様の意向と仕組んだとはいえ、くじ引きとはいえ神意でござい
室町幕府は足利尊氏によって、創設されました。室町時代には南北朝の騒乱期があり、足利尊氏が関東にいれば京都で南朝方との戦いが起き、逆に京都に駐在すると、関東で反乱が起きるという最悪の事態でした。尊氏は、3男義誠を2代将軍に据え、4男基氏を『関東管領』として、鎌倉に置きます。尊氏の息子同士は仲が良く、協力していましたが両組織は代を経るに従い、険悪なものになります。やがて『関東管領』から、『鎌倉公方(将軍)』へと独立性を強め、将軍家に対して不穏な動きを見せます。中でも、鎌倉公方4代目、持氏は