ブログ記事852件
えーと、今回は観光の話です。この間、神奈川県秦野市にある、「源実朝公御首塚」へ行ってきました。※秦野市HPによると、源実朝公は、甥の公暁(くぎょう)によって殺され、その後、御首(みしるし)は、公暁を討ち取った三浦氏の家来、武常晴(つねはる)らによってこの秦野の地に持ちこまれました。そして当時この地を治める波多野忠綱に供養を願い出て、手厚く葬られたと伝えられています。当初の五輪塔は木造でしたが、1250年(建長2年)に波多野忠綱(ただつな)が金剛寺を再
こんにちは。今日は鬼滅の刃の漫画ネタではありません😅ガチの平将門公の話であります。わたしは鬼滅の刃が大好きで、コミックス派であります😆✨鬼滅の刃の柱稽古編がおわり、いよいよ映画三部作の「無限城編」に移っていくようですが、この、最大の鬼・鬼舞辻無惨の無限城というのは、平将門公の首塚の真下にあるというのをご存じでしょうか😅ああ、ごむたいな…※鬼滅の刃映画版「無限城編」よりしかも、柱たちと炭治郎や禰󠄀豆子の出身地というのは、この大手町を
三木城に登り街並み見渡せば干殺し既に遠き秋なり※三木城跡の高台に登ると、眼下に広がる住宅街には、淡々とした時間が流れており、あの悲惨な「三木の干殺し」も今は遠い昔。長治の首塚無念ひっそりと電車の音に哀しさつのり※別所長治の首塚を私が訪れた時には、人影も無くひっそりとしていた。下には神戸電鉄が関係なさそうに走っている。播州に枝を広げし赤松も神吉も消えて今は淋しき※村上源氏の一流で、播州などに勢力を広げた
チャンネルAJERでレギュラー番組「女性神主が語る國體論」が更新。今回のテーマは「湊川合戦で戦った彼らは生きていた⁉︎~楠木正成公の首級が祀られる群馬県館林市・楠木神社〜」。湊川の戦い後、大阪府河内長野市・観心寺の大楠公首塚、同府千早赤阪村の千早城麓の大楠公首塚(楠木正儀墓碑とも)、神戸市の広厳寺(楠寺)境内の胴塚、そして群馬県館林市の楠木神社境内の大楠公首級奉斎地等、楠木正成公の首塚と胴塚が祀られていった経緯を詳しく解説しています。後半部分(AJERcast→http://ajer.j
太宰府市の岩屋城跡に行ってきました。城跡自体はそうでもないのですが、島津VS大友の岩屋城の戦いの内容が熱い。https://youtu.be/EA83pKC4ypc?si=vZtOUQC7K85p9sZz動画版。岩屋城で籠城し、豊臣軍が来るまでの時間稼ぎをした大友氏の武将・高橋紹運の首塚。そして、太宰府に来たからには、ついでに国立博物館にも行きました。白目しか写真がなかった…博物館内にも、高橋紹運と岩屋城の戦いをモチーフにした山笠が展示されていました。日帰りだとこれくらいが限界。
平将門魔法陣ビジネス街の中でも一等地の大手町には、かつて関東一円で武芸に優れながらも、世に受け入れられず悲劇的な死を迎えた平将門の首を埋めたとされる塚があります。塚に関しては、史実や不思議な伝説が相まってか、21世紀の現代でさえ忌んで憚られながらも「最恐心霊スポット」なる都市伝説としてしばしば注目を集めているようです。その都市伝説に挙げられるのは、将門にゆかりのある神社を線で結ぶと、将門が信奉していた妙見菩薩を象徴する北斗七星が現れるというもので、格好のオカルトネタになっている。ゆか
今回は、秀頼公の首塚へ豊臣秀頼は文禄2年(1593)に大坂城で生まれ慶長20年(1615)に22歳の若さで自決します。1980年(昭和55年)に行われた大坂城三の丸跡の学術調査で、発掘現場から豊臣秀吉の三男の豊臣秀頼公のものと思われる頭蓋骨が出土しました。その後の調査でこの骨が人為的に丁寧に埋葬されていることや、介錯の跡、周囲からの出土品などから考察して秀頼公のものと断定されました。秀頼が没してから368年振りの昭和58年(1983)に、秀頼公が再興につくした由縁を持つ清凉寺に
そういえば、これも書いていませんでした\\北斗七星巡り//北斗七星巡りとは都内にある将門様にまつわる7つの神社を結ぶと北斗七星の形になり、天海が江戸に張った結界だとかそういう言い伝えがありますな。神社巡りをし始めた頃、兄が「五色不動知ってる?北斗七星知ってる?」と教えてくれたことがきっかけで巡りました。その後、桜井識子さんが「にほんの結界ふしぎ巡り」という著書の中で北斗七星について書いてくださって、それ以降も帰国すると少なくとも一回は北斗七星を巡っています。上の地