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今回は第16話として「壬申の乱編-不比等が作った幻想の国「日本」(その7)」をお話しする予定でした。ところが、つい最近、私にとって長年の懸案であった「伊勢神宮の秘密」を解明することが出来ましたので、第16話として「伊勢神宮の秘密」についてお話しします。これからお話しする一連の内容は、今後お話しする予定の「天武天皇」のお話しに、深く関わってくることですので、「伊勢神宮の秘密」を先にお話し出来て、かえって良かったかと思います。解明した伊勢神宮の秘密とは、以下の2点です。1.伊勢神宮が現在の場所
今回は、「壬申の乱編-不比等が作った幻想の国「日本」(その7)」をお話しする予定でしたが、そのお話しの前提知識として、「悪神」と「悪神崇拝」についてお話しすることにしました。「壬申の乱編」は次回に、お話し致します。さて、年が明け2024年となり、世の中が急速に変化し始めたように感じます。新年早々、続けざまに大きな事件が起こりました。それらの出来事と同期するかのように、今まで隠されてきた、或いは欺されてきた事の多くが、暴露され始めていると思います。暴露され始めている事とは、例えば、「日本政府」
前回の【第09話】は、千葉県芝山町の埴輪博物館に行って来たお話から始まり、藤原不比等が、朝鮮人(百済王族)による日本支配を完成させることに、最も深く関与した朝鮮人(百済王族)であるというお話をしました。今回は、藤原不比等が作り上げた朝鮮人(百済王族)による、日本支配のお話をしたいと思います。お話しする項目は、以下の2項目になります。【縄文文化の継承】【朝鮮人(百済王族)による日本支配】【縄文文化の継承】[縄文文化の継承:前々回お話しした内容の概要]前々回の、【08話】縄文
【前書き】今回は、いよいよ本題に入ります。朝鮮人(百済王族)が、日本の支配層にどの様に入り込み、藤原不比等がどの様に日本支配を完成させていったか、その過程をお話して行きたいと思います。それにしても、現在の、日本と日本を取り巻く世界の状況は、日々刻々と、目まぐるしく変化しています。のんびりと、この様な昔の話をしている場合か、とも思いまが、奈良時代から日本がどの様に朝鮮人(百済王族)に支配されてきたかの歴史を知る事は、・現在も日本人を支配する隠れた悪を正しく見抜く目を持つため・私たちが日本
【前書き】前回は、豊璋(ほうしょう)と翹岐(ぎょうき)が、軍事の実権を主に担っていた蘇我入鹿を惨殺し、「乙巳の変」という軍事クーデターを起すことで、大和政権の実権を握ったところまでお話ししました。これからその続きをお話ししていきたいと思います。645年、乙巳の変の後に、第36代孝徳天皇が即位します。それ以降、以下のような出来事が起こります。①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(655年)②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)③斉明天皇の死(661年)④「白村江
今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その8)として、「国史編纂編」をお話しします。下記、①から⑩項目のうちの⑦天武天皇の改革、国史編纂を命じる(681年)から⑩古事記完成(712年)、日本書紀完成(720年)までののお話しとなります。①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)、斉明天皇の死(661年)③「白村江(はくすきのえ)の戦い」と百済の滅亡(663年)④近江へ遷都(667年)し、中大兄皇子(豊璋)が天智天皇とし
歴史系図トリビアこれは楽しい!おもしろい!そう感じるような歴史上の人物の系図を紹介していきますみなさんこんばんは(´Д`)。本日は歴史好きなぶたさんの大好物!楽しい歴史系図でございます(´Д`)!ぶたさんは歴史上の人物の系図がとにかく好きなんです。はい、本日は藤原不比等の妻たちの系図です。藤原不比等は藤原鎌足の息子で、藤原四子や光明皇后の父。飛鳥時代から奈良時代初期にかけての政治家で、大宝律令などの編纂に関わりました。本日はこの古代の大物政治家・藤原不比等の奥さんたちの
今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その7)として、壬申の乱編をお話しします。下記、①から⑩項目のうちの「⑥壬申の乱(672年)と、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位(673年)」のお話しとなります。①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)、斉明天皇の死(661年)③「白村江(はくすきのえ)の戦い」と百済の滅亡(663年)④近江へ遷都(667年)し、中大兄皇子(豊璋)が天智天皇として即位(668年)⑤中臣鎌足
今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その6)として、近江朝編のつづきをお話しします。前回の近江朝編では、天武天皇の親や兄弟、その他関連する人々の年齢推定が主になってしまい、お話ししようと思っていた、以下の10項目のうち、ほぼ、「①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)」のみしか、お話しできませんでした。とは言え、天武天皇や、周囲の人々の年齢が解る事で、隠されていた事実が幾つも明らかになりました。今回の「近江朝編のつづき」では、そのような、解ってきた事実を中心に、お話
香川県さぬき市志度に伝わる悲しい伝説です。四国霊場第八十六番札所の志度寺の縁起の一つと伝えられ、境内には海女の墓とされる五輪塔が建っているそうです。時は千三百余年前、天智天皇のころ。唐に嫁いだ藤原鎌足の娘白光は亡き父の供養物として数々の宝物を兄の藤原不比等に届けようとしました。ところが、宝物を積んだ船が志度の浦にさしかかったとたん嵐が起こり、中国に二つとなき宝物「面向不背の玉」が龍神に奪われてしまったのです。不比等はこの玉を取り戻そうと、身分を隠して志度の浦へやってきました。ここ
7-4奈良時代の政争奈良時代政治史の特徴は、全体として、藤原氏と皇族出身者(+僧侶)が、ほぼ10年ごとに中央政界で政権を担当し、そのなかで藤原氏の台頭が顕著になっていった点にある。➊710年代藤原不比等(ふひと)(鎌足(かまたり)の子)が政界の中心に位置し、養老律令を完成させる(718)など律令制度の確立に尽力(じんりょく)すると同時に、天皇家に接近した。720不比等没。➋720年代長屋王(ながやのおう)(天武天皇の孫)の政権成立。三世一身法(さんぜいっしん
6-1律令制法の完成701年、刑部親王(おさかべしんのう)・藤原不比等(ふじわらのふひと)らは、律(りつ)・令(りょう)ともに完備した法典=大宝律令(たいほうりつりょう)を完成させた。➊大宝律令701年に完成。翌年施行(しこう)。➋養老律令(ようろうりつりょう)718年に完成(藤原不比等)。757年に施行(藤原仲麻呂(なかまろ)政権)。6-2律令制法の種類律令制下における法体系は、次のように分類された。➊律犯罪と刑罰(けいばつ)を記した
みんな元気ですかきのうの続きだよ・・・日本では少なくとも37か所に徐福伝説があります。北は青森県から南は九州鹿児島県まで徐福がこの地に来ていたとする伝説や記念碑があります。間違いなく徐福の大集団は日本に来たのです。日本を目指して東の海に漕ぎ出したのです。現在徐福の末裔とされる名字は福永、福岡、福島、福仙、福山、福寿、福田、福畑、福海、福住などとされています。一方この大集団の中には秦氏も当然いました。言わば徐福の行動を見守る始皇帝のお目付
本日は、改めて「防人(さきもり)」について考えてみたいと思います。防人については、日本史の考え方29「なぜ古代の農民たちは逃げるのか②」でも少し触れました。高等学校で使用している教科書には、実に興味深い記述があります。「防人には東国の兵士が当てられ、3年間大宰府に属した。」ここで重要なのは、なぜ防人は東国出身の兵士なのか❓ということです。この問いは、授業でしっかり扱っておくべきだと思います😊先ず、東国について説明します