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「松竹映画の栄光と崩壊」他より『田中絹代は負けない』の2回目です松竹撮影所が蒲田から大船に移った頃27歳の田中絹代は鎌倉山旭ヶ丘に五百坪の土地を買いここに3棟合わせて25部屋もある「絹代御殿」と呼ばれる豪邸を建てた20代の終わりに近づきスター女優としてはもう若くはないという焦りがあった後から追いかけて来る若い女優たちに負けないためには大船に腰をすえて仕事に打ち込みたいまたナンバーワン女優を誇示するためにも
桑野ミッチーのスチールとなると買ってしまう。スチールだのブロマイドだの買いあさっていると、たまに「これは複製だろ……」というのをつかまされることもあるが……これは睫毛の一本一本まで写りこんでいて、逸品。複製品ではない。よい買い物をした。ただ……弁護士の格好よりも女學生姿……あの制服姿のミッチーなら何倍も良かったのに……とおもう。(「新女性問答」お姉さんの川崎弘子が藝者さんになって、桑野通子の妹の学費を出して弁護士にする、とかいう話)(偶然というか、何というか、NHK
うさぎのうこちゃんがいなくなってからずっとずっとしょぼんな毎日をおくっていたけどこういうことをやったら少し元気がでるかな、と「昭和のきれいどころ」を集めてみましたそしたら少しごはんが美味しくなった多く集め過ぎて2回に分けましたあら、あの人がいないわなんて思う方もいらっしゃるかもしれませんがすべてはジャスミンの独断ですお生まれの順番にしました桑野通子・1915生原節子・1920生加藤治子・1922
桑野通子さんは1932(昭和7年)(現)三田国際学園高等学校をトップクラスの成績で卒業後森永製菓に入社、初代スイート・ガールに選ばれキャンペーン・ガールとして全国を巡っていましたがその後、赤坂のダンスホール『フロリダ』に移りダンサーとして働いているときにスカウトされ1934年・松竹へ入社。当時の女優さんはお顔は綺麗でも胴が長くスタイルの悪い人も多くその中で通子さんは、近代的な美貌と均整のとれたプロポーションがひときわ鮮やかに目立ちやがて来る、「桑野
その4です。アサヒグラフ・昭和3年5月9日號掲載のパノラマ写真を手持ちの資料で解読しようとしています。(図書館へ行ったりするのはめんどくさいので(笑))写真で見る限り、今回取り上げる界隈――三丁目・松屋付近――が、昭和3年当時もっとも賑わっていたような印象です。写真⑫銀座四丁目・銀座三丁目番号をふります。67……〇田屋しょっぱなからビッグネーム。TAYAと写真から読み取れます。たとえ読み取れなかったとしても、「銀座細見」によれば――大正10年→田屋洋品