ブログ記事542件
裏神道「陰陽道」その21◆祭祀氏族「忌部氏」やっと「韓国・北朝鮮」から「陰陽道」の本筋に戻るが、北朝天皇家によってその首を京都の船岡山に埋めれた「織田信長」のルーツは古代より神道の祭祀を行う一族「忌部氏」(いんべし)であった。神道の祭祀を行う一族というのは、基本的にみな記紀の「天岩戸神話」に登場する神々の子孫である。八百万の神々とはいうものの、重要な神は「布刀玉命」(フトダマノミコト)、「天児屋命」(アメノコヤネノミコト)、「天鈿女命」(アメノウズメノミコト)である。「天
山上憶良臣、宴をまかる歌山上憶良憶良らは今はまからむ子泣くらむそれその母も我(わ)を待つらむそ(万葉集)=====【教科書『国語総合』(桐原書店)の訳】=====山上憶良が、宴席から退出する歌山上憶良憶良めはもうおいとまいたしましょう。(家では)子どもが泣いているでしょう。そもそもその子の母親も私を待っていることでしょうよ。==============================☆☆☆☆☆☆【和歌コードで読み解いた新訳】☆☆☆☆☆☆(※『和歌コード』とは
封印された超古代史「古史古伝」の謎:その44神代文字で記された「竹内文書」を書いたのは、正確には誰かは分からない。武内・建内・竹内の3つの名でその正体を隠した武内宿禰(たけのうちのすくね)自身が書いたものとはどこにも書かれていないからだ。その宿禰の末裔たちが代々保管してきたその内容について、歴代の竹内家の宮司たちは「時いたれば秘史を皇室に奉還せよ」と子々孫々に伝え、それが『竹内文書』となって世に出たのだが、その内容に注目したのは、酒井勝軍や山根キクといった人たちだけでなく、後の首相の東
東大寺二月堂見学の後、正倉院へ行きました正倉院は、学校の歴史で習いましたよね~~実物は、かなり大きいのです!場所が分かりにくくて通り過ぎてしまったのですが後から来た人たちが立ち止まっているので、発見。時間が10時開扉なので、しばしば公園で休憩~~鹿をで撮りましたよ正倉院正倉は前記のとおり、もとの東大寺の正倉で、奈良時代以来宝物を襲蔵してきた宝庫です。檜造り、単層、寄棟本瓦葺きで、高床式に造られています。間口約33メートル、奥行き約9.4メートル、床下約2.7メ
和銅三年(710年)知太改宮事二品穂積親王左大臣正二位石上麻呂右大臣正二位藤原不比等大納言正三位大伴安麻呂中納言従三位粟田真人阿倍宿奈麻呂小野毛野正四位下中臣意美麻呂非参議従三位長屋王天平三年(730年)知太改宮事一品舎人親王大納言従二位多治比池守藤原武智麻呂中納言正三位大伴旅人従三位阿部広庭参議正三位
藤原不比等と橘三千代を起点として、藤氏橘氏の系譜を奈良時代から平安時代中期にかけて辿ると共に、桓武天皇を起点として、皇族平氏源氏の系譜を合わせてきた。これらの系譜は、娘の婚姻により織り成す布のようなもので、各札の上位が母、下位が子を表し、父系(橘三千代だけは母系)の色違いで区分された領域に、札の母を配置することで表現されている。この構成では、藤氏12代・皇族10代にわたって、330の札がコンパクトに配置されている。札の構成は以下の通り。上位の□枠:母下位の□枠:子
歴史系図トリビアこれは楽しい!おもしろい!そう感じるような歴史上の人物の系図を紹介していきますみなさんこんばんは(´Д`)。本日は歴史好きなぶたさんの大好物!楽しい歴史系図でございます(´Д`)!ぶたさんは歴史上の人物の系図がとにかく好きなんです。はい、本日は藤原不比等の妻たちの系図です。藤原不比等は藤原鎌足の息子で、藤原四子や光明皇后の父。飛鳥時代から奈良時代初期にかけての政治家で、大宝律令などの編纂に関わりました。本日はこの古代の大物政治家・藤原不比等の奥さんたちの
本日は、改めて「防人(さきもり)」について考えてみたいと思います。防人については、日本史の考え方29「なぜ古代の農民たちは逃げるのか②」でも少し触れました。高等学校で使用している教科書には、実に興味深い記述があります。「防人には東国の兵士が当てられ、3年間大宰府に属した。」ここで重要なのは、なぜ防人は東国出身の兵士なのか❓ということです。この問いは、授業でしっかり扱っておくべきだと思います😊先ず、東国について説明します
白村江の戦いの後、百済の民が近畿地方に渡来した。彼らは現在の関西弁にあたる言葉を喋り現在に至っている。ヤマト政権の中枢を占めたであろうことは既に述べた(参考)。天智天皇と中臣鎌足(藤原鎌足)が起こした乙巳の変(大化改新)以来、現天皇家と主流派公家の藤原氏は車の両輪のように、また表裏一体の存在であった。すなわち、藤原氏は百済からの渡来人で、百済王家の者達だったと推測しても不自然では無い。ちなみに、現在に至る公家系統の旧華族のほとんどは藤原氏の分家である。雑談1長州の毛利氏のルーツの大江氏や