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しまなみ海道架橋全部開通と同時に運行開始をした「キララエクスプレス」広島線はアッという間に路線廃止となったものの、尾道線と福山線は紆余曲折を経て今まで路線は維持されてきたが、この夏にしまなみ海道部分以外の路線が大きく変わった。本州側は今治発着路線である「しまなみライナー」に揃えただけだが、元々「キララエクスプレス」のオリジナル路線になっていた今治インターから松山市駅までの区間が今まで高縄半島の北側を通っていたのに、今回からは南回りになるという大幅変更となった。この四国側のコース変更は、しま
「十年ひと昔」昔の人は事の真理を表す良い言葉を作ったものだなとしみじみ思う。しまなみ海道ができる前からしまなみ海道の島々には今よりも沢山の人達が生活しており、その人達の生活を支える為に様々な船が走っていた。その事実をきちんと記録に残しておかないといけないように勝手に思い、14回に渡って書き記した。人は10年も経てば今の暮らしが当たり前のように思ってしまい、案外過去の暮らしの事を忘れてしまっていたりする。しまなみ海道の橋がかかる事によって本州や四国と結ばれた島々には、当然最初から橋がかか
平成11年5年1日、しまなみ海道の架橋は全て供用を開始した。この時に「新尾道大橋」「多々羅大橋」「来島海峡大橋」の3つの橋が同時に開通し、尾道水道では渡船に廃止や整理の動きがあった。直接のタイミングでは橋の真下で運航していた「浄土寺渡し」が廃止されただけだったが、その後も駅前渡船が車両航送を止めたりして、次第に渡船そのものも数が減っていった。来島海峡大橋でも橋の真下で運航していた協和汽船が、来島海峡大橋開通のタイミングで3隻体制から2隻体制へ減便と大幅な運賃値下げを行い、来島海峡大橋開通後
今でこそ愛媛県今治市大三島は島全体が今治市だが、平成の大合併までは島の西半分が大三島町で東半分が上浦町と自治体が違っていた。このうち上浦町域から本州を結ぶ定期航路を未だに運航している船会社が「大三島フェリー」である。私が物心付いた頃には大三島フェリーはフェリー2隻と高速船を1隻を運航しており、三原〜井口間をフェリーが7往復と忠海〜大三島間を6往復運航していた。三原〜井口間7往復のうち瀬戸田に寄港しない便が1往復あり、寄港しない直行便と瀬戸田に寄港する2往復と忠海〜大三島間の4往復を「おおみ
続き当初、須波〜沢航路は三原〜瀬戸田航路に就航していた「なるたき」が1隻で1時間おき運航で始めたが、好調だったからかすぐに2隻で30分おきの運航になった。1隻運航の時は「ふでかげ」が予備船だったが、2隻運航になると須波〜沢航路開設後も当初は引き続き瀬戸田〜三原航路に就航していた「かたふじ」が配置転換となり須波〜沢航路に就航した。しかし、世は「浮桟橋に両頭船」が主流になりつつあった事もあり、沢港隣の内海造船瀬戸田工場で新造船「るり丸」が造られ、その後すぐに「はり丸」も造られて新造両頭船2隻で
三原〜瀬戸田航路を最初に就航させたのはマルト汽船だと聞いたことがある。あくまで伝承として明治時代には既に運航していたらしいが、確証を得られるのは大正時代になってからのようだ。昔私は昭和30年代のマルト汽船の時刻表を見た事があるが、その頃は佐木島の西側を最短で走るルートと佐木島の東側を走るルートがあり、いずれも佐木島の各集落に寄港するダイヤになっていた。またこの頃にはほうらい汽船と共同運航しており、当時マルト汽船とほうらい汽船は親戚だったので暖簾分けをしていたのかと思われる。1番古いマルト
昭和63年4月、伯方大島大橋の開通から3ヶ月後に瀬戸大橋が開通し、本州と四国は鉄道と道路で結ばれた。瀬戸大橋が開通するまでは、時間のかかる鉄道連絡船へ一旦乗換えないと本州と四国を移動できなかったため、瀬戸大橋の開通は新幹線停車駅の岡山駅からダイレクトに四国各所を鉄道で結んだため、本州から四国への旅客輸送体系を大きく変える事になった。この瀬戸大橋の開通により、三原から松山観光港を結んでいた水中翼船の航路が廃止された。この航路は石崎汽船と瀬戸内海汽船、それに昭和海運の3社によって山陽新幹線の三
順番が前後するが、しまなみ海道で因島大橋の次に開通したのは「伯方大島大橋」で生口橋開通の3年前、瀬戸大橋開通の3ヶ月前に開通している。この伯方大島大橋の開通によって、まずは橋のたもとで伯方島と大島の間にフェリーを運航していた今治大島フェリーボート(今治〜下田水航路を運航していた協和汽船の親会社)の航路が廃止になり、大三島や伯方島から今治行きの航路を持つ愛媛汽船と因島汽船の航路が整理され、新たに「芸予観光フェリー」と「大三島ブルーライン」という行政も出資する第三セクターの運航会社を設立して運航さ
生口島開通によって生口島と因島を結んでいた航路のうち、前述のせと汽船「尾道〜生名航路」と中四開発「名荷〜鬼岩航路」が廃止になった。また瀬戸内海汽船の「今治〜尾道航路」のうち尾道〜瀬戸田間が部分廃止になり、生口橋開通後は瀬戸田〜今治間のみ1隻で5往復運航されたがすぐに全廃された。(その後は高速船三原〜今治航路の瀬戸田寄港便の増便と瀬戸田寄港便の大三島井口港への新規寄港にて対応)さらに瀬戸内海汽船の水中翼船STSライン「宮島〜瀬戸田航路」が廃止になり、翌年から高速船で安芸灘ラインになり「宮島〜尾
画像の定期券は私が生まれて初めて購入した定期券で、この航路は非常に短命だった…私は当時中学生で、私の当時住んでいた家も通っていた学校も生口島内にあったので、この定期券は通学定期券であるにも関わらず、通学には使っていない。当時、因島の鬼岩近くの病院に祖父が2人入院していたりして、自転車で病院に行く機会が多かったので2回(2ヶ月)定期券を購入している。この定期券は通学使用ではないので学校から証明書が貰えていないのに、船会社の便宜で通学定期券を発券してもらっている。(笑)ちなみに、「自転車つき
昭和58年12月4日に因島大橋が開通し、因島が本州と橋で結ばれると因島と尾道を結んでいた沢山の航路が廃止された。因島は昔から尾道と結びつきが強かったので尾道への航路は多かったが、三原との結びつきが弱く、三原へは因島大橋開通時点で2航路しかなかった。このうち前述の重井東から木原を結ぶフェリー航路は全廃したが、土生と三原を結ぶ航路は就航船種(フェリー運航区間の見直し、客船の廃止など)を整理した上で残されたが、因島と尾道を結ぶ航路は今治高速船の航路以外が一旦全て廃止になった。また、瀬戸田方面は防
バスの次は船についてまとめいきたいが、因島大橋開通以前はまだ私も幼くて不確かな情報が多い。因島大橋が開通するまでは、三原からは四国ヘ2航路(松山行は水中翼船、今治行は高速船とフェリー)の他に因島・佐木島・生口島・大三島・大崎上島・大崎下島などへフェリーや高速船などが沢山就航していた。また、尾道からもほぼ同様に就航していたが佐木島への航路が当時は無く(今はある)今治へは高速船だけではなく水中翼船も就航していた。これでも山陽新幹線が開通してからは客船が高速船に代わって便数が減った(客船時代は真
今から21年前の今日、前日に全ての架橋か開通したしまなみ海道を経由して本州と四国を結ぶ路線バスが一斉に運行を始めた。前回はさしたる話題の無い路線を一挙に紹介したので、今回は残りの2つの話題豊富で且つ最初から空気しか運ばなかったのですぐにやめてしまった路線を紹介する。定期船に路線バスを積み込む珍しい高速バス「三原〜今治線」は瀬戸内海汽船系列のバス会社2社によって、当初1日8往復運行されていた。日本全国見渡しても定期船に路線バスを積み込んで運行するケースは珍しく、「熊本〜長崎線」がかつて定期船
今から21年前の今日、しまなみ海道の架橋は全て開通した。そして翌日の5月2日から、しまなみ海道を通過するバス路線が一斉に運行を始めた。新規開設路線は1路線を除き今治または松山を起終点にしているので、今治起点と松山起点に整理する。松山起点では、まず現存する大三島行が伊予鉄道とせとうちバスの2往復ずつ、合計4往復で北条・菊間経由の運行を開始した。この路線は元々今治と松山間にかなり昔から特急バスが2社で共同運行されていた路線の何便かを大三島まで延長運転したものであり、今は伊予鉄道の撤退でせとう
しまなみ海道で最初に開通した橋は「大三島橋」で、この時は橋のすぐ下をピストン運航していたフェリー航路が廃止になり、地元の瀬戸内海交通によって大三島と伯方島を結ぶ路線バスが3往復位走るようになった。次に「因島大橋」が開通すると、尾道を起点とする航路が大改編され、その内容は後述するが、路線バスは影響を受ける船会社などによって設立された「本四バス」と尾道に路線権を持つ「尾道市営バス」の共同運行によって因島と尾道を結ぶ路線バスが走るようになった。この時、因島では新たに開設された路線バスが土生港起終点
仕事も全てキャンセルになって、しかも巣ごもりしないといけなくなったので、家に居ても暇で仕方ない。(笑)あちらこちらと身辺整理をしていると古い時刻表が出てきたので、ここでしまなみ海道の架橋によって影響を受けた交通機関の変遷を時刻表を元に振り返ってみたい。まずは今は因島の中心地「土生港」と福山駅前を結び因島島民の重要な足となっている「シトラスライナー」運行開始当初は平山郁夫美術館の入館者輸送で賑わい、続行便まで出していた路線で瀬戸田と福山駅前を各社2往復ずつの運行からスタートした。https