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「八木為三郎老人壬生ばなし」によれば、お梅の遺体はしばらく八木邸に留め置かれたといいます。というのも、菱屋の方では「あれは芹沢局長の奥様になるから暇をくれとの事で、暇を出しましたから」といって遺体の引き取りを拒み、壬生浪士組の方でも近藤勇が「かかる氏素性も知れない売女と芹沢先生を合葬することは出来ない」として、芹沢と一緒に埋葬することを許さなかったというのです。結局、事件から三日か四日目に、西陣にあったお梅の実家に遺体は引き取られていったといいます。あさくらゆう先生の『新選組を探る』ではお
風街散歩新選組ゆかりの地⑥芹沢鴨【せりざわかも】新選組筆頭局長✳芹沢鴨⁉文政10年(1827年)、常陸国行方群玉造町芹沢村(現茨城県行方群玉造町)、芹沢城主の末裔で36代目にあたる豪士、芹沢貞幹の三男に生れる。幼少の頃より力が強くワンパクであったが、人望厚く、剣客であり、絵が上手く、子供たちに大人気だった。青年時代は、水戸学と尊王攘夷思想を延方(のぶかた)郷校で学び、剣術は岡田十松の神道無念流を戸賀熊太郎の元で鍛え、免許皆伝の腕前であった。安政6年(1859年)
以下の記事は、幕末ヤ激団の許諾を得て、当血笑鴉《旧名梅痴鴉》が調査を行い、2017/5/5にフリーペーパーで頒布下記事です。記事の特性から、無料と言うことでコミックシティ及び日野新選組祭りで無料で頒布しました。今回、諸事情で旧尊皇筋肉でアップしていましたが、ブログを削除した関係から再度アップしました。この記事について歴史的事象を再検証する関係から史料を引用していますが、あくまでも記事についての内容と文責は当鴉の責任であることを明示します。☆☆