ブログ記事22件
今日の箇所(第一列王2:26-35)には、神様のみこころに背いた罪は、いつか必ず裁かれるということが示されています。ソロモンは、ダビデの遺言に忠実に正義を行い、王座を確かなものにします。ソロモンは、アドニヤが再び反逆を企てた背後には、エブヤタルとヨアブの存在があったことを確信します。そこで、アドニヤを殺した後、祭司エブヤタルを罷免します。エブヤタルはダビデに忠誠を尽くした神の祭司であったため、むやみに殺すことはできず、ソロモンは彼を故郷に帰らせます。これは、エリの家に対して宣
今日の箇所(箴言2:1-22)には、知恵を選び取るかどうかという私たちの選択が、人生を左右するということが示されています。人生は、日々の選択の積み重ねです。日々、何に基準を置いて、何を選び取るのかということは、それゆえ、極めて重要です。本文は、子に対する父の勧告の形で始まります。最初の4節は、「もし」が導く条件節の連続で、選択の重要性を教えています。正しく幸いな人生を送るためには、心を知恵に向け、隠された宝を探すように切実な心で英知と知識を探すべきなのです。続く5-11
今週の「わたしに従ってきなさい」ルカ14:27自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。「天から下ってきた生きたパン」2017年10月、D・トッド・クリストファーソン、十二使徒定員会わたしたちがキリストの内にとどまり,キリストがわたしたちの内にとどまられることを願うとき,(ヨハネ6:56参照)肉体と霊の両面で求めるべきは聖さです。(ローマ12:1参照)わたしたちは「聖きを主にささぐ」と刻まれた神殿で聖さを求めます。夫婦関係や家族,
2023/4/1のデイリーブレッドきよさは見かけではないホセはイエスを受け入れると、弟の通う教会の礼拝に行きました。弟は兄の顔を見るなりうつむきました。Tシャツから入れ墨だらけの両腕がむき出しだったからです。それはホセの過去を表していたので、弟は、長袖のシャツを来て出直してほしいと言いました。ホセは突然、自分は汚れていると感じました。近くで2人のやり取りを聞いていた人が、ホセを牧師のところへ連れて行き、事情を話し…japanese-odb.org🌷覚えメモ引用きよさは見かけでは
私たちは弱く、傷つき、歪んでいるから、悪い方を選択する。根性できよくなったり、がんばって善と呼ばれそうな事をするのは骨折してるのに痛み止め飲んで運動会しているようなものだ。対症療法。気が短いからすばやくなんとかしたいのだけど、まずは骨折治さないと。時間はかかっても、形ばかりを整えることを繰り返すよりも、かえって近道なのだと思う。
今日の箇所(ダニエル8:15-27)には、この世には偶然はないということが示されています。神様から幻を見せられたダニエルは、その意味を理解したいと願います。すると、神様は御使いガブリエルを送り、その幻の意味をダニエルに解き明かさせます。しかし、御使いを見た途端、ダニエルは恐れて地にひれ伏し、そのまま意識を失います。御使いでさえ、直接触れ合うにはきよ過ぎて、圧倒されるのです。ガブリエルは、ダニエルを立ち上がらせ、幻の意味を解き明かします。ダニエルが見た幻は、「終わりの定めの時
今日の箇所(詩篇133:1−134:3)には、一つになって主を礼拝し、共に生きる共同体こそが、主による大きな祝福であり、より豊かな祝福を受ける秘訣であることが示されています。信徒が一つになることが、都上りの歌のクライマックスです。信仰の兄弟姉妹が一つになることが幸せである理由は、それこそが人を造られた神様のみこころに適った姿だからです。罪がもたらした悲劇は、人が自己中心的に生き、人よりも高くなろうとして争うようになったことです。しかし、神の民は、祭司アロンの頭に注がれた油が共同体
今日の箇所(申命記23:15-25)には、律法の裏に流れる神様の排除と受容の原理が示されています。神様の律法は、弱者の人権を尊重し、配慮します。古代中近東では、逃げて来た奴隷を主人に返すのが一般的でした。しかし、神様は、逃げて来た異邦人の奴隷を主人に返さず、イスラエルの中で自由に住まわせるように命じられます。イスラエルも神の恵みによってエジプトの奴隷生活から解放されたので、彼らのところに逃げて来た異邦人の奴隷にも憐れみをもって接するべきだということです。また、神様は、偶像の前で
今日の箇所(申命記23:1−14)には、神様はご自分の共同体にきよさを求められるけれども、そのきよさには、憐れみと慈しみが付いて回ることが示されています。神様が契約の民に求められることは、「きよさ」です。それゆえ、生殖器に問題がある人や不倫の子は、主の集会に入ることができません。彼らは、カナンの淫らな風習に影響された、きよくない人々の代表だからです。エジプトから出て来たイスラエルを呪って、彼らの土地を通らせようとしなかったアンモン人とモアブ人もまた、永久に主の集会に入ることはでき
今日の箇所(申命記17:1-13)には、神の共同体は、人の思いや考えではなく、神のみことばに基づいて裁きを下す必要があることが示されています。契約の民にとって、背教は致命的かつ最大の罪です。イスラエルが約束の地に入った後、神様を捨てて他の神々に仕え、太陽、月、星などの天の万象を拝んでいる人がいるという噂を耳にした場合、一人の証言だけで即断することなく、少なくとも2,3人の証言を聞いて、よく調査しなければなりません。人の先入観や悪意によって無実の人が罪に定められるようなことが起こらないよ
今日の箇所(黙示録4:1-11)には、天の神の御座とそこで行われている礼拝と賛美が描写されています。ヨハネは御霊に満たされ、天の御座とその御座に着いておられる神様を見ます。栄光に輝く神様の御姿を直接的に表現することができなかったので、彼は、碧玉や赤めのう、緑玉のような宝石に例えて描写しています。御座の周りにある24の座には、白い衣を着て、金の冠を被った24人の長老たちが座っていました。彼らは、旧約の12部族と新約の12使徒によって生じた救いの民を象徴しています。御座には、7つの
今日の箇所(レビ記22:17-33)には、主に捧げ物をする時に最も大切なのは、主を恐れる心であることが示されています。神の民は、聖なる神様に相応しい捧げ物を捧げることが求められています。和解のいけにえには、感謝の捧げ物、誓願の捧げ物、進んで捧げる捧げ物があります。今日の箇所は、誓願の捧げ物と進んで捧げる捧げ物に関する定めについて記されています。和解のいけにえは、傷のあるものを捧げてはなりません。盲目のもの、傷や腫れ物、湿疹、皮膚病のあるものは、捧げることはできません。ただし、
今日の箇所(レビ記21:10-24)には、きよさに関する神様の期待と憐れみについて記されています。神様は、頭にそそぎの油を注がれ、聖なる装束を身に着けている大祭司に、一般の祭司たちよりも高い次元のきよさを求められます。一般の祭司は、近親家族の葬儀には連なることができますが、大祭司は自分の父母が死んでも、聖所から出ることができませんでした。これは、神様から特別に選ばれ、建てられ、聖所に仕える者とされた大祭司の職務が、家族に対する義務よりも優先していることを示しています。また、大祭司
今日の箇所(レビ記20:22-27)には、神様はご自分の民に、世と区別された生き方をすることを望んでおられるということが示されています。世の風習は、神様の望んでおられるきよさとは、かけ離れています。神様は、イスラエルの民に、カナンの風習に従ってはならないと命じられました。風習は、一民族の長年の経験と習慣が積み重なってできた社会文化です。農耕文化を土台としているカナンの風習には、性的不品行と祭儀が一体化した性的祭儀を通して豊穣を求めるというものが含まれていました。これは、世的に見れば
今日の箇所(レビ記20:9-21)には、家族を大切にすることの重要性が強い言葉で説かれています。神様は、三位一体にあるまったき関係をより広く行き渡らせるために人間を造られました。人間は意図的に神様と関係を持つことができるという点で、他の被造物と完全に異なっています。そして、その関係の喜びを味わわせる基礎として、結婚と家族を定められました。それゆえ、家族の関係は、聖書において、殊更に重要視されているのです。神様は、父や母を呪う者を必ず殺すようにと命じておられます。父母を呪うとは
今日の箇所(レビ記20:1-8)には、きよくなる過程において、神様が果たしてくださる領分と私たちが果たすべき領分の両方があることが示されています。モレク崇拝とは、アモン人が行っていた偶像礼拝です。バアルに似た偶像で、その礼拝には性的祭儀が伴っていました。子どもをいけにえとして捧げるという酷い一面があることで知られています。子どもは、主から贈り物であり、民族の未来です。そんな子どもたちのいのちを、自分の汚れた欲望のために踏みにじるような行為を、神様は決して見逃されません。それは
今日の箇所(レビ記19:19-37)には、きよさとは、創造の原理を守ることであることが示されています。神様は、すべての生き物を種類ごとに創造された方です。その方は、異なる種類の家畜を交配することや、二つの種を混ぜて蒔くことを禁じられます。神様は、混じりけのない純粋なものを喜ばれるということです。創造の原理は、自然を観察していれば分かるものもあるし、神様のおきての中に戒めのかたちで記されているものもあります。婚約中の女奴隷と寝ることは罪であり、罪過のいけにえを捧げて贖わなければな
今日の箇所(レビ記11:1-28)には、旧約の食物規定を通して、神様が何を教えようとされているのかということについて記されています。神様は、イスラエルの民が聖なる人生を送れるようにするために、食べ物まで細かく区別されます。この箇所には、食べても良い生き物と食べてはならない生き物が区別されています。汚れていて、忌むべきものに分類されたものは食べてはならず、その死体に触ってもなりませんでした。このような食物規定の目的は、神の民が汚れたものを避けて、きよさを保つことです。今日の私
今日の箇所(レビ記10:1-11)には、神様の御前に出る祭司には、きよさが求められるということが示されています。神様の御前に出るには、常に厳粛なきよさが求められます。にもかかわらず、アロンの子であり、祭司であるナダブとアビフは、神様の命令に従わず、定めを無視して、天幕の外の「異なった火」を主の前に捧げました。神様の命令を軽んじ、形式的に務めを行ったのです。生きておられる主が、火をもって捧げ物を焼き尽くされたことを見ても、彼らは神様の臨在ときよさの前で恐れがありませんでした。神様
今日の箇所(レビ記8:10-21)には、神様に喜ばれる礼拝を捧げるには、場所と人がきよめられなければならないことが示されています。祭司のきよめの儀式と着服式が終わると、モーセは「注ぎの油」を幕屋とその中にあるすべてのものに注ぎ、神様が住まわれる「空間」と「物」を聖別します。また、モーセは、注ぎの油をアロンとその子らに注ぎ、幕屋で仕える「人」を聖別します。人は、自分の力で神様の働きをすることはできません。モーセがアロンとその子らに油を注いだのは、人間の意志や力ではなく、神様の選択と
今日の箇所(レビ記8:1—9)には、最初の祭司の任職式の模様が描かれています。神様は、イスラエルを祭司の国として聖別されました。そして、十二の部族のうち、レビ族を取り分けてご自分に仕えさせ、レビ族の中でもアロンとその子らを聖別して祭司として立てられました。そして、今日の箇所には、その祭司がイスラエルの歴史において初めて立てられた時のことが示されています。最初の祭司の任職式を準備して執り行ったのはモーセであり、祭司とされたのはアロンとその子らです。このために、祭司の装束、注ぎの油
今日の箇所(マルコ7:14—23)には、真のきよさは、外側から入って来るものではなく、その人の内側から出るものによって決まるということが示されています。人を汚すものは、心から出る悪い考えです。これについて、イエスさまはたとえで語られましたが、宗教指導者たちも弟子たちも理解できませんでした。彼らがこのことを理解できなかった最大の原因は、彼らには厳格な食物戒律があり、食べても良いきよい食物と食べてはならない汚れた食物がはっきりと分かれていたからでしょう。イエスさまは、弟子たちに、外か