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NHKのザ・プロファイラーで浅井三姉妹をやっていた。再放送だったけど興味深いものだった。気になったところだけ上げると淀殿が、秀吉に父と母の供養をお願いしたことだった。浅井長政とお市は有名だけど、京都の養源院が菩提寺とは知らなかった。今も二人の肖像画があるらしい。淀殿は、妹のことを考えて秀吉の側室になったと言っていた。それと妹の嫁ぎ先もお願いしていたみたい。淀殿を三大悪女などという人もいるらしいが、私はそんなことはないなとこのことを聞いて思った。家族思いの淀殿だと思うし、ドラ
あいも変わらず遅々としてます💦お江と徳川秀忠の子…つまり、浅井、織田、徳川の血を引いているわけなんだけど、そこから天皇陛下に至るのが、家光と勝姫今回は勝姫から天皇陛下まで勝姫は、結城秀康の子、忠直に嫁ぐのだけど、この結城秀康、秀忠の異母兄にあたる人家康の正妻の築山殿が、秀康の生母を側室として認めなかったので、次男であるにも関わらず低い扱いを受けている一時期は豊臣秀吉の養子となり羽柴姓を名乗ったこともあるその秀康と側室の間に生まれたのが忠直忠直は当初、家康や秀忠から慈しまれたけれど、
〇中部国際空港近くの夕陽知多半島西部伊勢湾沿いを走る名鉄常滑線。現在では中部国際空港へのアクセス路線として、愛知県都名古屋から特急列車一本で行ける路線です。しかし、その一方で普通列車は2両だけの電車とローカル線の趣も強い。今回はそんな知多半島西部を行ってきました。名鉄西ノ口駅にて下車。列車越しに見える小高いあの丘こそ、大野城があった場所です。駅から歩いて丘を目指せば大丈夫…と言いたいところですが、丘へ上がる登り道は住宅街となっており、細かい路地を入り組んでおり、真っすぐへはいけない。
常滑(とこなめ)市の城と史跡巡りに行ってきました!常滑市は、かつてにっぽん城まつりが開催されていた国際展示場や中部国際空港・セントレアがある海沿いの町。ここに浅井長政三女・お江(後の崇源院)ゆかりの伝説が残っています。大野城落城浅井長政の三女・お江は羽柴秀吉の命により、知多大野城主・佐治一成に嫁ぎます。しかし佐治一成は小牧・長久手の戦いで徳川家康に味方したため改易。お江も離縁されます。その後、大野城も敵に攻められ落城したといわれています。お江の計略この時、お江は佐
愛知県や名古屋市の城跡や歴史史跡を巡るコミュニティ・愛知ウォーキング城巡りクラブで常滑市の知多大野城址に行ってきました!知多大野城は戦国時代にこの地に勢力を持っていた佐治氏の居城です。今回はそんな知多大野城のポイントを3つ紹介します。水軍の城の雰囲気が残る知多大野城址は佐治水軍の本拠地だった山城です。今でも城内には曲輪、堀、土塁、切岸、櫓台跡などの遺構がよく残っています。本丸には展望台があり、そこから伊勢湾を望む事ができます。当時は白塗りの天守は無かったと思いますが
https://news.yahoo.co.jp/articles/27ba82daece52fdf05df58b77517125888a6b49d?page=3将軍の後継者はどちらにすべきだったのか高崎城に幽閉された徳川忠長(おとなの週末)-Yahoo!ニュース血を分けた兄弟が、権力闘争の果てに迎えた悲劇。天国の秀忠と江夫妻は忠長の自刃をどう見たのでしょうか?ちなみに忠長には子がいませんでしたが、松平長七郎という架空の人物が、忠長の子として語られるようnews.yahoo.co.j
現在再開発の麻布台ヒルズ2023年11月23日オープンだそうでヒルズに隣接している神社、社号標は「八幡神社」西久保八幡神社の一の鳥居麻布台に上がる石段(男坂)を上がる息も上がる高層ビルを背にした、二の鳥居と社殿が見えてきた手水舎西久保八幡神社は、港区虎ノ門にある八幡神社源頼信(多田満仲の四男)の祈願により寛弘年間(1004年-1012年)に霞ヶ関に創建され太田道灌の江戸城築城に際して現在地へ遷座崇源院(徳川秀忠室・お江)が関ヶ原の戦での戦勝と安全を祈願し
本日もお読みいただきありがとうございます。一昨日の七条。実はペストリーブティックでお茶をする(前記事)前にこちら養源院を訪れました。向かって右手は三十三間堂です。俵屋宗達の杉戸絵が観たかった養源院には初めてお伺いしました。京都に引っ越す前、観光であれだけ通っていた時期にも何故訪れたことがないのだろう(・・❔と記憶を辿ってみたら。。。「血天井」が怖かったからなのです。拝観できるのは毎日ではありません。養源院は戦国武将浅井長政の菩提寺です。文禄3年(1594年)長政の
養源院は、淀殿が父・浅井長政と祖父・浅井久政らの追善のため建立した寺。妹の崇源院は、大坂の陣で自害した淀殿と秀頼の供養を営んでいます。間もなく落雷で焼失してしまいますが、崇源院が伏見城の遺構を用いて再興。本堂の天井は、伏見城の戦いで自刃した兵士らの血で染まった廊下を使用しているのだといいます(血天井)。血天井は、勝林院の塔頭宝泉院・正伝寺・源光庵・瑞雲院・宇治市の興聖寺にも伝えられているようです。
「家康は側室15人」も子の秀忠は側室いなかった訳徳川家康は、築山殿と朝日姫という2人の正室に加えて、15人の側室を持った。側室の人数については諸説あるが、家臣と同様に、側室にも個々のパーソナリティを踏まえた役割を与えているのが、なんとも家康らしい(…toyokeizai.netと、云われているが!!当時の相関関係、状況を、並べ、比してみると、三代将軍家光の家康への異常なまでの思いと、保科正之の徳川意識は、他にみあたらず、秀忠の子ではなく、家康の子と考える!!と、すれば‼徳川家には
歴史の裏舞台と謂うべきか?歴史に残らぬ数多(あまた)の軌跡が確かに在る。其の軌跡を編み込みながら命の架け橋は、細く・刻に太く螺旋を描きながら人の生を歴史へと紡ぎ合わせて逝く。
大野城@常滑市お市の方三女のお江がわずか10歳で嫁いだ佐治氏の城三度目の結婚で将軍秀忠の正室となり、三代将軍家光を産む現在は城山公園として整備されている入口裏口碑どうする家康ののぼり旗天守佐治神社ちょっとダンスするメイかわいい
その2は、「お市の方」の3人の娘のその後について書きます。戦国時代において、茶々、お初、お江の3人の娘たち程、時の権力によりその運命を大きく変えられた者はいませんでした。三姉妹のその後三姉妹は、一度は豊臣秀吉の庇護下に置かれますが、長女の「茶々」は、父母の仇である秀吉の側室に、次女の「お初」は、実父の浅井長政の主筋である京極高次の正室、三女の「お江」は、秀吉により2度再婚させられて、最後は徳川家康の嫡男徳川秀忠の正室として嫁ぎます。「茶々」は、「淀殿」と呼ばれる
2022年12月10日土曜日増上寺徳川将軍家墓所徳川家霊廟の前にある港区の文化財四菩薩像港区の文化財増上寺鋳抜門徳川将軍家墓所徳川家霊廟大人500円ハガキが三枚入ってました墓所の中から見た門東京タワー🗼と徳川家最近、徳川家に興味がある長女この日で1番テンション高くなったのが二代将軍秀忠様(徳川家康の息子)秀忠様の正室お江様(徳川家光の生母でもある)『お江様〜』と喜んでました❤️徳川将軍家墓所~徳川家霊廟~戦災にて焼失した旧徳川家霊廟は、現在
たくさんの種がこぼれます。黒谷はどこもかしこも紅葉(もみじ)して会津小鉄の墓も見えたり…©黒谷(くろたに)は京都市にある金戒光明寺の別名です。時代劇映画のロケ地としても知られています。学生時代に京都に住んでいたのでよく足を運びました。お墓がたくさんあって、幕末維新の争いで亡くなった会津藩士の墓には、平成の時代にも誰かが花を供えていました。任侠の人、会津小鉄サンのお墓もあって、お盆には黒紋付のお姐さんがお参りに来ます。おっと、お江(ごう)様の宝篋印塔
梅小路京都西のホテルエミオン京都千里うなぎ行列してるねーでも、予約してるんだなー店内には、鰻の水槽がー鹿児島県大隈産の養殖鰻みたい特上うな丼炭火焼きなので、香ばしいです肉厚の鰻だよー肝焼きも付いてます七条の養源院淀殿が、父、浅井長政追善のために、創建するも、のちに、焼失徳川秀忠夫人、崇源院(お江)が伏見城の遺構を移し、再建本堂の広い廊下の天井には、伏見城落城時に、徳川家の家臣、鳥居元忠らが自刃した廊下の板が使われ、血天井として有名です血天井と聞くだ
2022-04-01会津藩の人たちのお墓なんだ〜さっきの後ろ姿の人だ藩主の松平容保さんだったのね〜若いねチャンリンシャン♪かな?裏側〜あ、違うみたい…手を合わせて、離れますお墓を出て歩きます入ってみようまろんの目に止まる物は特に何もなし…違う門から出ました達筆過ぎて、どこに行くのか分からん会津墓地とは違う方へ行こうあーっ!塔があるじゃ〜ん上がってみましたよ景色良い〜〜〜〜っ下りますかなり下りました橋〜の手前にお江ちゃんの供養塔?おぅ♪浅井三姉妹の末
徳川家の菩提寺、広いです、大きいです。屋根瓦の葺き替えが終わり本堂(安国殿)が姿を姿を現しました。角が1本↓東京タワーです。↓このお寺さんは浄土宗、法然上人の子供の時のお姿。12月1日紅葉が綺麗でした、今年は早い!↓四菩薩様↓横の紅葉が真っ盛り、↓貞恭庵14代将軍家茂公正室皇女和宮様ゆかりの茶室。↓1番奥にある水子供養のお地蔵様、昨年までは3段でした。断捨離されちゃったのかな?たくさんの数なんですよ。2代秀忠公と正室お江の方のお墓、側室を持たなかった。
この日はネタを思いつかず、以前常滑の大野城に行ったときに書いてあったお江が逃げたとされる大興寺に行ってきました。お江はあの浅井三姉妹の次女で、後の江戸幕府2代将軍徳川秀忠の奥さんですね。大河ドラマ「江」(未視聴)の主人公にもなった人物です。最初の嫁ぎ先は愛知県常滑市にある大野城の城主佐治氏とも言われていますが、この辺はもやっとしたところもあるようです。大野城のパネル展示に大野城が攻められてか何かのときにお江が逃げたのが、この日に行った知多市にある大興寺と書いてあったと記憶していま
過去世解放セッションお申込みこちらからおはようございますもりしたわこです私の愛する神社が立派な装いでほぼオープンしていましためっちゃ綺麗じゃないこんなに美しく変わるなんてなのに・・・おみくじ10円のままでいてくださるなんて、神社さんありがとう思わず関係者の女性にお礼を伝えてしまったここのおみくじは本当に恋愛のコメントはピンポイントに当たるのです彼氏とうまく行っていない人=今の人
京都旅に戻って、四条大宮でバスに乗り換え更に30分東へ。幕末、会津藩の本陣となった金戒光明寺に行きました。門には「京都守護職本陣」の表札。横には会津藩殉難者墓所の碑。いつか来ねばならなかった所です。少し進むと山門!でかい!内側からも山門を見ようと振り返ると、京都盆地が一望!この大寺院にこの立地1000人と言われる会津藩兵を置くのに相応しいのが良く分かりました。そんな感じで160年前に思いを馳せながら本堂を過ぎると熊谷直実鎧掛けの松!
ポンチョレインコート自転車レディースメンズ軽量雨具防水バイク山登り通勤通学に対応男女兼用反射シート付き袖ありローズレッドAmazon(アマゾン)1,680円今日は感動的なブログを長年付き合いのあります友人と、増上寺に大門で待ち合わせをして行きました初めてでした感動でしたお寺と東京タワー本堂だろうけど、宝物殿には本殿と書いてあるご挨拶をいたしましたら丁度太鼓が鳴りましたので中に入ってお経を聞きました大変品のある!気持ちの良いお経だな
こんばんわ。歴史アロマ香水®を作っています桃龍です。このブログを訪問いただき、読んでいただきありがとうございます🙇今回は、徳川三代将軍である徳川家光の香水を紹介致します。徳川家光は、徳川家康の孫であり、徳川秀忠と織田信長のめいである恐妻お江の間に産まれた長男であります。徳川秀忠の嫡男として乳母春日局に養育される。幼少期の家光は、病弱で容姿は良いと言えなかった。そのため、父母が溺愛していた次男忠長との間に世継ぎ争いがあった。そこで家康が一案を案じ、家光を上座に座らせ、忠長は一段低いとこ
こんばんわ。歴史アロマ香水®を作っています桃龍です。このブログを訪問いただき、読んでいただきありがとうございます🙇今回は、歴史アロマ香水®徳川秀忠を紹介いたします。父、徳川家康と子である徳川家光に隠れている地味な存在である徳川秀忠。長篠の戦いで武田勝頼を打ち破り、勢いにのる徳川家康の三男として浜松城にて生まれる。幼名は、長松。彼が生まれた年に家康の長男である信康が20歳の若さで切腹。その上、次男秀康はブサイクなために家康から疎まれていた。そして、秀康は小牧・長久手の戦いにて和睦の条件と
お江ゆかりの城跡を訪ねたことがある。かろうじて天守に似せた建物があるだけで、何とも寂しい状況にあった。お江といえば、徳川幕府2代将軍秀忠の正室である。信長の姪にあたり、数奇な運命をたどった人物である。実は、その日、城跡とその周辺を近所の人たちが草むしり、清掃をしていた。観光客が多数訪れる場所ではないものの、地域の憩いの場として、きれいにしようとの取組みだろう。遠くに太平洋が見える。海沿いの場所は潮風がなびき、頬をなでる。ちょうど、暑さがひと段落した時期だから、心地よ
徳川幕府成立の陰で、徳川・豊臣の戦いの渦に翻弄された千姫。モデルは凛とした眼差しが印象的、着物ベストドレッサ-賞も受賞された武井咲さん。父は後に徳川二代将軍となる徳川秀忠、母は浅井三姉妹の末娘お江。ここで浅井三姉妹について、その母は織田信長の妹お市の方、父は浅井長政。浅井家は長浜・小谷城の戦いで信長により攻められ陥落し、お市の方と三姉妹は織田方により救出されます。本能寺の変で信長が亡くなった後、お市の方は三姉妹を伴って柴田勝家に嫁ぎますが、織田家・跡目相続の勢力争いが勃発、柴田勝家は
緑の海。清水寺から京都市街を眺めてみた。時期的には桜の時期だったが今年は桜が早く新緑になっていた。あまり期待しないで行ったのだが緑もなかなか美しい。新緑も様々な緑がある。そよ風に吹かれ木々の葉が動き同じ葉でも様々な表情を見せる。濃い緑、淡い緑、時々混じる白い花。一幅の絵画のようである。養源院。淀の方、お初、お江与の父であり織田信長の妹のお市の方の最初の夫だった浅井長政の菩提寺。俵屋宗達や狩野山楽の絵画と血天井で有名な寺院である。血天井は1600年の関ヶ原の戦いの前哨戦だった
千姫の母=お江秀頼の母=淀殿従兄妹ということになる千姫母お江の母はお市(信長の妹)父は浅井長政父秀忠の父は徳川家康元夫秀頼父秀吉母淀殿=浅井茶々淀殿は浅井長政と信長の妹お市の長女信長が浅井を討ったのは有名な話新夫忠刻父本多忠政母熊姫熊姫の父は松平信康その
みんな元気ですか続きだよ・・・長く続いた家系をもつ家柄は日本にはいくつもありますがこれをジョークのネタにしたこんなお話があります。「当家には、昔はもっと良い宝物があったんですが戦争でかなり焼けてしまったんですよ。いやいや太平洋戦争の時ではなく応仁の乱の時ですがね」・・・これは1993年8月に日本の第79代首相になり7カ月で退陣した細川護熙(ほそかわもりひろ)氏の父親が言ったとされる細川家のジョークです。ちなみに細川家は家系図を
この日で9月もおしまいでした。8月後半から仮住まいで仮のような生活をしているのでますます日々がフワフワと夢の中のように過ぎていきますそして、そうは言いつつ、そろそろ仮住まいの生活も終わりが見え始めて来たころ。知多半島にいる間に、気になっている場所に行っておきたいこの日は、常滑市の大野城跡にgo~go~ターシャが来る前、ひな一人の頃は、このそばの大野海岸によく遊びに来ていて、でも、その頃はお城の事は全く知らず・・・ある時、バイク乗りの知人から、大野城