ブログ記事958件
【片埜神社(かたのじんじゃ)】大阪府枚方市牧野阪2丁目21-15【社務所】では、物語などで語られる阿弖流為(アテルイ)と坂上田村麻呂の友情・ライバル関係といった話から、友情・良縁の御守りとして、阿弖流為の御守を授与されている神職の方に阿弖流為の事についてお伺いすると……『阿弖流為の墓については、信憑性では世間では色々言われてますがこの地域の人々は小さい頃から、舞台などで見聞きし、阿弖流為に対する愛着がすごくあるんです……。』さてさて、ココロはいよいよ【東門/大阪府指定文化財】から
今回は、「壬申の乱編-不比等が作った幻想の国「日本」(その7)」をお話しする予定でしたが、そのお話しの前提知識として、「悪神」と「悪神崇拝」についてお話しすることにしました。「壬申の乱編」は次回に、お話し致します。さて、年が明け2024年となり、世の中が急速に変化し始めたように感じます。新年早々、続けざまに大きな事件が起こりました。それらの出来事と同期するかのように、今まで隠されてきた、或いは欺されてきた事の多くが、暴露され始めていると思います。暴露され始めている事とは、例えば、「日本政府」
9-3東北経営の推進8世紀末、東北地方で蝦夷(えみし)の大反乱が発生した。具体的には、光仁天皇(こうにんてんのう)の780年、帰順(きじゅん)した蝦夷の豪族伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)が乱をおこし、それは一時、多賀城(たがじょう)をおとしいれるほどの大規模な反乱に発展したのである。こののち、東北地方では30数年にわたって戦争があいつぎ、桓武天皇(かんむてんのう)の789年には紀古佐美(きのこさみ)を征東大使(せいとうたいし)として大軍を進め、北上川(きたかみがわ)中流の胆沢地
山口神社(和歌山市谷)紀伊国名草郡和歌山市谷277(二の鳥居前に停め置きました)■延喜式神名帳伊久比売神社の論社■旧社格村社■祭神伊久津比賣命[日吉神社配祀]大己貴命弥照大神(イヤテリノオオカミ)國常立大命國狹槌命煌根命(カシコネノミコト)正哉勝吾勝勝速日天忍穂耳命天津彦彦火瓊々杵命[春日神社]天兒屋根命武甕槌命経津主命紀伊国と和泉国を隔てる和泉山脈の南端、雄ノ山峠近くの和歌山市「谷」に鎮座する社。かつての「山口村」。社名はそれに由来するもの。◎
このブログは「平安時代ブログ」を標榜して始めたブログ。なので、外しては語れない人のひとりが「桓武天皇」。「鳴くよウグイス平安京」794年「平安京遷都」から、平安時代が始まるわけですからねー。桓武天皇が即位するに至るまでの長く険しい道について話は、別の日に譲るとして。今日は桓武天皇の後裔について、語ってみたいと思います。桓武天皇の後裔と言えば、なんといっても「桓武平氏」。高棟王(たかむねおう)と高望王(たかみおう。高見王と同一?)の兄弟が、天長2年
こんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。暑さ寒さも彼岸まで、と申しますが、今季のお彼岸はいつもと勝手が違います。「破壊と創造」という二局面を同時に持つ、‟アラハバキ突風”が東北を吹き荒らし春の到来を告げていったような、そんな思いがよぎりました。と、申しますのは、>澤野大樹(さわの・たいじゅ)氏講演会『序文』より徳川260年の安寧を支えた「平将門怨霊ポジティブ変換システム」が明治維新によって破壊され、江戸の北斗七星の柄杓は機能しなくなった。そ
さてさて…………………【土御門天皇陵】を出発したココロ…………予報どおり怪しくなってきた天気さらに、ここまでの同じ道のりを、歩いて戻るのはさすがにキツイなあすると………………ちょうどいい場所にバス停があり………………ちょうどいい時間の「JR長岡京駅」行きの便があったので、ココロはバスに乗車した………………バスに揺られながら、今日のミッションは全てクリア出来たのだが、何かやり残したような感覚が『京勉会長岡京編③〜中山修一記念館〜』さてさて………………桂川に架かる大橋を渡り、しばら
前回からの続き。「『藤原北家の本流は長男でないことが多かった』のやや深掘り」をやります。今回は藤原鎌足から数えて5代目にあたる藤原内麻呂から。前回も述べた通り、内麻呂は父・真楯の三男にあたります。母は阿倍帯麻呂の娘。帯麻呂は遣唐使として渡り、客死した阿倍仲麻呂の弟です。内麻呂は阿倍仲麻呂の姪の子だったんですねー(ちなみに、阿倍氏の系図はこちらをドウゾ→★)この血統の良さからか、異母兄2人が庶流となり、内麻呂が嫡子として藤原北家の本流になっていきます。藤原内
弘法大師「空海」と真言密教の謎その18弘法大師空海の本当の父親は「桓武天皇」であった。本来なら天皇を継いでもおかしくない圧倒的な力量をもっていたが、その力は別の部分に使われた。それは唐から「密教」の奥義を全て受け継ぎ、表向きは仏教を広める形にはしたものの、裏側は「真言密教」というカッバーラの呪術によって、日本を封印することであった。だからこそ、表の天皇にはならず、呪術による「裏天皇」として全国を次々に封印していったのである。それがゆえに、全国に空海伝説が残されているのである。そ
先週末からまたまた体調を崩しています💦ちょっと気温の変化があるとついつい油断する癖は治さんとなあ・・・。それはそうと3月の中頃、京都を訪れていました。今回は京都に向かうドライブ部分からお伝えしようかと考えています。東名→新東名→伊勢湾岸道→新名神→名神というルートで走って、最初に到着したのが京都東山ドライブウェイの山頂にある将軍塚。今日の1枚目はその将軍塚、東山山頂公園展望台から。学生時代に何度も訪れた将軍塚から見下ろす京都タワーNikonZfcNI
平安神宮は、明治二十八年(1895年)3月15日に、平安京が定められたてから1100年の記念として、桓武天皇の御遺徳を称え、京都の祖神としてお祀りするために創建された。その後、皇紀二千六百年にあたる昭和十五年(1940年)10月19日に近代日本の基礎をつくられた、孝明天皇が合祀された。御祭神:第五十代桓武天皇(かんむてんのう)第百二十一代孝明天皇(こうめいてんのう)所在地:京都市左京区岡崎西天王町電話:075-761-
【真・日本史⑧】藤原氏の正体と陰謀前回のおさらいを兼ねて、少し聖徳太子の話に戻すが、聖徳太子は第31代「用明天皇」と「穴穂部間人皇女」の皇子として誕生した。用明天皇の母も穴穂部間人皇女の母も秦氏一派の蘇我氏で、聖徳太子は秦氏の人間なのだ。ここでいう聖徳太子は「厩戸王」のことだが、あと2人の「蘇我馬子」と「秦河勝」も秦氏である。考えられることは1つしかない。秦氏は「原始キリスト教徒」の末裔だが、その中でも聖徳太子は「レビ族」だったのだ。その聖徳太
アメバblog読者の皆様こんにちは。廣田佳子です。昨日、一度ブログアップしてから、数点記載を加えましたので、ご興味のある方は、改訂版の、「改)天皇につながる宮崎家は廣田徳子(とくこ)の実の従兄(いとこ)です!」をお読みください。昨日記載した、私の母方の血脈等ですが、また、廣田家とも同様ですが、注意事項があります。注意深く書かないといけない記載事項でしたので、事実をありのまま真実を記載しておきたく、念のため記載しておきます。※私の元夫の方の全てのご親族達等とは全く血筋では一切ありませんし、
Websiteは下記をクリックしてね。HOMEプロフィール鑑定方法と占術紹介占い講座お客様の声JCAI算命学資格講座この度一般社団法人日本カルチャー協会様(JCAI)の認定講師として活動を開始いたしました。私の日本カルチャー協会でのHPは上記バナーをクリックしてね。ペライチマーケットでの鑑定をご希望の方は下記バナーからアクセスできます。mimot.での取材記事はこちら電話占い調査団での取材記事はこちら電話占い未来様での取材記事はこちらZierd様での取材記事はこちら