ブログ記事1,009件
耳下腺がんとの診断がおりてから2日後、長女と長女の彼氏が我が家に遊びにきてくれることになりました。それまで腫瘍ができたことも手術のことも内緒にしていましたが、私の顔面神経麻痺を見たら、イヤでも病気がバレてしまいます。少なくとも腫瘍を摘出したことだけは白状しなければなりません。腫瘍ができて摘出手術を受けたこと、それに伴いしばらくの間顔面神経麻痺があること、これらを伝えるのは確定です。では、がん宣告についてはどうする?心配かけたくない気持ちはわかるけれどもし内緒にされ
坂本龍一さんは、昨年の3月にお亡くなりになった。享年71歳だった。2020年12月に大腸がんステージ4と診断されてからの日々をTVで追っていた。踏み込んだプライベートな部分も多く、本人の日記や写真など、ご遺族の方々の資料提供があってこその映像になっていた。がんの診断があってから、どのように死を受け入れるか、日々体力と気力が薄れていく中、音楽活動と抗がん剤治療をどのように両立させるか、抗がん剤で5年生きながらえるか、あるいは、安楽死を選ぶか、などと日記に葛藤が綴られている。また、過去の生
vol.120自分への投資と葛藤がん宣告から丸6年。最初からステージ4で転移しまくりで、なすすべの無い俺は、医者の宣告通り、「何もしなければ、半年ももたないです」の言葉を信じ切って、でも心の中で(どーせ、何かしてもせいぜい1年。もって2年以内にはこの世ともおさらばだな)と、高をくくって早6年。。。6年も経っちまった。。。嬉しいのは嬉しいのだが、その言葉のせいで無駄に人生を過ごしてきた感もイナメナイ。もし、最初から5年ぐらいは生きますよーって言われたら、俺の人生設計
昨年、私は親友を亡くしたもう少しで一年になる。ーーー離れていても、年に一度の旅行を楽しみにしてきた友達ーー考え方や価値観が似ていて互いの家族のことを何一つ隠さず全て知っている数少ない友達ーーがん宣告からちょうど1年抗うことなく自分の病気をしっかりと受け入れーーー残された時間に自分のやりたいことをまとめ一つ一つやり遂げて天国に旅立った親友ーー自分にもいつかは来る「死」だけど
vol.119がん宣告から丸6年がん宣告から丸6年が経った。7年生進級だ。当時、咳が止まらず、胸も痛くなって、近隣の病院に診てもらった所、すぐがんセンターに行ってと言われ。色々と検査し、6年前の今日、「肺腺がんステージ4です」の宣告を受けた。そして分子標的薬の開始。現在までに、•クリゾチニブ(ザーコリ)約1年↓•アレクチニブ(アレセンサ)約3年7ヶ月ガンマナイフ治療のちに右半身麻痺出現↓•ロルラチニブ(ローブレナ)現在約1年3ヶ月途中、東洋医学に挑戦
2017年、1月18日。がん宣告を受けた‼️子宮肉腫‼️(骨肉腫みたいな、がん)青天の霹靂だった。あれから7年。色々な事があった。ある意味、あのがん宣告が、私にとっての『破壊』の始まりだったのかも、しれない‼️私の残りの人生から逆算して、あのタイミングが、私が変わる、最後のタイムリミットだったと思う。がんになったからこそ、色々な経験をしたし、色々な人との出会いもあり、出会えた事・出会えた場所・出会えた物、本当に色々な事を乗り越えて「今」がある。全く、私の頭の中になかった、
以前の記事でも書きましたが、今年に入り、片耳が突然聞こえなくなりました。耳鼻科では突発性難聴と診断され、ステロイドを含めた投薬治療を行いましたが、効果はありませんでした。その後、鍼灸にも4回ほど通ってみましたが、効果は見られず。現在は、片耳の平均聴力レベルが40dB以上~70dB未満となっています。ということで今回は、こちらのきこいろさんの記事を参考にして、左右の耳が機能することでどのような効果があるのかを知ると同時に、片耳難聴について考えてみることにしましょう。片耳難聴が聞こえにくい
vol.117心境の変化なのかがん宣告から、もう少しで丸6年が経つ。この間、普段では考えもしなかった事や、思ってもみない事の連続だった。この経験を活かして坊さんにでもなれれば、人生捨てたもんじゃなかったかもしれないが、俺はちょっと違った。。いや、だいぶ違った。。。なんと、この期に及んでキレやすくなってきた。すぐカチーーーンとくるようになってきたのだ。40過ぎの小太りでヒゲヅラで金髪のヤカラ風なおっさんが、思春期かと思われるぐらいキレやすくなってるのだ。。つい先日も高速道
今朝は病院に行った。『右腕リハビリ34回目&針生検』今日は午後から、リハビリは34回目。なんかすごく疲れていつものホットパック15分は眠りそうな勢いでウトウトしていた。午後のリハビリもいいなぁとお昼寝気分で思っ…ameblo.jpもらったのは、先日受けた針生検の病理結果。結果は左側も乳がんとの診断🥲なにー⁉️💦😭いったんは以下。病期1(しこり2センチ以下、わきの下のリンパ節に転移なし)浸潤がん右は散らばっていたが今回の左の方が固まっている…というような見立てだった。(右は別にそ
こんにちは。明日は父の命日。桜の好きだった父でしたのでこの時期を選んだかのよう。たまたま闘病中のノートが出てきたので読み返してみると当時の記憶が。昭和人間の父は1に仕事、2に仕事の人。自営業を営んでいたので家庭はその次。当時病魔に蝕まれていることはつゆ知らず。母がお願いだからと健診を受けて分かったガン宣告。もうステージ4で転移もしているため手術も出来ない状況。元々病院嫌いだった父。延命措置も望まず、自然の流れに任せると私たちに残りの時間を悟ったかのよう
vol.116片麻痺者の挑戦と失敗がん宣告からもうすぐ6年。右半身麻痺になって2年と少し。色々と諦めなきゃいけない事があった。もちろん、がん宣告時には人生そのものを諦めなきゃいけなかったが、右半身麻痺になった時は、趣味の釣りやバイク、車、旅、ゴルフ、ランニング、遊泳、キャッチボール、大酒をかっくらって千鳥足すらも諦めてた。諦めっぱなしの日々を送る。。その中でも何とかやってみたのが車の運転。左手一本でハンドルと、左足でアクセルブレーキを操作する。最近は日常の買い物で
母親が、見なくていいように鏡にカバーをつけようかと提案してくれたでも他の家族は鏡見たいだろうし、濡れちゃうから大丈夫と伝えたしばらくはシャワーに入るのが嫌いだった自分の身体を見るたびに、ない胸がズキっとした全摘後、再建を選択しない人も多くいる私にはできない選択だったけど、命を優先しなさいと言われて議論する余地がなかった次の治療の抗がん剤と放射線治療を進めたい先生と、再建できるのか気になる私ただでさえ薄くなっている胸の皮膚は、放射線をした後に伸びることができず、放射線後の
少し前に施術された方のコメントです。施術された方のコメントで繫がり、お見えになる方も増えて来ました。また悲しい事に、がん宣告をされた方も増えてきてるのを実感します。施術後、すぐ変化が表れる方と、緩やかに体調の変化が表れる方も人それぞれです。気になる方は、思考して行動して結果を体感して下さい。東海予約https://lin.ee/j5Pe0gALINEAddFriendlin.ee関東予約https://lin.ee/CQYYdpeLINEAddFrien
お風呂をずっと恐れていた鏡があるから自分の身体と向き合わざるを得ないから見ないようにしようと思えば思うほど、見てしまうものシャワーを浴びているどこかのタイミングで鏡の中の自分の身体と目が合ってしまった辛かったシャワーしながら泣いた部屋に戻ってからも泣いた見たことない新しい自分の身体に慣れるまでには時間がかかったIwasscaredofusingtheshoweraftergettinghomeaftersurgeryTherew
退院の直前、最後に身体に入れていたリンパ液を抜く為のチューブが抜かれた時が、多分一番痛かったまだ跡が残っているから、10年経った今でも思い出す今回の入院は友達ができたから、毎日毎食一緒に過ごした友達を残して退院は少し寂しかったけど、家に帰れるのは嬉しかった1週間後漸く退院家族がお祝いしてくれたTakingthetubethatwashelpingtodrainmylymphfluidonthedayIleft,wasprobablyt
前回の手術は部分摘出で傷も大きくなかったけど、今回は全摘で傷も大きい分痛みも大きかった思っても見ないところで痛みが出たベッドから起き上がる時、腹筋を使ってる時に胸筋も使っているのか術後数日は自分で起き上がれなかったナースさんに起こしてほしいとお願いしたら、自分で起きて下さいと嫌なことを言われたと入院中にできた友達に漏らしたら、その子が看護婦さんに抗議してくれた正義感が強い子だった残りの入院中は、胸に包帯を巻いていて、先生が術後の傷口を見るときだけ包帯を取ったまだ自分の
コロナ禍に重なり始まった、私の闘病少しずつ思い起こしながら、書いていきたいと思いますリンパの腫れに気付いてから宣告を受けるまでの期間が約3か月宣告から手術までの期間が約10日余りある朝いつものように起きて洗面所に向かい歯磨きをしながらふと鏡を見ると・・・「あれ?首筋のリンパが腫れている。何これ??昨日はなかったのに」枝豆大の腫れを見て直観的に「これは・・・」と思った、忘れられないあの朝でも、もしかしたら感染症や炎症による一時的なものかもしれないそう信じたかった私は
今考えると電話でがん宣告って凄いよね?家族と来て下さいって病院も多い中そもそも金曜日に検査って言われてて病院から電話ってあ、陽性だったんだって思うよね?なので私が「電話で良いので教えて下さい」と言ったからなんだけど乳がんだろうなぁって予感もあったからステージ0の非浸潤性乳管がんって事で金曜日に病院行って詳しく聞かなきゃってぐらいの軽い感じだったその後、ネット検索しまくり術後の病理結果までネガティブな気持ちに陥る事になるとは。。この時、取引先の子も乳がんで同じ時期
「人生で大事なこと、色々教えてくれてありがとうあなたのおかげで、毎日人生の終わりのように泣いたり、悩んだりしていたこと、全てどうでも良いことだってわかったあれだけ泣いてた仕事も、病気になってからは何も動じなくなった死ななくないそれ?って思うようになった本当に大事なこと-家族とか、一部の人間関係とかは、一握りその他のほとんどのことは、どうでも良いことそんなのに振り回されてるんじゃないよって、教えてくれる為に来たんだよね当たり前を当たり前と思わず、もっと小さいことに感謝しながら生き
心のどこかで、自分が変わらなきゃいけないんだと思ってた学びなく、同じ間違いを繰り返したら、人生は間違いを理解するまでハードルを用意してくる日本に帰ってきて以来、仕事が辛くて毎日泣いていた時、病気になったら会社に行かずに休めるのに、という縁起でもない考えを持ったことがあったそういう考えで、自分で病気を呼び寄せてしまったのかもしれないと思うこともあった今回こそ、どうやってか、病気に別れを告げたいと思ってた麻酔の針が入らなくて看護婦さんたちが苦戦する中、私は自分の病気との対話をし始め
手術の台に寝た時、緊張で麻酔の針が入らなかった針でジクジクやられてるだけで麻酔がなくても気絶するかもと思ったけど、気を紛らわすために今回は音楽流れていないんですね、と看護婦さんに聞いた実は1回目の手術の際、音楽が流れてた誰の趣味なのかわからないけど、病院らしいクラシックとかではなくクラブのノリでBlackEyedPeasのIGottaFeeling(ThatTonight'sGonnaBeAGoodNight)を聴きながら、麻酔で眠らされた悪い気はしなかった
人間関係には恵まれた入院生活だったかもしれないけど、全摘手術は変わらない医師の切迫した表情を見てから緊張は落ち着いてなかったし、自分が助けを求めるように病院に持って行った本を見てると、メンタルやられたんじゃないかとも思ったそう言っていても手術の日は到来する卵子凍結の時に、時間をかけて説明して、寄り添ってずっと相談に乗ってくれていた先生が、私が先生を慕っているのがどこからか伝わり手術の前に会いにきてくれた手術日は、2013年10月25日。MaybeIwasb
人生には色々なことがあります。まさかの事態もたくさん起こります。八方塞がりのように感じてしまうこともありますよね。けれど、同じような状況の中にいても、さらにはもっと過酷な状況の中にいても、そう感じずにいる人もいます。すべてのことが捉え方で変わります。このリブログさせて頂いたブログを書いた日は、自分が予期せぬ大腸がんになっただろう、、と分かった時に書いたものです。このブログを書いた次の日、ハッキリとがん宣告を受けました。どんな時だって「心だけは自分で決められるのだ」と、身をもって感じ
がん患者の会は嫌いだったから途中で行くのをやめた私にはエネルギーを吸い取られる場所だったからでも彼女はエネルギーを与えまくる子だったまっすぐで、一生懸命で、正義感が強くて、病気にもへこたれない病気だからって自分のこと可哀想がって、うじうじ痛がってても仕方ないじゃんね、と2人で話してた他にも同病の友達は何人かできたけど、同じ部屋で過ごした時間は特別で私は退院してからも、病院に寄る際には彼女に会いに行ってたIstoppedgoingtothebreastca
すぐに話しかけられた同病で同い年くらいの子はお互い珍しかったので、その子は喜んでくれていた人見知りを知らない、明るい子だった私は人見知りなので、センシティブな気分の時にあまり知らない他人にズカズカ入ってこられるのは苦手なタイプでもそんなこと彼女は知ったこっちゃないとの様子で、カーテンを閉めている私のカーテンを開け、朝気づいたら私のベッドに潜り込んできたこともあった最初はびっくりしたけど、時間が経つにつれて入院中仲良くなったItdidn'ttakeve
最初の入院は初めてすぎて緊張したけど、今回は通い慣れたところそれでも緊張している中での大部屋体験はあまり好ましく思ってなかった手術前日の入院で案内された部屋は8人部屋1回目の手術の病室は、患者がお互い話すこともなく、お年寄りが多い静かな部屋だった別にお友達を作りにきたわけでも、余裕があるわけでもなかったので全然構わなかったし、今回もお友達を作る気もなかった部屋に入ったら、みんながカーテンを開けて話していた窓際のベッドには明るい若い子が寝ていて、その子が周りを明るくしてた
本当は全摘でなく、同時再建も考えたかったまだ20代だったし、胸が完全になくなるのは考え難かったからでも主治医に再建の前に命をと言われ、そんなの比較できないだろうと思いつつも、そう言われるのには理由があるんだと思った4ヶ月での再発がどれだけ異例なのか、統計上はわからなかったけどよろしくない状況なのは主治医の言葉や早く手術をしたい想いに伝わってきた緊急枠があったのだろう、セカンドオピニオンを取って、全摘手術を受けると伝えたらすぐに手術日が決まった10月7日に最後の採卵をしてから、
父のおかげで忘れかけた肝心のセカンドオピニオンは、聖マリアンナの主治医と同じ意見だった再発だったのか、取り残しだったのかのかはわからないこと部分摘出の多くは再発することでも若年性がんで進行が早いのは確かなこと一刻も早く手術をした方が良いこと胸を失う前に、生きることを考えないといけないこと最後がとても刺さった聞きたくはなかったけど、本当のことだったやむ無く全摘の手術を受けることにしたThesecondopinionthatInearlyforgotwit
病院についてから、私はいつもの調子で自分の質問や懸念をお医者さんに質問した一通り話し終わったら、父が話し始めた寡黙な父は、ここ4ヶ月、病気のことをほとんど直接聞いてこなかった父の口から出てくる質問は、明らかに娘の病気、乳がんのタイプ、乳がんの標準治療、様々な治療方法を勉強した人の質問だったあの忙しすぎる仕事のスケジュールの中、この人は一体いつこんなに私の病気について知識を貯めたんだろう何も言わないくせに、どれだけ心配してくれてるんだろう表には出さないけど、なんて頼れる父親なんだろ