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先週まで放送していたNHKの「天使の耳」。交通警察官を描いたドラマだったが、15年前に妻を亡くした交通警官が、明かりのともっていない部屋に帰っても、毎晩「ただいま」と言っていた。そしてある時思いが爆発し、もう一度「ただいま」と大声で叫んだ後に「なんで答えてくれないんだよ!!」と大号泣するシーンがあった。誰もいない部屋で誰とも会話もできない。以前は「お帰り」と言ってくれた妻がいなくなって15年もたつのにそれでも「ただいま」と言い続ける。演じたのは安田顕。名演技だった。子供も
母の世話をしなくなったということは家事を行わなくなってきた。母の身体を支えたりすることもなくなった。仕事もしなくなったし家で何もしなくなった。筋力が落ちている。体幹も弱くなった。母がいなくなれば楽になると思っていたことまで母に対して詫びたい。楽になったが楽しくなくなった。楽=楽しいではない。同じ漢字なのになあ。
母の誕生日に思い出すのは母と旅行に行った数々の場所。家になかでの母の様々な笑顔。だめだ。おかあさん、おかあさん、おかあさん。。。枕や抱き枕、そしてマットなど部屋中であるものを抱きしめ、母が横になっていったソファーやベッドの上で転げ回って号泣。ずっと見なかった生前の母の写真を見て大声をあげて泣いた。亡くなって3か月。苦しい日々が続く。
7年前に車を買った時に迷ったことがあります。それはナンバープレートを私の誕生日にするか母の誕生日にするか。結局自分の誕生日にしたのだけれど今後悔しているのは母の誕生日にすればよかったということ。どれだけうれしそうな顔をしただろうかと思うと悔やまれる。色も赤にすればよかった。母の誕生日に思ったこと。母さん、生きてほしかった。
母の誕生日だったから。でもおかずはタマゴかけご飯に味付け海苔に佃煮。いずれも母がニコニコして食べていた。食べながら涙が止まらない。衰えれば衰えるほどあなたへの愛は深まっていたんですね。失って3か月。悲しみは深まるばかり。以前は楽しいと思っていたことが楽しくなくなった。何をしても楽しいことなど何一つない。母が横にいればそれだけで安心して何があっても楽しかった。生きているのがめんどくさい。
今年で98歳やな、100歳まであと2年頑張ろうな。なんかおいしいもの食べに行こか?…亡くなった子供の歳を数えるという言葉がありますが、私は亡くなった母の歳を数えます。冷蔵庫に会ったパン粉は捨てました。パン粉は母の好きなカツやハンバーグを作るときに使っていたものです。もう作ることはないですね。揚げるときに使っていたこめ油も昨年12月から使ってません。よく使っていたすき焼きのたれも5本くらいそのまま。2月3月は炊飯器は一度も使っていません。でも今日はご
生きていたら98歳。ニコニコしてつつじ園に行くだろうな。明日は一日泣いている気がする。おかあさん。寂しいよ
私は母をこの両腕の中で安らかに寝息を聴きながらその寝顔を見ていたい。それができないから時々枕を抱きしめる。なぜ人は両腕を使って愛するものを抱きたくなるのだろう。人間だけじゃないだろうか。
夜中に目が覚めたのでもう一度寝るとまた変な夢を見た。母親を病院に連れて行って車いすを押していたのだが、なかなか駐車場にたどり着けない。ようやく車を見つけて駐車料金を千円札で支払うと、釣銭のところから万札が数枚出てきた。数えると8万5千円。母には黙って車を出して目が覚めた。
今日は妙な夢だった。若いころに心底惚れぬいた女性がいた。片思いだったけどその人を好きになったせいでそのあとであった誰とも結婚に至らなかったほど好きになった女性だった。そして母も夢に出てきた。片思いの女性は若いままの姿。母は晩年の年老いた姿。でも母が夢に出ると安心感で満たされた。そこで目が覚めた。振られた女性と仮に結婚して歴史ができれば事情は異なったかもしれない。でもやはり母を失ったことのが大きかったと目が覚めて実感した。母はやはりしゃべらない。母と
夢の中の母はしゃべらない。私は母と話をしたいのに。苦しみは増すばかり。哀しみは深くなるばかり。お母さんとの時間が煌めく時間だったと今頃になって気づくなんて。だったらもっともっと大切にすべきだったと毎日後悔している。10回旅行に連れて行ってあげたことよりも20回旅行に連れて行ってあげなかったことで詫びたい気持ちでいっぱい。私は前にも書いたけど死後の命は信じていません。でも機会があれば手を合わせて思い出の中にいる母に「ごめん」と謝っている。母の世話は私の命
もっともっとしてあげられることがあったのに、ついつい先延ばしにしたこと。時間はあったのに。最近それを考えると心がえぐられるほど苦しい。私は本当に母を愛していたと母を失って始めて思い知らされる。正月も、桜も、つつじも、紫陽花も冥土の旅の一里塚。めでたくもありめでたくもなし。
そりゃ人を愛すればこそ、美しいドラマは生まれる。でもその美しさは愛する人を失ったときに残酷なドラマになる。愛は生きていく力を与えるが、愛を失うと生きていく力を失う。男は女を、女は男を、夫は妻を、妻は夫を、親は子を、そして子は親を…自分のすべてを愛した人を失うのはすべてを失うということ。失って何が残る?何も残っていないのになぜ生きる?愛する人がいなければもっと楽しめるのに。神は慈愛に満ちている。でもだからこそ残酷だ。善人だけが永遠に生きるよう
もちろん今まで何度もいろんな人の死に直面したことはあります。そのたびごとに嘆き悲しみ、また悲しむ人を見てきました。私も母との別れはいずれ経験することはわかっていました。それでもここまで自分を破壊するだなんて夢にも思いませんでした。確かにその時々の時間で忘れることはありますが、すべてから元気です。おいしいものを食べてなんになる?旅に出かけてなんになる?なんもない。なんもしたくたい。思い出すのは母のかわいい言葉やしぐさだけ。1リットルの涙なんてもんじ
今日はあまり寝ないでクルマで1時間ほどかかる病院へ朝に出かけました。阪神高速湾岸線が工事のために通行止めになっており渋滞していました。「眠たいなああ」とつい口に出しました。今まで横にいた母は「ねんといてや」と言っていましたが、その声を聴くことはありません。そのことを思い出して「何で何も言うてくれへんの、お母さん」と何度も繰り返していると大号泣。おかげで目が覚めました。母の思い出が守ってくれたんですね。
何にも食べなくていいし、トイレも行かなくていい。寝てるだけでいいし。人と接しなくていいし。髭でも生やすか。
「100まで生きる」とにこやかに語っていた母が亡くなった。私はもう生きる意味も楽しみもなくなった。何年後かしらないが私は死ぬときに必ずこう思うだろう。「俺の命は65歳で終わっていたのだ」
母が良く通っていたデイケアではお風呂用にバスタオルとタオルを一枚ずつこちらで準備しなければなりませんでした。私はいつも白い大小のバスタオルとタオルを入れていました。白だと清潔感があるからです。区別するために名前も書いていました。ご存じのように白いタオルはしばらく使うと、水に濡れると真っ白ではなくなるやや黒ずみます。それが嫌で白いタオルはしょっちゅうまとめて買っていました。1か月に10枚くらいかな。家でもフェイスタオルやハンドタオルには白のタオルを使用していたので結構使い
洗面所の掃除をしていると、小物を入れるボックスを動かすと黒いボタンが見つかりました。これは母のオーバーコートのボタンです。「あ、お母さん、ボタンがなくなってるわ、どこでなくしたんやろ?」「さあねえ」「これ着られへんな」「まだほかにもあるから大丈夫」「ほんまやな、しっかりせなあかんな」こんなところでかくれんぼしていました。見つけたらすぐに縫い付けられたのにと思うと申し訳なくてまた号泣。さがしものはなんですか、みつけにくいものですか探すのをやめたとき見つかるこ
この時はまだ元気でした。ただ旅行後すぐに脳梗塞になったので旅館の温泉に入ったのはこの時が最後でした。87歳でしたがまだまだまだまだ死なんて遠い先のことでしかなかったのです。介護も必要ではありませんでした。楽しかった。本当に楽しかった。涙が止まらない。思い出は笑って話せるるものじゃない。世界で最高に愛した母です。この母が晩年は私を頼りにしたのです。
その瞬間に「あ、お母さん、これから朝ごはん作らなあかんな」といつもソファに寝ていた後ろを振り返るともちろん誰もいない。それで悲しいかというとむしろ逆でなぜか安心した気持ちになりました。母と一緒に日々を過ごすことが私の命の水だったのだなと改めて深く感じました。それで一日が始まっていたのです。今はAMの6時か夕方の6時かわかりません。寝るのが不定期で夜中の2時に目が覚めてそのままずっと起きていたり。お母さんという言葉は毎日数百回口から出ます。
母はマグロの刺身が大すきだった。焼き肉が大好きだった。この二つに手を伸ばそうとすると急に胸が苦しくなる。最後の最後は私の家に連れて帰るべきだった。その公開が日々大きくなる。母の身体を抱きしめながら息を引き取るのを見届けるべきだった。その公開が私を責めたてる。ホスピスなんかで死なせるべきではなかった。お母さん、本当にごめんなさい。起きているときはほとんど泣いている。大好きで大好きなお母さん。いろんな旅行が思い出される。その時の言葉と表情も一
まあ恋人ではない。サクラを見るためにあちこち行き、おなかがすいたら喫茶店でコーヒーを飲んだり、食事をしたり。とにかくきれいな景色をいつもともに楽しむのは親子というより友達でした。親孝行じゃない。私も楽しんだ。病院へ連れて行くと黙っていつも私の横に座って順番を待ち静かに検査を受けていた。子供だった。時々戦時中のことを教えてくれたり、あまり言うことを言きかなかったけど今から考えれば生きる知恵を与えてくれていた。姉だった。でもやっぱり一番しっくりくる表現は無二の親
今、生まれて初めてそんな気になっています。とにかく生きていく意味が全くない。生きているから死なないために食べたりしてるだけ。災害の際に我が子を救うために抱きかかえてなくなる母の様子が時々報じられる。「ああ子供を愛する親の気持ちってすごいもんだな」と思ったものだ。でも今は違う。年齢的に言っても私は生きてもせいぜい20年。母親はもうとうに平均寿命を超えていた。でももし私が死んだ後、母が四季折々の花を楽しみ、おいし食事に舌鼓を打って喜ぶのがたとえ3年でもその方が
なにも世間で話題のサクラなどでもなくてもいい。家の付近で見事に咲く桜を見て車から降りて、写真を撮ったのが私にとっては一番の名所。そういう名所が、家に近くには数多くある。昼はよほど用事がない限り外には出られない。悲しすぎて寂しすぎて心がつぶれそう。お母さん、あなたは去年はいたのにね。いた人がいないってどういうことなの?
ショッピングモールやアミューズメントパークで仲良くふるまう親子たち。ほほえましい。昔と比べて父親が娘をかわいがる姿は確かに増えた。でもいつか人は死ぬ。その親も死ぬ。その時に娘や息子が父母を失う悲しみは今よりもっと大きく、もっと増えるだろうな。ある宗教は人間が将来復活すると教えているそうな。そんなことが起きればどれほど素晴らしいかと思うが、それを信じた人が非常識な行動をとるのもうなづける。
近頃特にだめだ。母親がいない寂しさと悲しさが洪水のように押し寄せてくる。例えば私が自分の朝夕の薬を飲むときも、「そういえばお母さんの薬に世話もしなあ」と思うだけで号泣する。どんな気晴らしも気晴らしにならない。トイレに行くのが面倒だ。
桜のあとはつつじ、そして藤、紫陽花。毎年車いすに乗せてあちこち連れて行った。あのうれしそうな顔がもう見れないだなんて。喜んでいたのは母ではなく私だったんだと今初めて気が付く。写真が見れない。悲しくて見れない。
桜の季節が近づいています。開化宣言のニュースはいつも楽しみにしていましたが、今年はつらくてすぐに消します。楽しかった思い出が多いのも桜の季節だっただけにもうそばにいないことがどれほどつらいことか。生きている間に家族とできるだけ楽しもうと思っていた人たちはまさかその家族がいなくなることなど想像だにできないでしょう。夫や妻や子どもがまさか自分より先に旅立つなんて思いもしなかったことでしょう。私の母は97歳で亡くなりした。世間的には順番です。でも逆にそれは母との思い
正直に言って母親の粘土細工でも作って毎日着せ替えたり、布団に寝かせたり、車いすに乗せて旅行でもしたい気になる。まあ気持ち悪がられるでしょうが。そこでふと思ったことがあります。親子二人暮らしで親が亡くなっても届けないでいる子供っていますよね。まあ年金詐取が動機の人もいるでしょうが、中には親を荼毘に付するのが耐えられない人もいるんじゃないでしょうか。親の肉体が存在しなくなるなんて信じられない。たとえミイラになっても親に言えほしいと思う人もいるのではないかと。