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来望がいなくなって3回目の12月25日。我が家では祝う事はなくなりましたこの日が入院した日だったのだから。今でも鮮明に思い出す、あの日の出来事今思うと、頭が真っ白になって、気丈に振る舞ってるつもりが結局、何もしてなかった、出来てなかったそんな日だったと思います。この日から322日の来望にとって辛くて悲しい日々が続いたんです。そんな日を祝ったり家族で笑顔で過ごす。という事は出来ないんですよね・・もし、来望がいてくれてたのなら高校2年生の冬。人生で一番
ちゃおの様態がほんの少しだけ落ち着いた時、病室の外で主治医から話しがあった。予測以上に、沙恵ちゃんの意識がはっきりしているので、かなり、苦しいかと…若いので脳がしっかりしてます。息ができない窒息状態なので…意識があっては苦しいかと。どうしましょう?薬の量を増やすと意識は遠のきますが、このまま意識のない状態になり最後を迎える事になります。ご家族が来られても昏睡状態で何もわかりませんが…先生…もう、いいです。あの子は充分頑張ってくれました。最後の言葉
夫の誕生日にLINEをした開くと夫からの最後の言葉は[了解でーす]倒れる35分前の時刻で残っている見ると涙が溢れてくる確かに夫はこの時まで生きていたんだあの日出かけている私が最寄り駅の到着時刻を連絡したんだよね徒歩で迎えに来てくれて荷物を持ってくれて他愛のない話をしながら、帰宅したよね居間で、私が荷物を解きながら、話していたら…突然倒れて…いなくなったんだよ2人で歩いた夜道久しぶりだったねもう二度と2人で歩けないんだよね当たり前じゃなかったと実感してる😭返
2019年11月9日に私の長女「来望」が13歳の若さで亡くなりました。骨肉腫という稀な病気で100万人に一人かというほどです。去年の12月13日に左足のふくらはぎが痛いという事で近所のOO病院に診察に行きました。中規模の総合病院で、御近所ではケガや病気はとりにかくOO病院へ。という感じでしたから。最初の診断は「肉離れ」か「成長痛」との事。レントゲンを見ても異常も見つからないので痛み止めを処方してもらいました。ですが数日たっても痛みが変わらず5日後にもう一度、診察し
常に薄暗い部屋。あれだけ嫌がっていたベットに何も言わずに横になっている来望。仕事を終えてから病院に向かい奥様と交代をします。全く眠って居ない様子の奥様。来望の状況を聞くのですが、特に良くなる訳でも無く、目線は遠くなるし、特に会話をする訳でもなく。という事。とにかく気を付けて家で帰るように見送り、病室に戻ります。来望に話かけても、残念ながらなにか伝えようとしても反応はありません。目線は常に遠くを見つめているし何処を見ているのかすら解から
今、想い出すと色々な事が蘇ります。今となっては、長いようで短い入院生活そして、辛くて悲しい闘病生活。彼女が旅立ってから、もうすぐ2年。今でも一人になると感情が溢れ自然に出ている涙。取返しがつかない時間の流れを痛感すると共に自分の親として本当に情けなく、頼りなく、力及ばない小さな存在なんだと。最近は、何か想い出す度に「ゴメンね、ごめんね」と謝っています。いつか、来望に再開出来た時に沢山、謝ってあげたい。そして、ずっと笑顔で一緒に居たい。そ
実家から数メートル先の駐車場にパパが車を取りに行き実家の玄関先で車を停めてくれるのがいつもの帰宅パターン数分待っても来ない・・外に出て車がやって来る方向を見るが来ない・・私の妹が見に行ってくれた嫌な胸騒ぎがしたのを覚えている見に行ってくれた妹が遠くから私の方に向かって叫んでいる『パパが』その一言で私は普通じゃない何かが起こっていることを理解した猛ダッシュして停まっている車に行くとパパが運転席で座っている・・助手席の方に顔を向
全国的に雨空の今日、今月8日にくーちゃんがお空の虹🌈になった報告をお父様の三浦拓様から届けられました。1月19日のこのブログ読んで頂きくーちゃん頑張って!って応援頂き、又、祈って下さいました皆様にお父様の想いとお礼のお言葉届けさせて頂きます。お父様のお言葉です。みうらひらく(津山市議会議員)@miurahirakuhttps://t.co/oOSb4eLva6今まで書いたどんな記事より強く#拡散希望します。#インフルエンザ脳症の恐ろしさを1人でも多くの人
人事部長による事情聴取東北旅行から帰って直ぐに総監部に行く。定年までに処分を完了するために…人事部長は、忘れもしない5BG2時に70式地雷原処理装置の発射訓練で旅団全体に迷惑をかけた施設中隊長。防衛課長だと思ったら人事部長で戻ってきた。偉くなる奴はあんなに恥ずかしい事故を起こしても問題ないのか?室内には人事部長とお付の班長がいた。机上には俺の事案の調書がある。人事部長はあの時に世話になった大先輩への事情聴取にかなり気を遣っている。俺のオデコに「お前はあんなことをしてよく偉くなったよ
よければフォローしてくださいえっ?どこか連れてってほしいって、、、って思ったけれど。返す言葉がすぐに思い浮かばず。サラッと流しました。パンケーキのお店を出たけれど、ちょっと立ち話。休みは何日くらい前にわかりますか?突然のお誘いは難しいですかね?とか積極的に聞いてくれました。ではまたお誘いします!↑帰る時の、のび太くんの最後の言葉。それで、解散!最初はスリッパでの登場で、ビックリしたけれど、印象はよかったです。私のきもちは、、、話しやすいし、次会うのもアリ夜に
受験当日まであと0日!・・・いよいよこの日がやってきてしまいました。決戦の日です。私が娘に出来るサポート、もちろん完璧ではありませんが、自分なりに全てやりつくしたつもりです・・・あと、ひとつを除いては。”どんな言葉をかけて送り出すか。”ここ数日・・・あ~だこ~だ、色々悩み、考えていました。「これだけ頑張ったんだから、絶対大丈夫!」「最後まで、気を抜くな!」「緊張しても大丈夫、緊張した方がパフォーマンスは上がるんだ!」・・・的な
来望から聞いた最後の言葉は言葉にもならない「う”う”う”」でした。忘れもしない来望が行ってしまう最後の日の前夜自分が泊まる日でした。来望がどうなってしまうのか?自分はどうしたら良いのか?そんな不安な日々を過ごす中で日々目に見て解るほどに来望が変わっていく姿を何も言わずに傍にいる状況。現実から逃げ出したいと願ったり真っ白になって何も考えられなかったりそいうった中で来望に向けて放ってしまった最悪の言葉「お願いだから言いたい事を言って
パパがくれたバックを袋に戻し早速準備に取り掛かる帰宅時間を皆で決めてた理由は順位を競い合いながらのカードゲームを家族8人でするためこれもお正月のお決まり夕食を挟み21時ごろゲーム終了その後は息子企画の毎年グレードアップしていく閉会式昨年の東京オリンピックのメダル授与時のBGMを流しながらパソコンを繋げた先には大きなテレビに映し出される3位から1位までの該当者の1人アップ写真。100均の金銀銅メダルを大会委員長である私の父がそ
んで、昨日話したもくろくやダ・ヴィンチからこれ面白そう!と思ったものはこうやってノートにメモしておいてですね。でもとてもじゃないので選びきれないし、合沢の読書ジャンル幅がひろすぎる、てのもあるけどメモしたはいいものの、「これどうしていいとおもったんだろう?」と、時間がたちすぎてわからなくなってしまうので、本の購入願い出す日にリストからどうやって選ぶかというと、あみだくじまたはどれにしようかなで決めます。ちなみにどれにしようかな~は、「どれにしようかな天の神様の言う通りなのなのな、
今年も、この日を迎える事になりました。10月末から気持ちも落ちていくようなそんな感覚の中11月になり3年前の事を想い出すように。このブログを読み返し当時の事を想い出ししなかった事、出来なかった事を後悔しつつも時間が過ぎていきます。11月9日当日私が仕事をしていると親戚の叔母がわざわざ事務所まで花とお菓子を持ってきてくれたり私の母と妹が花を自宅に送ってくれたり兄が想い出の綿菓子を買ってきてくれたり近所の母友が皆さんで花を持ってくてくれたり来望
先生は保護者会の時、本当に本当に優しい笑顔で私の話を聞いてくれていた。あのアホみたいな最後の言葉を。。それは私だけではなく、保護者一人ひとりしっかりと見て優しい笑顔で話を聞いていたけれど。あの笑顔が忘れられないな。先生とは本当に笑顔が溢れる2年間だった。あー、、忘れられないと言うか忘れたくない。何だろこの感情。涙が止まらない。
『母が膵臓癌になりました52』『母が膵臓癌になりました51』『母が膵臓癌になりました50』『母が膵臓癌になりました49』『母が膵臓癌になりました48』『母が膵臓癌になりました47』『母が膵…ameblo.jp今まで母の膵臓癌関連のblogを読んでくださったりイイね👍してくださったり励ましてくださった皆様へ(念をおくってくださってたかたも)母は8月18日の朝永眠しました。享年71歳です。17日に家族全員集合した際父に助けを求めたり口がカサカサで氷水を欲しがったり(妹が冷
1月25日この日、私の人生がガラガラと音をたてて崩れていきました。コロナ禍のため、パパの会社も在宅勤務が週に2日ほど・・・。ちょうどこの日は在宅勤務でした。朝、普通に娘を最寄駅まで送ってくれてその後、息子が学校へ行き私が家を出る時には「送るかい?」って言ってくれて・・・。この日はたまたま私の支度が遅くなったため、「今日は職場まで車で行くから大丈夫よ」と二階で仕事をしていたパパの顔を見る事もなく「行ってきます」「行ってらっしゃ~い」それが最後の言葉でした・・・。我が
悲しいね好きであることをためらうなんて悲しいねアナタ以外見えないのにためらうなんて悲しいね目の前のアナタに触れることをためらうなんて悲しいね後姿を追いかけることをためらうなんて悲しいね最後の言葉がありがとうだなんて悲しいね悲しいね悲しいね======表題の曲を聴くと何年経っても切なくなります
彼は病気と闘いました。わたしは彼を助けたい一心で一緒に闘いました。いまの彼は闘いを終えていつもの優しい笑顔でゆっくりと過ごしています。彼は5月28日21時34分に永眠しました。彼らしくとても穏やかな顔で何も言わずに静かに旅立ってしまいました。意識がある時の最後の言葉は大きな声でがんばるー!でした。よくがんばったね!もう闘うのは終わりにしましょ。おつかれさま!わたしと一緒にいてくれてありがとう。わたしはとても幸せでしたよ!助けてあげられなくてごめんね。
少しだけ悪くなっていた先生:誤差かもしれないけれど誤差だとしても今の状態はよくない治療をお勧めする私:治療して今まで通りの生活ができる確率は?先生:95%悪く見て90%それに加えて私の場合別のリスクもある…それは治療をしてみないとわからない私:治療しようと思っています。でも「治療します」その言葉が出ないんです。先生:怖いですよね。わかりました。私