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今日のドライブは高速道路を走りました。北陸自動車道の小谷城スマートインターで降りましたよ。左に行きました。この信号を右に曲がるとこの辺りは緑が多くて癒されます。登場です!小谷城(おだにじょう)は浅井長政、お市の方お茶々、お初、お江三姉妹の居城でした。この辺りは空気の綺麗な、とても環境のよいところです。次に山本山城趾のそばを通りました。うっかり写真がとれてなく、下の山が山本山です。上から読んでも山本山♪下から読んでも山本山♪のCMが昔ありましたね。海苔屋さんのCMです。
◆2019年10月16日(水);北国街道を歩く6日目は、加賀温泉から福井駅前のホテルに戻ってもなおも時間がありましたので、福井市内観光へと出かけました。市内観光と言っても、お城巡りです。福井城と北ノ庄城です。まずは福井城へ、橋の向こうに、福井県庁が見えます左手に、福井県警本部本丸を囲む内堀は当時のままの姿県庁前に建つ結城秀康公騎馬像福井城本丸復元図福井城天守台「福の井」寛文九年(1669)に焼失した天守山里口御門(櫓門)
史跡巡りの記事です。今回は、緊急事態宣言が解除されてからの初めての訪問です。あんまし遠出はできないので、同じ名古屋ナンバー圏内の常滑です。お江が最初に嫁いだ佐治氏の居城です。常滑大野城(とこなめおおの)大野城は、佐治宗貞が入城し、4代、百年あまりの支配が続きました。佐治氏は、伊勢湾海上交通を掌握する佐治水軍を率いていました。3代、信方の頃に織田氏に従いますが、信方は若くして討ち死に、4代、佐治一成は、お江を妻に迎えます。しかしながら羽柴秀吉と敵対して追放されて、大野城は、信長の弟であ
すごい帯を発見したこといつもご覧くださる皆様、本当にありがとうございます。心から感謝致します。皆様にとって良い事がたくさんありますように!もう戦国時代から江戸時代の女性や信長・秀吉・家康関連なら♡な人にはたまらない帯を発見しました。東京ますいわ屋さんという呉服屋さんが出している帯です。https://www.masuiwaya.co.jp/main/product/2018/12/manyou-karakosode.html創作唐
(誰か、いるのか?)どう聞いても素振りをしている音に聞こえるが、大人のそれにしては些か強さがない。ならば子供だろうか?しかしこの時刻に江戸城にいる子供など秀忠の子だけであろうはずで、男の子供は竹千代と国松だけだ。国松は先程見かけたのだから違うだろう。いったい誰がいるのだろうか。不思議に思って音のする方へそっと足を向ける。この先には秀忠が剣術指南役である柳生宗矩(やぎゅうむねのり)と共に稽古をする庵(いおり)があったはずだ。こっそりと庵のある方を覗き見れば、庵の側で国松と同じくらいの
江戸城は広い。だが城を家としている竹千代は迷うことなく庭園を歩いていた。既に太陽も赤く染まろうとしている。先程まで竹千代はお福に言われた通りに書物を読み、お福相手に剣術を学んでいたのだ。難しい書物に小姓達と交わす形ばかりの会話。容赦なく打ち込まれる木刀に竹千代はクタクタだった。お福は病弱で覇気のない竹千代を厳しく教育し、一切の妥協を認めなかった。九歳になった竹千代にはもう、大人達の「世継は竹千代君ではなく国松君になるのではないか」という言葉の意味を理解しており、世継でなくなった自分がどうな
「国松(くにまつ)、君……」国松と名付けられた竹千代の弟はお福の目の前でお江与の腕に抱かれていた。国松は次男ということもあってか、乳母は決められているが規律はさほど厳しくはなく、産まれてもお江与から取り上げられることはなかった。優しい眼差しで国松を見るお江与は美しく微笑んでいる。お福の隣で大人しく座っている竹千代は初めて見る赤子に目を真ん丸にしていた。「若君のご誕生、お喜び申し上げます」「本心でない喜びなど必要ない」国松に向けていた優しさなどどこにもない凍てついた瞳がお福に向けられた
世継として産まれた竹千代は乳母のお福(ふく)に抱かれながら育ち、お福の息子である稲葉(いなば)正勝(まさかつ)らが小姓(こしょう)に付けられた。竹千代が産まれた翌年には家康が大御所となって将軍職には秀忠がつき、お江与の腹には再び命が宿っていた。それに危機感を抱いたのはお福だ。一歳になった竹千代は病弱で、少し成長も遅かった。お福は寝食を削って竹千代に寄り添い、その成長を我がことのように喜んだ。もはや我が子同然の竹千代が己の乳を懸命に吸い、あどけない笑顔を見せてくれる。初めて寝返りをうった
「和子を……和子が……」よろよろとお江与はふらつきながらも立ち上がる。「若(わか)御台(みだい)様?いかがなさいました?」たった今出産を終えたばかりのお江与が目を見開いたまま立ち上がったのを見て、女中達はお江与を止めようと腕を伸ばす。側にいた秀忠も困惑していた。「お江与?急にどうしたのじゃ」立ち上がってお江与を抱き留める秀忠であったが、お江与は止められたことに怒りを覚え、感情のままにその手を振り払った。「和子を……和子を返すのじゃッ!私の和子を――ッ!!」ぼろぼろと零
慶長九年。徳川家康が朝廷より征夷大将軍の位を拝し、江戸に幕府を開いてまだ一年目のこと。夜の江戸城西の丸に小さくも元気な産声が響き渡った。期待を込めて家康の幼名である竹千代と名付けられた和子は、家康の三男である秀忠と妻・お江与にとって待望のお世継ぎだった。「おめでとうございます!若君様にございます!」と出産を見守っていた女達がお江与の手を握って歓喜の声を上げる。「そうか……若か……」荒い息をはき、汗で頬にその美しい黒髪を貼り付かせながらも、お江与はそうか、そうかと何度も呟いては隠し切
みんな元気ですか続きだよ・・・長く続いた家系をもつ家柄は日本にはいくつもありますがこれをジョークのネタにしたこんなお話があります。「当家には、昔はもっと良い宝物があったんですが戦争でかなり焼けてしまったんですよ。いやいや太平洋戦争の時ではなく応仁の乱の時ですがね」・・・これは1993年8月に日本の第79代首相になり7カ月で退陣した細川護熙(ほそかわもりひろ)氏の父親が言ったとされる細川家のジョークです。ちなみに細川家は家系図を
「麒麟がくる」では、明智光秀が、信長に臣従する日は、まだ先のようだ。ただ、美濃の明智の終焉が近づいている。この時から25年ほど先のことになる。織田信長が、全国に領地を拡大する過程で各方面を持ち場とする軍団が必要になってくる。最終的に信長は、6つの軍団を有した。その最大のものは、嫡子・信忠による軍団だ。家中最大の軍団で、尾張衆や美濃衆からなる。次いで、筆頭家老・柴田勝家が北陸方面軍の軍団長、羽柴秀吉が中国方面軍の軍団長、滝川一益が関東方面軍の軍団長、丹羽長秀は四国方面の副軍団長
京都に行って、3時間程度余裕ががあれば、市バスの三十三間堂前で降りて、長谷川等伯らの襖絵のある、智積院、妙法寺、三十三間堂、京都国立博物館そして、この養源院を周るのがいいかもですね。さて、養源院は、文禄3年(1594年)に、豊臣秀吉の命により自害を命じられた、北近江の戦国武将・浅井長政の21回忌の供養のため、豊臣秀吉の側室・淀殿が秀吉に願って創建された供養寺です。浅井氏の菩提寺です。開山は浅井氏の庶流にあたる比叡山の僧成伯法印(伝・長政弟)です。時代に翻弄された浅
さ~て、さてさて、増上寺をたずねての最終回を締めくくるのは「徳川将軍家・墓所」です。解説等は資料や文献をお借りしますので、ご理解ねがいます。この門は旧国宝で「鋳抜門」とよばれ、もと文昭院殿霊廟(六代将軍徳川家宣公)の宝塔前『中門』であったものです。左右の扉に五個づつの葵紋を配し、両脇には昇り龍・下り龍が鋳抜かれている(青銅製)。規模は勿論のこと、その荘厳さにおいても日光東照宮と並び評された往時の姿を今に伝える数少ない遺構であります。増上寺は東京上野の東叡山寛永寺(天台宗)と
こんにちは!暦と旅の案内人こよみすとプロデューサーの藤野です。早速ですが、今日も、皆様を大人のタイムトラベル〜暦と歴史の旅〜にご案内したいと思います。藤野の大好きな「江戸時代」(とその前後)を舞台に、皆様ご存知の歴史上の有名人(じゃない人も出てくる)をご紹介しながら、暦を読み解き、歴史を紐解く、ちょっと不思議なタイムトラベルへお連れします。旅の知識・楽しみ方ランキング日本史上、「幕府」(武家の政権)は三回できま
今回は本のこと、と言うか、こちらの本を読んで知ったことの話ですこちらの中村彰彦という方は初めて読みますエンタテインメント小説大賞中山義秀文学賞直木賞【二つの山河(1994年)】新田次郎文学賞などそうそうたる受賞歴がある方でしたこの本はエッセイだったので非常に読みやすく、歴史上の人物で今まで知らなかった人のことを知ることが出来ました♪出てくる人物をあげていくと長野業正(なりまさ)柴田勝家立花道雪高橋紹運立花宗茂浅井長政源頼家と武田勝頼真田昌幸赤備えの話間野甚右衛
お江は信長の姪である以前に浅井長政の娘でしょう?信長は叔父である以前に父の仇のはずでしょう?秀吉は、信長の命令で父を殺した男でしょう?さらに養父である柴田勝家と、母のお市を殺したのも秀吉でしょう?父の仇である信長を殺して、父と母と養父の仇である秀吉に殺された明智光秀を、なんでいつまでも恨むの?この話、おかしいとおもいませんか?もし、お江がお福を嫌っていたとすれば、それはお福が駿府の家康が送り込んできた「監視官」だからです。お福は、京都の公家・三条西家で育ったエリート家庭教師であり、
金山天満社愛知県常滑市金山に鎮座している。ここへはママチャリツアーこの時に訪れました手水舎祭神菅原道真公拝殿拝殿の裏手に本殿鳥居拝殿にある天満宮の表札お牛様村社天満社本殿狛犬様がいらっしゃいます筆を型どったお百度石創建は不明だが近くの尾張大野城主佐治一成が浅井長政の三女、お江の方と1583年に嫁いだ事を考え、天満社はお江の方のゆかりの場所とあるので、その頃にはあったと思われます年末に名古屋市千種区にある城山神明社に行った事は、ブログを読んでいる方はご存知
出先から家に戻ろうと車を走らせたら、家と反対方向に引っ張られましたどこに行くのか、行こうとしているのか自分では訳がわからないだけど途中からセミオートの様な状態に任せてみることにしましたそして今たどり着いたのがここあれ❓心行寺って❓❓もしやと思い見てみたら昨日まわった深川七福神の1つも心行寺というお寺でした❗️更に昨日歩いている時に阿茶局という方のお墓があるお寺を通って、徳川家康になんとかと書いてあったのですが、ここ心行寺も説明板に徳川家の事がでてきてまたまたびっくり‼️徳川家
こんにちは。芝公園のクリスマスマーケットに来ています。約束の時間まで少しあるので、増上寺へ。BBAの暇つぶしカフェ<<<寺院仏閣東京タワーのお膝元に家康公が祀られています。不思議なコントラスト。ここからは、徳川家霊廟です。中の写真はなんとなく控えちゃいました。2代将軍秀忠・6代家宣・7代家継・9代家重12代家慶・14代家茂の6人の将軍のほか、崇源院(2代秀忠御台所お江)、皇女和宮(14代家茂御台所)ら5人の正室、桂昌院(5代綱吉の実母)はじめ5人の側室、さらに3代家光
先月、秋晴れの日に行われたイベントは「ソーシャルキャッスルマーケット」(UPするのが遅れました)今年は大天守閣再建60周年の記念の年です。いつもはTV塔の辺りで「ソーシャルタワーマーケット」として行われるのですが、今TV塔辺りは再開発の工事中なのでお城の敷地内で開催されました。ブースの数も170くらいあり、とても回り切れません。とにかく、物販、飲食、体験といろんなお店があります。古い物も若い人には新しく感じるので人気があるそうです。
本丸跡の一段高い場所へ櫓跡に佐治神社がありました。佐治氏を祀ってあります。佐治神社常滑市には、佐治姓がいまだ、見受けられます。この大野城の佐治氏は、近江出身だそうです。知人の佐治さん♀は、非常に賢い女性で、弥生人的な顔立ち。近江の血が入っているのかな。ちなみに、徳川家康の母親於大の方が再婚した阿久比城主の久松氏。前妻おかん様は、佐治から嫁いできたらしいです。それにしても眺望がいいですね~伊勢湾の向こうに三重県が見えます。下方には青海団地右下も曲輪跡と思われます。出丸跡
今日のaskingこれも自己憐憫になるのだろうか?こんばんはもりしたわこです首里城ショックでしたね言葉にもなりません・・・人生で1度しか行った事ないですけど・・・綺麗なだけでなく、知らない歴史を教えてくれました。私は、沖縄の人がなぜ独立を願っているのか・・・何故中国が沖縄を自分の領土のようにいうのか?不思議でしたが、全ての謎は首里城に答えがありました。その歴史を教えてくれたのは、沖縄に留学している中国の子でした。歴史とは・・・領土とは・・・
今日のaskingさらに楽しく変化に順応するには!?こんばんはもりしたわこです即位の礼の日、皆さん何していましたか?私は、mochiちゃんと東京神社巡りしましたよでも都内の交通規制はかなりすごいとのニュースランチ食べながら決めようと・・話に花が咲いてかなりいい時間にmochiちゃんは、宇佐神宮のメッセージをくれた一人🌟ここでの流れから行くことになった宇宙の流れに乗った経緯きっと、mochiちゃんの話を聞いて、フ