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サムネ浪曲と云えば、誰でも一度は耳にしたことがあるだろう。特にテレビが各家庭に普及するまでは、ラジオから落語、講談などと共に浪曲は流れてきていた。こうした話芸は、次はどうなるか解っていても同じ題目を何回でも楽しめた。中でも、「清水次郎長伝」の森の石松が主人公の「石松三十石船道中」は、映画になったり、他の話芸でも使われていたので、ベストヒットだと云えよう。話芸の多くは、時々によって語り口が異なることもあるが、戦後に録音された二代目広沢虎造の「石松三十石船道中」は、軽妙な語り口で特に評判が良い
★美濃輪稲荷神社(2~3分の近さに次郎長の生家がある)★清水の次郎長こと山本長五郎(経年劣化により見えずらいですが確かに彫られています)★鳥居をくぐってすぐ右側清水次郎長(しみずのじろちょう、文政3年1月1日(1820年2月14日)-明治26年(1893年)6月12日)幕末・明治の狭客、博徒。本名、山本長五郎(やまもとちょうごろう)。米問屋山本次郎八の養子。養家没落に伴い、博徒となり,やくざ仲間で名をあげ清水に縄張りをもち、次郎長伯山と異
日銀は金利の修正が出来ないので円買い介入をしきりに行っている、これは国家のお金を捨てている事なのだが、この人達にはお金の大事さが分かっていない、黒田総裁の時、円が150円を超えてびっくりして円買い介入を行って30兆円を捨てたが、一時的に円高に振れただけで今度は160円になった、ここで又お金を捨ててもこの次は170円になる。勲章をもらった黒田はアメリカに行って日本の円安は一時的なものだと言っている、馬鹿に付ける薬は無い、森の石松と同じだ、日本の円安はこれから先長く続く大問題である、日米の
サムネ万延元年(1860年)森の石松は、三十石船で大阪の八軒屋から淀川を京都の伏見まで船旅を楽しむ。伏見で船を降りて寺社をお参りして京都見物を済ました。この旅は、前回の「石松三十石船道中」の続きだが、今回の「石松と見受山鎌太郎」は、石松が鎌太郎宅にワラジを脱ぎ、そこでの二人の話になる。草津追分の道標東海道は京都三条大橋から大津宿を経て、その次の宿場が草津宿になる。草津追分は東海道と中山道の分岐点であった。京都三条大橋から草津追分道標まで直線で17.3Kmの地点だ。草津宿の追分周辺地域を