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私の父方の曽祖父が明治5年生まれでその先の高祖父は江戸時代生まれになるから役所で手に入るいわゆる戸籍では追跡できない?と考えてからあっいたわ!いたいた!こういうときの専門家『12/12自分で考える』ええ感じになった気がする昨日は大学の同級生と会いました彼女は研究者で大学や専門学校で学生に講義もしてる人私の友人の中でもたーいへんに賢く情報量と言語化のレベル…ameblo.jpこの時会った友人民俗学とか社会学とかそういうこと研究してる友人が私にはおりました!聞いて
皆さんこんばんは!里久会だより〜リハの窓〜の筆者、理学療法士の丸山です。この度、職員の皆様のご協力によりリハ室に図書コーナーを設置することができました。心よりお礼申し上げます。誠にありがとうございました。こんなにたくさん❤本はいいですよ〜😄いろんな知識を与えてくれます。コミック、雑誌、小説、郷土史、経済、趣味…様々そろってきました!ぜひ患者様も職員もリハ室でくつろぎのひとときを(笑)😁遠慮なく読んで下さい。
切手展のチラシをリンクしていただきました!第74回全国植樹祭ホームページ-岡山県ホームページ(pref.okayama.jp)第74回全国植樹祭ホームページ-岡山県ホームページwww.pref.okayama.jp
あなたのかかりつけ経理担当者谷山桂子です。5月28日日曜日全国から「大重」姓にゆかりの方がおよそ80名集った【大重サミット】が開催されました。夫の親戚のカレーテリア沙羅の店主大重龍三さんが主催だったので「面白い企画ですね!」と受付会計をお手伝いさせていただきました。「義理の祖母が旧姓大重」と言う参加資格がありましたので。笑自己紹介では、それぞれお調べになった大重家の歴史やご自分の先祖のルーツなどをご披露。そこで「おじいさん同士が兄弟だった」とか「実家が隣の
5月26日(日)ジップアリーナ岡山にて天皇皇后両陛下が来岡され式典が開催されます切手展は5月19日(日)~6月2日(日)郵政博物館分館・坂野記念館にて開催します
<旧弘化台と厳島は入れ替わったのか>当ブログでは過去、触れたかどうか忘れたが、高知市弘化台のすぐ東の国分川内には、周囲を石垣で覆われた謎の人工島がある。干潮時なら堤防から上陸できる、猫の額ほどの島である。古地図の中には、この島の側に「玄夫島」、或いは「黒磯」と表記されていることから、それが島名だと思い込んでいる者もいるが、黒磯は玄夫島の別称で、その人工島の東の白い石がいくつか立つ磯を指す。満潮時には陸地が水没し、白い石だけになり、よく白鷺が翼を休めている。川なのに「磯」とは奇異に感じる
中心として定義するものに周縁を追い求めることは理論的だが、中心をぼかして周縁を追い求めることは非論理的である。そもそも周縁という位置づけが間違いである。近世の身分性社会において、周縁の定義に矛盾や違和感がある事象については、「多元性」という解釈が必要だと考える。多元性に近い位置づけの表現があるかは知らないが、私の中で周縁に違和感が生じたことによって派生したのが「身分的多元性」という言葉である。身分的周縁は、周縁に拘ることによって矛盾を生じさせているにもかかわらず、一致する事象だけを取り上げ
いつも素敵なブロブを読ませて頂き重ねて御礼申し上げます。一昨日のブログの続きを報告させていただきます。「白蛇姫伝説」は江戸時代の初め、白山ひめ神社のご造営が難儀されていたころ、神社の建つ三ノ宮から見下ろす崖下に湧いていた生水の畔に茶屋が建って、皆が「姫」と呼ぶ美しい女性がお宮の工事の人達等を接待し、皆元気をもらってご神殿の造営が捗り、ご神殿の完成と同時に大水になり、白蛇となっって流れて行ったと言う伝説です。「オイノ姫伝説」は、同じ筋立てで、生水の畔に茶屋営なんでいた、皆が姫と呼ぶほど美しいオ
(西条市丹原町古田地区の徳田小学校前に贈正四位・得能備後守通綱と土居備中守通増の供養塔)皆さまは、土居・得能氏の名前を聞いたことがありますか?南北朝時代に後醍醐天皇に仕えて粉骨砕身の働きわを成したことで名高い楠木正成と同じく、忠臣として知られていた伊予出身の武将の名前です。皇国史観の下に義務教育を受けられた戦前生まれの方は知っていたのですが、敗戦により占領軍主導で進められた戦後教育ではほとんど教えられなくなり、ほぼ全くと言って良いほど知られなくなりました。しかしながら、少なくとも愛媛県民
大宮郷土史研究会令和6年度第一回講演会『縄文の船』講師小倉均氏(埼玉考古学会会長)◆さいたま市内の縄文遺跡からたくさんの丸木舟が出土しています。中でも膝子遺跡や南鴻沼遺跡からは数多くの丸木舟が発掘されています。◆今回は、長らく市内遺跡の発掘などに携わられ、縄文時代を専門とされる小倉均氏に、『縄文の舟』と題して縄文時代のさいたまの丸木舟を語っていただき
越後毛利一族は刈羽郡南条にあった。支配は鯖石川中流から上流域に広がり、戦国時代には魚沼郡まで勢力を伸ばした。その系譜に惣領を務め石曽根を称した一派がある。毛利石曽根氏の存在については、裏付けとなる史料は限られており、その解釈や扱いは注意を要する。安芸毛利氏の毛利文書を含め、その解釈に多様性が生まれ蓋然性の中に矛盾が生まれている。『温故の栞』では、長岡市岩田不動沢勝平城の城主を石曽根修理太夫のちに南条修理太夫に改名したとする。佐橋庄の毛利氏に結びつく言い伝えとも取れる。江戸時代作成の安田氏本姓
千葉県には城下町佐倉から千葉市寒川港を結ぶ佐倉街道があります。年貢米を運ぶために整備された道です。先日、千葉市の郷土史講座に参加し、佐倉街道よりももっと古い「佐倉古道」を歩きました。千葉市泉市民センターからコミュニティーバスに乗り、千葉市若葉区谷当町へ。秩父供養塔「秩父三十四番観世音供養塔大正二年十二月」と正面に刻まれ、右側には「内田塩古道」、左側には「千葉街道」、裏面には「坂戸馬渡佐倉之道」と刻まれています。