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このサイトは、凄い!の一言です。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーMeiji-Portraits-BerndLepach-歓迎挨拶o-yatoigaikokunin;ForeignEmployeeswww.meiji-portraits.deこの“Meiji-Portraits”プロジェクトの狙いは、明治期の日本に影響を与えた(全ての)人々を登録することを目的にしています。200年に及ぶ日本の鎖国政策の後、1868年の,いわゆる”明治維新”は日本を発展させるた
なぜ「君が代」にアツいのかよく尋ねられるが明確な回答はない。ただ吹奏楽の歴史を追っている最中に「君が代」が挟まってきたというのはあるかもしれないが、それを知るよりだいぶ前から僕はこの本を持っていた。東川清一著「《君が代》考」やはり日本国国歌であるこの歌の歴史や内容、音楽的考察にはただならぬ魅力があるのだ。決して思想的なアツさではない。この「君が代」成立については以前の記事に書いた。君が代『君が代』我が君は千代に八千代に細石の巌となりて苔の生すまでこれは平安時代の古今和歌集(905
明治時代のお雇い外国人エドウィン・ダンは真駒内に種畜場を作り酪農技術の指導にあたったエドウィン・ダン記念公園にある洋風建物は当時の事務所が移築されたものだにほんブログ村
特にイギリス人、アメリカ人、カナダ人に愛された戦前の軽井沢。一方いくつかの理由からドイツ人は、軽井沢をあまり好まなかったというのが筆者の考えである。その一例が東京医学校(のちの東大医学部)教授として招かれたエルヴィン・フォン・ベルツである。彼は1904年9月に軽井沢を訪問する。しかし軽井沢は、ベルツにとって異様に写ったようで、辛らつに日記に記している。「軽井沢は、気候の乾燥した点で知られており、夏は外人が多数訪れる。主として英米系の新教伝道者で、めんどうな仕事の労苦を、ここに3ヶ月滞
この日は大雨の予想でも何とか持ちました・・・というかラッキーなことに、街歩きのタイミングが雨がやんでいるときにあたりました。まず、朝食をしっかりとご飯が好きなので、毎食お漬物がたっぷりつくのが嬉しいです。まずは東尋坊へ東尋坊とは平安時代の終わりごろ、平泉寺にいた僧の名前暴れん坊の僧でみんなの恨みを買っていたため観光にとこの地に誘われ、酒宴のあと崖から突き落とされたとかなんとなく暗いイメージを持っていたし前日に平泉寺白山神社で名の由来を聞いてちょっと
お雇い外国人とその弟子たち片野勧新人物往来社30人近いお雇い外国人か紹介されている。技術者しか知らなかったが、法律、行政、文学、哲学、芸術の世界でも外人も招聘されている。技術系の人の著述は荒い。結果論かもしれないがなかなかの人選だ。どの人も日本を愛し、日本のために真剣に働いてくれた。明治維新の成功の重要なカギだったと思う。弟子たちも有能だ。威張り散らしていた旧サムライが能吏に変身している。明治維新を人材面から見ることが出来た。
エドモントモレル林田治男ミネルバ書房日本最初の鉄道を作った技術者だ。彼に関してはほとんど何もわかっていない。伝記を書くのは大変だ。そこで著者は客観的事実を徹底的に調べる。それで何とか人生を組み立てる。こんな伝記は正直いって面白くない。本書の半分は彼の生きた時代や周辺の人々の説明に費やされている。これが不思議と退屈ではない。イギリスでの技術者教育のやり方。日本以外での鉄道建設の事情など面白いことが辻次分かるからだ。最初、かれは恩師が発明した造船用のドックを売り込んでいたがうまくいかず、
かつてならば、膨大な知識を、歩く辞書さながら、記憶力の極大が優秀とされ、久しい。知識の源、少なく盛っても起爆剤は西ヨーロッパであり、アメリカ合衆国であった。先生から学び、凌ぐ、のが、国力を高め、ひいては植民地支配から逃れられる、とした。明治の初期のエリートが、外国語、ヨーロッパの言葉に堪能なのはまぐれではなく、伊達や酔狂ではない。外国人の外国語で学んでいた!新渡戸稲造内村鑑三。東京大学と言う羅針盤(司馬遼太郎)が、カリスマを帯びた。※本文とは関係ありません
今日は、クイズから・・・これは、何でしょう?(↓)マンモス・・・と答えた方もいらっしゃるでしょうが、不正解。これは、氷河期の日本に棲息していた〝ナウマンゾウ〟。もちろん現在は絶滅しており、骨格から復元された模型です。この象の名前は皆さんも聞き覚えがあると思いますが、しかしこの名前の由来を知っている方は少ないかも。今日は、この古代象に名を遺したドイツの地質学者ハインリッヒ・エドムント・ナウマンHeinrichEdmundNaumannの命日にあたりま
『ベルツの日記』1889年2月16日条「森有礼暗殺事件とその後」として15話分の記事を掲載しましたが、森有礼はどうして殺されてしまったのか。この点についての言及がまだでした。当時の新聞を見ても良いのですが、句読点がなくて読みにくいので、ここでは『ベルツの日記』を引用します。ベルツさんは明治8年ごろ?にドイツから来日した東大の医学の先生。いわゆるお雇い外国人です。彼の日記がまとまって残っていて、岩波文庫から出ているのですが、現代の日本語に翻訳してくれた菅沼竜太
JohnDalton研究の展望・・・・・・・・・・・・・・・肱岡・内田・徳元・小峰エネルギー保存則発見史研究の一断面・・・・・・・・・・・・・・・・高田紀代志2×4枠組壁工法・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・矢木哲雄函数論の成立期についての研究(Ⅱ)―A.Cauchyを中心として―・・・猪瀬晴代科学的労働と科学史研究(Ⅱ)続・・・・・・・・・・・・・・・・・・肱岡義人金沢におけるお雇い外国人・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・塚原徳道Clausius
ライツ・オン!:明治灯台プロジェクト(単行本)Amazon(アマゾン)392〜6,510円ワクワクします。開国間もない長崎に御雇外国人ブライトンが灯台をつくるために滞在しています。通訳をするのはイギリス人を父に持ち、緑の瞳の丈太郎。緑の瞳を奇異に見られながらも、幼い頃に別れた父が教えてくれた英語を使って生きていく術を生み出している丈太郎。本国に鬱屈のあったブライトンは、それでも灯台を造るための技術を考えている時が一番楽しく同じ技術者の田中久重と知り合ってからは本当に楽
新500円硬貨、製造開始Yahoo!ニュース【大河ドラマ「青天を衝け」明日はどうなる】篤太夫、商才で一橋家を支えようと決意。一方、五代は薩摩で密談を交わす.写真の記事を読む...新貨幣&新紙幣-歴史チップス拳拳服膺!狷介孤高!派閥争いより一族再興!!〜高野山vs東寺!三十帖冊子(策子)事件!!rekishichips.web.fc2.comディーン・フジオカ“五代友厚”本格登場にファン歓喜「また会えて嬉しい!!」スタイリッシュな洋装...モデルプレス初登場時はまだ“サ
レトロ建築を見に行くサイクリングとか好きだ。奈良時代のお寺とかは古すぎて興味は薄いけど、ちょっと生活感のある明治時代以降の近代建築や巨大建造物がいい。見て回る内に、設計者や関係者の経歴にも興味を持つようになった。例えば、中央停車場や大阪中央公会堂、日本銀行を設計した辰野金吾さん。同志社大学や関西学院大学などの校舎、多くの日本基督教団の教会や個人の洋風住宅を設計した滋賀県近江八幡市のウィリアム・メレル・ヴォーリズさん。旧遷喬尋常小学校や吹屋小学校など、江川式疑洋風建築と呼ばれる木造物
モースその日その日磯野直秀有隣堂モースについては本を読んだり、大森に行ったりして調べたことはあるが、全体像を知っているわけではない。そんな私にとって大変ありがたい本だった。人生や業績、時代背景をまとめて教えてくれた。ニューイングランドで生まれ、今ばやりの言い方をすれば「学習障害」があった様だ。学校へはまともに通っていない。どちらの手でも絵が描け、悪筆だったということは左利きだった可能性がある。これは左利きの矯正の嫌な思い出があるので共感できる。貝の収集とそのスケッチに夢中になる少年だった
私が支部長を務める労働組合がある会社では,経営陣と労働組合と従業員持株会が力を合わせて経営するという企業制度を持っています。従業員の99%は,労働組合員と従業員持株会員という身分も持ち,一人の人間の中に3つの立場(従業員,労働者,株主)が共存します。この三者のバランスを各自の中でうまく調和させながら日々の仕事はもちろん,労働組合の活動や持株会員としての経営監視に努めます。それぞれの代表者から組織される企業総会で,企業経営の深い話が議論されます。三者のパワーバランスはとても大切で,経営
バジルチェンバレン19世紀後半から20世紀初頭の最も有名な日本研究家の一人1873年(明治時代)お雇い外国人として来日古事記や日本の国家を英訳文部省の依頼で日本語の文典執筆上田萬年が教えを受けるキーワードアストンアーネストサトウ
【Let'sTalkaboutMuroraninEnglish.#45】January2,2020.IheadedfortheJRMuroranstationareapassingbythehistoricalsiteofMurorancity.MuroranPortopenedherein1872.Well,aroundthisgasstation,therewasawoodenpier.T
【Let'sTalkaboutMuroraninEnglish!#6】Goodevening,guys.室蘭一日一英文、本日も室蘭市公式Webサイトからそのまま紹介。In1892,thePortofMuroranwasopened.Inthesameyear,theconstructionofamainroadbeganfromHakodatetoSapporoasthefirststepofHokkaido’
石井研堂1865-1943〇明治の雑誌編集者「小国民」は明治20年代の少年向け人気雑誌。明治文化研究会を設立し明治文化全集を出版する。〇石井は明治が終わり、明治の記憶が薄れないうちにと、資料の収集を始め、彼の死後1944年に「明治事物起源」という明治の事だけを集めた辞典を出版しました。〇昭和59年日本評論社より復刻された1500ページの中からおもしろいものを紹介していきます。〇分かりにくい旧仮名遣いの一部、候文などを現代口語に直しました。●石井研堂明治事物起源国際
エルゥイン・ホン・ベルツとジュリウス・スクリバ↑西の河原には至る所に足湯が有ります↓↑好天の日でも高温泉の湯気が立ち上り、冬季は湯気だらけになります↓西の河原(公園の中ほど、少し小高くなった所に温泉客を見下ろすように、2体の胸像が佇んでいます。左がベルツ博士、右がスクリバ博士。ドイツの著名な医学者ベルツ博士は、1878年に草津温泉を訪れて以来、度々草津を訪れては時間湯や泉質を熱心に研究し、草津を世界に紹介しました。
市春城1860-1944政治家・文筆家。新潟県阿賀野市生まれ。本名謙吉。ジャナーリスト、衆議院議員、早稲田大学図書館初代館長として活躍しました。交友関係、政治史などについて多くの随筆、記録を残しています。●昭和16年中央公論刊回顧録市島春城選集●変則よりも正則②キング刺殺事件●確かその後外国教師を招聘したように思う。しかして、それは英国人のキングという人であった。この人の素性はよく分からぬが、いかにも人格の低い人で、又教え方もあまり上手ではなく、したがって怒りっぽくて学生を
昨年末に、コンサートツアーからの引退を発表したイギリスのThePrettyThings(ザ・プリティー・シングズ)。今日は、そのオリジナルベーシストであるJohnStax(ジョン・スタックス)と彼の奥さんに会ってきた。そのこともあって、帰宅してからザ・プリティー・シングズのプロモーションビデオをユーチューブで見ていたら、ある日本の物をビデオを中で発見!それはお札。ビデオを見ていると、6分50秒あたりからにメンバーの頭上に降ってきたのだった。これは、降って来るお札を見上げ
1942年7月28日の読売新聞の神奈川版におおよそ次の様な記事が出る。「晴れて日本人ロバート氏父娘帰化。南区太田町オランダ人ロバート・バンダー・ハイデン(64)氏と長女秋子(41)さんの帰化が昨日、内務省から発表された。ロバート氏はオランダ人の父と日本人の母の間に生まれ、慶応大学卒業後日客社員を経て、現在東洋運輸に勤務。秋子さんは横浜生まれで、紅蘭高女(今の横浜雙葉)の卒業生。未だ独身で職業婦人として活動。祖父は30数年前、故国オランダに帰国したまま全然消息を絶っている。」続
お雇い外国人2002/8/8大和心686↑北海道の修道院明治政府の偉いところは多くのお雇い外国人を雇ったことでしょうか、田舎の教師までに大臣より高い給料を払ったとか。中等教育に国家財政をつぎ込んだ明治政府は国家の設計があってのことでしょう立派です。高すぎる彼らの給料と二束三文の美術品副産物としてこれら美術品の海外流失となりましたが日本文化の今に繋がる海外紹介もまた副産物。そしてその人たちの仕事は人に大きな影響を与えました。その中のひとりクラ
1943年に山下町1-1、バンドホテルにいたのがエルネスト・ダ・シルバとその家族。先に紹介したイタリア人のダンテ・デンティチも同じ住所である。こちらダ・シルバ家は、フレデリック・ダ・シルバが、1860年代にマカオに来たポルトガル人と、中国人の子供として1870年に横浜で生まれるところから始まる。彼は日本人女性と結婚し、発展しつつあった横浜港で荷役などの事業を拡大した。その子フレッドは関東大震災の後、家族とともに上海に避難。そしてそこで結婚。横浜に帰還後、本郷町の通称ガス山に二階建ての
しばらくぶりで旧新橋停車場鉄道歴史展示室を覗いてみることに。明治150年記念企画展「NIPPON鉄道の夜明け」を、いささか時期遅れながら、見てこようと思ったものですから。明治になって日本でも新橋・横浜間に鉄道が開通し…とはよく知られたところですが、展示解説は幕末から始まるのですね。嘉永六年(1853年)、ロシアの提督プチャーチンが艦隊を率いて長崎にやってきます。この時、旗艦パルラダ号では機関車模型を走らせて見せたのだとか。これを見てぶっとんだのが佐賀藩士たち。「こ、こんなもの
「Boys,beambitiouslikethisoldman」有名な格言ですよね。でも、調べていたら、チョット違う面が・・本来は帰国に際し島松まで見送った学生たちに向ってクラーク博士が、馬上から最後に一声のべられたもので、その時の状況からみて「少年たちよ頑張れよ!こんな老人も頑張っているんだから」みたいに「さようなら」に代る別れの言葉でしょう。この言葉でさえ一体何人の学生たちが聞きとったか?疑わしい!だから気軽にかけた言葉であって、少年たちに
こんばんは先日の歴博シンポジウム参加の際、明治大学博物館特別展【ウィリアム・ガウランドと日本の古墳研究】の招待券をいただいたので出かけて来ました博物館は明治大学アカデミーコモンの地下階にありますウイリアム・ガウランドはいわゆるお雇い外国人として明治初期日本に招かれた英国人技師です大阪造幣局に勤務する傍ら趣味の登山や古墳研究でも功績を残しました「日本アルプス」の命名者であり、古墳研究では日本全国を歩き数百基の古墳を当時としては先進の測量・記録手法をもちいて調査し