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「H氏の能天気と」この絵は私が描いたもので、ある展覧会に他の作品と併せて出品予定のものです。その展覧会が終わったら、これを裕仁の墓に供えてやりたい。76年前のきょう(1945年8月15日)、アジア・太平洋戦争(大東亜戦争)についてポツダム宣言の受諾を、ラジオが裕仁の肉声を流し国民が知りました。(なお法的な戦争終結は降伏文書への調印の1945年9月2日)この戦争中、裕仁は日本陸海軍の統帥権者(最高指揮権者)として、軍部の決定を裁可する立場にあったのです。よって末端の兵士へ
昭和十二年(1937年)七月七日盧溝橋において銃声が響いた。大日本帝国軍隊と中華民国軍隊の対立は激化し戦闘が起こった。七月二十二日「支那駐屯軍司令部ハ平津地方ノ支那軍ヲ膺懲シテ同地方ノ主要各地ノ安定ニ任スヘシ」という奉勅が伝えられた。大日本帝国軍隊の統帥者天皇裕仁の責任において軍部の全面的出動宣戦布告無き戦争が全面的に開始された。二十八日支那駐屯日本軍は中国軍を攻撃した。八月三日戦争の炎は上海に及んだ。十五日大日本帝国海軍航空隊は南京を空
1947年12月、敗戦後初めて被爆地広島に入った時の天皇裕仁。何の痛痒も感じない能天気な無責任ボンクラおやじにしか見えません。実際、後年そのような発言をして顰蹙を買っています(本文参照)。自作アート作品詳細は末尾の追記2をご参照ください。昭和天皇裕仁(ひろひと)は、日本史上最も軽蔑に値する人間だと幼い頃から考えていて、その思いは今もまったく変わりません。以下のことは、これまで何度も書いていますが、どれほど書いても書きつくせるということはないでしょう。1