ブログ記事19件
【御礼〈其の三〉11/12「読書のすすめの落語のすすめ」三回に分けて報告させていただいています】江戸川区篠崎「読書のすすめ」での毎月一回の落語会「読書のすすめの落語のすすめ」に、足をお運びいただきました皆様、誠にありがとうございました。三遊亭神楽師匠と兄弟子の三遊亭全楽師匠の、真打ちの師匠お二人の贅沢で珠玉な二人会、お陰様で144回目。今回の演目は、三遊亭全楽師匠『時そば』三遊亭神楽師匠『死神』【〈其の三〉11/12「読書のすすめの落語のすすめ」】「読書のすすめ」私からのオス
私は、宮地水位先生の事を知る前、山岡鉄舟先生、小倉鉄樹先生に憧れていました。🥰鉄舟先生の事を知る事が出来たのはこの本のお陰。私にとっては大切な本です。😊私が水位先生の事を知る事が出来たのは、鉄舟先生、鉄樹先生のお陰でもあると思っています。お二人共禅を極めた方ですが、鉄樹先生は門人の方にトホカミエミタメを唱えるよう指導されていましたが、私も曾て三種太祓を自宅と神社で繰り返し唱えていました。鉄舟先生の流れを継承された大森曹玄先生は確実に宮地神仙道と関係があり、私の感は間違っていないと思
前回の「運」に関する話の続きです。😊今回は私が宮地神仙道の師仙に次いで敬愛する山岡鉄舟先生の話です。🥰以前もお話しましたが、私を宮地神仙道に導いて下さったのは産土神と山岡鉄舟先生、小倉鉄樹先生だと思っています。世間一般には江戸城無血開城は西郷隆盛翁と勝海舟翁の会談に寄るものと思われていますが、実際には、その会談の前に西郷翁と鉄舟先生の下交渉によるお膳立てにより成ったと言っても過言ではありません。鉄舟先生は官軍本陣に益満という薩摩藩士と共に向かわれたのですが、本陣に着いてからの第一声が実に
少しばかり、山岡鉄舟に関する情報をお届けしたい。最近、昭和12年に春風館から刊行された『山岡鐵舟先生正傳おれの師匠』の文庫版が登場した。私はまだ見ていないけれど、ちくま学芸文庫から出ているようだ。手軽に文庫で読めるのはいいことだ。ただ、旧漢字旧仮名遣いにチャレンジしたいと思う方は、ぜひ古書をみつけて読んでみてほしい。古文書への入口になるからだ。また、『定説の検証「江戸無血開城」の真実』(水野靖夫著)が出た。過去の出来事を明らかにするために、あたかも裁判のように証拠の収集が必要なことがある
大正6年6月26日の「東京朝日新聞」に、川合清丸氏逝去の記事が出ている。以前、その記事を国会図書館でコピーしたのだが、文字が小さくて、しかも、ところどころ読みづらい。間違いがあるかもしれないけれど、ひとまずこの記事の全文を紹介してみたい。本文中に「鳥本得庵」とあるが、これは「鳥尾得庵」と訂正した。また、「尾義」を「奧義」としておいた。日本國教大道社の初代社長が山岡鉄舟、2代目社長が鳥尾得庵、そして、3代目社長が川合清丸。新聞記事中にあるように、山岡鉄舟が社長になったのは明治21年1月のこと
突然ですが、「俄」司馬遼太郎著「清水次郎長」「国定忠治」高橋敏著を読み返し、どうしても好きな侠客の事を書きたいので、神仙道と並行して紹介します。私が一番好きな侠客は国定忠治親分ですが、今回は清水次郎長親分の話です。べっぴんさんは、こんな話好きじゃねぇだろうなぁ…。まぁいい、どうしても書きたいで…書きます。是非ハ即チ我レ知ラズ。然カモ此輩皆命ヲ国家ニ致ス者ナリ。如何ゾ之ヲ魚服ニ餧(まか)セン人ノ世ニ処ル、賊トナリ敵トナル。悪ム所唯其生前ノ事ノミ。若シ其レ一タビ死セバ、復タ何ゾ罪スル
【7日間ブックカバーチャレンジ!6日目】おはこんばんちは!大ちん友の山本弁護士からバトンを受けとりましたえびちゃんことえびちゃんです♫😆え?まだ6日なの?そうですよ♫それが何か?😆笑笑ルールもあったそうですがルールは破るためにある?🤣笑笑もう勧めたい本がありすぎて選びきれないけど6日目のおすすめ本はこれだ‼️「山岡鉄舟先生正伝おれの師匠小倉鉄樹著」です‼️かの西郷隆盛翁が「命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人は始末に困るものである。この始末に困
5月8日(金)辛亥六白今回は「無病長生法」川合清丸著から山岡鉄舟先生の話を紹介します。仙術は實に面白き事にて、山岡も大賛成なり。同氏も毎日實践致被申候。鐵舟居士の咄しに、上野の天海長老は百七十歳にて没せり。其の遺書に日く、余は無々道人に逢て不老不死の術を受く想ふに此の無々道人も一の仙客にて、所謂不老不死の術とは足下の河野より傳授せしもの是なりと神仙の上天等の如きも、小生一家の説あり。鐵舟居士へ質し候に、同論なりし。鐵舟居士は断然飲酒を廢し(酒は随分好きにて、二
佐倉孫三氏は『山岡鐵舟傳』(明治26年、普及舎刊)の中で、次のような話を紹介している。ある日のこと、耶蘇教師が山岡邸にやってきた。3時間もの間、基督教の真理について語ったという。鉄舟はただ黙然と聞いていたようだ。耶蘇教師は話し疲れてしまい、鉄舟に意見を求めた。ところが、鉄舟は大声で笑っただけで、一言も発しなかった。やむなく耶蘇教師はいったん辞去した。その後、耶蘇教師は、鉄舟を説得するために、数人の同僚と作戦を練ったようだ。そして、再び鉄舟邸を訪れて、熱心に基督教の教えを説きはじめた。すると鉄
7月19日、台東区谷中の全生庵にて山岡鉄舟忌がおこなわれた。全生庵での法要、食事を済ますと、私は静岡山岡鉄舟会の会員といっしょに、勝海舟ゆかりの両国公園、山岡鉄舟が生まれたとされる安田庭園周辺、そして江戸東京博物館を見学した。その後、友人と日暮里駅近くのそば屋で食事をした。お酒🍶は「江戸開城」を選んだ。暑い一日だった。鉄舟筆「木村家」のあんパンがお土産。法要後の食事風景(全生庵にて)山岡鉄舟座像。高村光雲の最後の作品だといわれる。山岡鉄舟の墓(台東区谷中の全生庵)明治21年7月20
江戸城無血開城の談判を終えて、江戸に向かう山岡鉄舟にたいして、西郷隆盛は「一國の存亡子の身に在り、自重せざるべからず」と語った。また、石坂周造は「勝は德川の柱石だが、山岡は國家の柱石だ」と言った。(『おれの師匠』)私はときどき、そんな山岡鉄舟の一端を紹介している。今回は小澤愛次郎氏の著作から、鉄舟について触れている部分を紹介してみたい。小澤愛次郎氏。(『劍道指南』より)小澤愛次郎氏は文久3年生まれ。忍藩の松田十五郎から小野派一刀流を学んだ(松田は浅利又七郎の門下だという)。『小澤愛次郎の遺
山岡鉄舟は、天保7年6月10日、本所大川端の御蔵奉行四軒屋敷官邸で生まれている。現在の東京都墨田区横網にある両国国技館の裏手、安田庭園あたりになる。鉄舟の父は六百石取りの旗本だという。「旗本と云へば、天下の御直参として地方大名に劣らず幅のきいたもの」だという。つまり、鉄舟は「立派な家柄に生まれた」と言えよう。鉄舟が10歳のとき、父小野朝右衞門高福が飛騨郡代に任ぜられ、高山陣屋に向かった。弘化2年8月24日、高山陣屋に着任。この後7年間、鉄舟は高山で過ごした。岩佐一亭から書を習い、剣を井上清虎か
明治26年に佐倉孫三氏は『山岡鐵舟傳』を出した。その彼が40年ほど経た昭和10年に『徳川の三舟』を刊行している。80頁あまりの本だ。ちなみに小倉鉄樹氏の『おれの師匠』は昭和12年。この『徳川の三舟』の中で、まず目を引くのは、佐倉氏が山岡鉄舟や高橋泥舟に会っているらしいことだ。佐倉氏は、小倉氏と友人関係だったことが縁となって、鉄舟や泥舟と知り得たと思われる。勝海舟については面識があったかどうか分からない。佐倉氏によると、鉄舟の場合、「…(鉄舟は)自邸に春風館を建て、剣法を教授した。其際余は屢々
山岡鉄舟の“女人修行”はよく知られている。その鉄舟の内弟子だった小倉鉄樹は新宿の「藤岡」なる貸座敷に、1ヶ月分の遊興費を前納して下宿したことが『おれの師匠』に記されている。鉄舟は自分の経験からだろうか、人にも修行(?)を進めていたようだ。そんな話が、本山荻舟の『近世剣客伝』に紹介されている。ある父母が鉄舟のところへ相談に来た…。---------------------ある名門の道楽息子が吉原へばかり入浸ッて、父母の意見も聞き入れぬとて、説諭を頼まれたことがあると、よしよしと、快く引受けて
『おれの師匠』は“鐵舟の傳記”から始まっている。まず、小倉鐵樹氏は、二人の友人の名前を登場させている。佐倉孫三氏と三田村鳶魚氏だ。佐倉孫三氏は文章を書くことが得意だったようだ。そのため、小倉氏は彼に山岡鉄舟の自叙伝を筆記させようと考えたらしい。そのことを小倉氏は鉄舟に相談した。すると、鉄舟は次のように答えた。「そんなことはしなくともよい。書かなくたつて殘るものなら後世に殘るし、殘らぬものならいくら詳しく書いたつて消えてしまふ」鉄舟のこの言葉を聞いて、小倉氏はなるほどと思い、以後は同様の話を
山岡鉄舟は、ある弟子を戒めて、次のように言ったという。「ひとのためだなんていふものは、この世に一つもありませんぜ、みんな自分のためですぜ。」この話は『鎌倉夜話』にぽつんと紹介されている。『鎌倉夜話』は小倉鐵樹氏の語録を記したものだ。山岡鉄舟に関する小倉の語録は、後に『おれの師匠』としてまとめられて出版された。この『おれの師匠』と『鎌倉夜話』の語り手である小倉鐵樹氏はどんな人物だったのだろうか。左が渡邊伊三郎少年(『小倉鐵樹先生』より)晩年の小倉鐵樹氏(『小倉鐵樹先生』より)小倉鐵樹氏の
『山岡鐵舟先生正傳おれの師匠』の初版は、昭和12年に春風館から発行されている。この本の著者というか、語り部は小倉鐵樹氏で、石津寛氏と牛山榮治氏の手記となっている。書籍には「小倉鐵樹爐話」となっている。小倉鐵樹氏の“いろり端での語り”を、石津寛氏が書き留めた。その石津氏の遺稿を牛山氏が整理した。しかし、伝記としてはかなり不完全なものだと思い、牛山氏はさらに加筆して出版した。これが『おれの師匠』ということらしい。『おれの師匠』の緒言によると、牛山榮治氏は「…努めて忠ならんことを期し、又幾度か鎌
山岡鉄舟の貧乏は有名なものだ。『おれの師匠』を読むと、所々にこの貧乏についての話がでてくる。『おれの師匠』には「山岡家傳統の、此の明るい貧を苦にせぬ性質が一面山岡家を困窮におち入らせた原因でもある」と記されている。鉄舟だけではなく、英子夫人にも貧乏を意に介しないところがあったようだ。明るい貧乏とは言え、最初の子供が「奥さんの乳が出なくて死んでしまつた」というのだから、自分たちが食べていくことも、相当にたいへんだったことが想像できる。他人を頼ることもできなかったところから見ると、みんな生活に困
先日の己巳の日に厳島神社に参拝してきました。私は、己巳の日には、厳島神社へ参拝します。これは大女仙様との永遠の約束です。宮地神仙道には、ある大女仙の御神像図が伝わります。この大女仙は厳島神社の大女仙と一身分体といわれている大女仙です。どうしてもこの御神像図が欲しくて、巳年、巳月、巳日、巳刻に厳島神社の御掛軸をお受けして自宅にお祀りし、己巳の日には厳島神社にお参りして祈念したところ速やかに願いをお聞き入れ頂いたのみならず、その他の大女仙に関する秘符をお授け頂きました。私に