ブログ記事971件
日曜日に、第57回吉祥寺古典を読む会を開催しました。テーマは、源実朝の『金槐和歌集』。個人の歌集(私家集)は一般に、『和泉式部集』『紫式部集』というように、歌人の名でシンプルに呼ばれることが多いのですが、源実朝の場合、『金槐和歌集』というきれいな名前が付いています。「金」は「鎌」(鎌倉)の偏から、「槐」は大臣を意味する「槐門」から来たと言われています。百人一首でも、彼は「鎌倉右大臣」という名で表されていますが、そういう名前の付け方なのですね。実朝がこの和歌集を編んだのは建暦3年(建
画像多めでございます。一昨年のNHK大河【鎌倉殿の13人】を皆様ご覧になっていらっしゃったでしょうか。鎌倉殿の13人-Wikipediaja.wikipedia.org私は決して歴女ではないんですが歴史小説や時代劇が大好きでしてその上、小栗も好きでしてwいつかは鎌倉に行ってみたいと思っていたんです。で、行ってきました鎌倉。うちのアレクサに「アレクサ、3/4の鎌倉の天気は?」と聞きましたらね『雲の多い一日でウンタラカンタラ…』と言ったんです
「お抹茶一服(いっぷく)いかがですか?」お抹茶の作法などご存じない方でも、このような言葉は耳にされたことはあることと思います。大阪・千林商店街日本茶専門店加藤銘茶本舗です。日本には物の数え方など、色々な単位の数え方がありますが、普通お茶は、一杯(いっぱい)、二杯(にはい)ですね。でも、お抹茶は、一服(いっぷく)、二服(にふく)と数えます。どうしてでしょう?鎌倉初期、日本の臨済宗の開祖である栄西禅師は、
和田塚にお参りが済み、後は実朝さんの御首塚(みしるしづか)に行くだけなのですが、その首塚は、鎌倉からだいぶ離れた秦野というところにあります。鎌倉からどれくらい離れているかというと、電車とバスを乗り継いで2時間かかります。もうすっかり夕方です。実朝さんの胴体は、第一回でお参りした鎌倉の寿福寺に葬られましたが、なぜ首から上だけこんな遠い場所に葬られたのか。ご存じの通り、実朝さんは鶴岡八幡宮で公暁(こうぎょう)に暗殺されました。その後実朝さんは羽林の首を持ったまま三浦義村を頼った
三代将軍源実朝は、1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀式の後、甥の公暁に暗殺されました。その場所が、大石段の13段目(下から数えて)という噂があるようです・・・13段目は、公暁が隠れていたという伝説が残された大銀杏の横ですが・・・『吾妻鏡』は・・・「神拝を終えた実朝が退出したところを公暁が石段の際で殺害した」と伝えているようです。さらに、上宮の砌で公暁が「父の敵を討った」と叫んだのを聞いた者がいたと伝えています。ということは、殺害現場は楼門を出たすぐの所というこ
受験生の皆さま、ご健闘をお祈りしています。先日、鎌倉でおとずれた三浦氏一族のやぐら山肌にうがたれた坑が自然と一体化した洞穴のようにくらくてここを墓所にするとはどんな心のありかただったのだろうと疑問がわいたのでした。やぐらは右奥の黒い穴手がかりをもとめ場所は違えど鎌倉時代初期に完成したというそれだけをたよりに『宇治拾遺物語』を選んでみたら、町田康さんによるぶっ飛んだ現代語訳におったまげ!池澤夏樹責任編集日本文学全集より『宇治拾遺物語』町田康訳全集第8巻の
百人一首といえば源頼朝と源実朝ですかねやっぱと勝手に思っております源頼朝は我が祖の主君でもあり我が祖は奥州合戦で奥州藤原氏討伐入りで関東から東北入りしました百人一首は結構歴史が繁栄されていて面白いです百人一首は百人の一首で辞世の句を詠んだ句なんだと打首獄門磔で思ってた私でしただって丁重な箱にいれてあるし怖い声で札読みするし坊主や女の幽霊や変なひとばかり出てくるんやもんね