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夫とふたりきりで出かけたのは久々でした。実は、出産予定前のゴールデンウィーク中、1日だけ実家に子ども3人を預けて出かける予定でした。車内で「ふたりきりは久々だね。デート行かずじまいだったね。」とか「夜中は渋滞もないし病院もすぐ着くね。」とか、他愛もない話をしていました。ナビ画面に流れるテレビ番組の内容に突っ込んだりしながら、楽しく向かいました。お腹の痛みは、相変わらず、まぁ痛いなぁ、くらいでした。当初予定していた誕生日より早まったけど、もうすぐ会えるんだなぁ、このまま帝王切開、腹をくく
平山作品には、いろんな「痛い描写」が出てきます。自分で足を切断したり(『他人事』)、目に指を突っ込まれて失明したり(『ある英雄の死』)、映画『ハンニバル』さながら脳みそを露出させられたり(『或るろくでなしの死』)、バラエティ満載な拷問を受けたり(『枷』『怪物のような顔の女と溶けた時計のような頭の男』)…。だけどこれらって、どこか現実離れしていると感じませんか?「自分はアウトローな世界に足を踏み入れたりしないし、そんな目に遭う心配もないし安心!」と、それこそ他人事のよ
常位胎盤早期剥離既往がある場合の妊娠。再発の可能性は、既往歴がない場合の10倍だと聞きます。あっという間に赤ちゃんの生命を奪う。母体も一気に状態が悪化。亡くなるケースもある。やっぱり、こんなに残酷な経験をした後の妊娠はいろいろと覚悟が必要だった。妊娠してからは毎日、毎日。1分、1秒たりとも気が抜けなくてずっと苦しかった。前回、死産をして直ぐに当時の担当医から「次の妊娠では管理入院」との説明を受けていたから、きっと、それなら大丈夫だと思うことができた。でも、結局、私の場合は管
よんちゃんが亡くなってから、2年8ヶ月あまり。妊娠37週1日のこの日。ついに、私の人生4度目の帝王切開が始まりました。ずっとずっと、この時を目標に頑張ってきた。本当に、良く頑張ったと思う。私も、家族も、周りで支えてくれた方々も。みんなで手に入れたこの時だと思う。ようやく、ようやく、生きた我が子に会える。手術中は、オペ室の看護師さんと家族の話等をしていました。きっと、私が不安にならないように気遣ってくれていたのだと思います。看護師さんは、ずっと私の手をぎゅっと握り締め、話しかけ
月明かりの眩しい夜でした。便意に似た腹痛で目を覚ましました。時計を見ると3時ちょっと前でした。4度目の出産。帝王切開の予定日から10数日前でした。なんとなく、今回は先に陣痛がきてしまう予感はありました。幼い子ども3人の相手でゆっくりする間などなかったからです。今までより、張ることも多かったです。でも、安静にすれば治まる、その程度の張りでした。検診時に先生にも診てもらったこともありましたが、子宮口もしっかりしまっていて問題ありませんでした。その他のエコーや検査も問題ありませんで
手術が終わっても、私はずっと眠くてたまりませんでした。気づけば眠りについてしまう。遠くから、自分のいびきも聞こえてしまう。代わる代わる、看護師もやって来ます。「めち子さん、お名前と生年月日を教えてください。」私は乾いた声でようやく答える。「めち子、センキュウヒャク…」何度も何度も、このやり取りを繰り返しました。その度に看護師さんが液体を取り替え、私の身体に異常が無いかを聞いてきます。よく見ると、右腕には点滴、左腕には輸血がされていました。しばらくして、先生が来てくださいました
赤ちゃんが加わった、新しい生活が始まりました。赤ちゃんが生まれても、よんちゃんを失った悲しみは消えなかった。でも、それは、私の中で、やっぱり、よんちゃんはよんちゃんで。生まれてきた赤ちゃんは、赤ちゃんなんだ。ということが、ハッキリしたというか。上の3人の子ども達も含め。私にとってはどの子も大事な存在なんだなぁと、改めて感じました。赤ちゃんが生まれたことで、やっぱり、よんちゃんは帰って来ないのだと、現実を突きつけられ、悲しくなった。でも、それも再認識することが、結果的に、またひと
よんちゃんを常位胎盤早期剥離で亡くしてから、ずっとずっと考えていた問題。いったい、あとどれくらい早くいけばあの子は助かったのか。ネットや本、同じように辛い経験をされた方の体験記等をたくさん読みました。私はお医者さんでも医療従事者でもなんでもありません。ただの一経験者です。だからこれが本当なのかも分からないし、程度によって個人差があると思います。でも、私が感じた感覚として…『腹痛を訴えてから分娩までの経過時間』○約1時間後に出生で脳性まひという方を拝見しました。お辛かったと思いま
夫とは10年ほど前に出会いました。結婚してからずっと、子どもは4人欲しいねと話していました。それから男の子、女の子、女の子…と、トントン生まれ、最後はまた男の子を妊娠しました。第1子の長男は、とても大喜びでした。一緒に妊娠週数を数えたり、お腹に話しかけたりしていました。生まれたら何をしたいとか話していました。ちょうど今年度は長男の小学校進学の年でもありました。育休で家にいれることもありがたかったです。家族や親戚一同、大喜びの妊娠でした。子ども達も毎日、お腹の赤ちゃんに声をかけ
病院受診を経て、復帰の目処がたちました。とは言っても、休職期間はちょっと延長。必要な手続きを行います。市役所へ行き、子ども達の保育園の手続き。窓口に新たな診断書の写しを提出し、申立書も再度必要とのことで作成しました。(2度目のため、内容は「診断書のとおり、育児不可のため申請します。」程度で良いとのことでした。)職場へも行き、診断書を提出しました。事務の方からは「あー、これじゃ(こんなに休んだら)給与に影響するねぇ」とかなんとか言われましたが…幹部からは「ゆっくりでいいよ。」と言って
手術室を出ると、産婦人科の看護師さんが待ち構えていたしました。この看護師さんは、総合病院で一番親しくしている方でした。看護師さんが、良かったですね。本当に頑張りましたね。と、声をかけてくださいました。私もホッとして返事をしました。すると、麻酔科の看護師さんが、向こうに旦那さんもいらっしゃいますよ。と言いました。夫がいるらしい方向を見ました。夫に向かって、担当医の先生がスタスタと歩いていくのが見えました。先生が夫に話しかけました。私のベッドを運んでいた看護師さん達も、その
うちの天使パパは、私よりひとつ年上です。夫もまた、よんちゃんが亡くなったことで相当な悲しみに暮れていました。よんちゃんが亡くなった日から、夫は忌引として1週間の休みを貰いました。お陰で、よんちゃんが生まれてきてから火葬するまでの数日間を家族で過ごす事ができました。夫は、よんちゃんが亡くなってしまったのは自分のせいだったと自分を責めていました。私は元々、家のことをなんでも自分でこなしてしまう馬力のあるタイプです。夫は、夫婦の期間が長くなるにつれ、家のことを任せたきりで仕事に打ち込む事が
こんにちは、助産師のちえみです。助産師として最後の砦のような病院勤務を経験、自身の流産・天使ママの女性たちとの出逢いから現在はフリーで女性の笑顔のために活動中です。(詳細はこちらから)▼こちらの記事の続きです。『死産経験者の私は初産婦?それとも経産婦?』こんにちは、助産師のちえみです。助産師として最後の砦のような病院勤務を経験、自身の流産・天使ママの女性たちとの出逢いから現在はフリーで女性の笑顔のために活…ameblo.jp『死産経験者の私は初産婦?経産婦?②』こん
職場から連絡がありました。今後のことについて話したいから来てほしい。と。まだまだ心も身体も傷が癒えていない。本当は行きたくありませんでした。でも、時は進み続けます。よんちゃんは、二度と帰っては来ません。ガタガタの身体で、ハンカチを握りしめ、職場のある建物の中に入りました。職場から「出産時の領収書」「火葬証明書」の持参を指示されたので持って行きました。念の為「死産届」の写しも持って行きました。私は、死産となってから、上司に報告した際、「まだ2歳の次女に対する育休を取ることはできな
私にはプロのカメラマンである友人がいます。夫婦そろって学生時代からずっと交流があり、妊娠中もよく連絡を取っていたので、今回の件も報告していました。すると、向こうからラインがあり、亡くなった人をキレイに写真撮影するポイントを教えてくれました。○蛍光灯を切り、窓際で自然光を利用して撮る。○可能であれば朝日がキレイ。○使い捨てカメラ等のフィルムもいい。荒かったり暗かったりするが、光を通して写すからまた違って感じられる。ということでした。本当は駆けつけたかったとのメッセージも添えられて
昼過ぎ、部屋の移動がありました。産婦人科病棟の一番奥、個室の、静かな部屋でした。いろいろな配慮があっての事だと思います。夫も、昼過ぎに来てくれました。夫とよんちゃんと、3人で過ごします。助産師さんの提案で、手形足形を取ったり、沐浴や授乳をすることになりました。手形足形は、病院にキットがあったようで、それを使わせていただきました。夫が、ビデオを持ってきたので、その様子を撮影しました。手が真っ赤っ赤だねー。なんて、話しながら撮影しました。手と足が真っ赤になったよんちゃん。今度は
こんにちは友人や家族のおかげで最近とても元気に過ごせていて、次このブログを更新するときはレインボーベビーが来てくれる時かなぁ〜なんて思っていたんです。でも、今日これまで生きてきた中でいちばん傷ついた出来事がありました誰かに聞いて欲しくてたまらない。できれば天使親のフォロワーさんに聞いてもらいたい。ちょうどお昼にインスタ見てた時、友達が親しい友達限定のストーリーズを上げてたんです。そしたら「ようこそ我が家へ」という言葉と共に、男の子の新生児ちゃんのお写真を更新して
ずっとこの制度のことを書こうと思っていてここまできてしまっていました。お産の現場では、お腹の赤ちゃんに異常がなかったとしても私のように予期せぬ出来事が起こってしまうことがあります。産科医療補償制度は、お産をした時になんらかの理由で重度脳性麻痺となった赤ちゃんとそのご家族の経済的負担を補償してくれ、かつ原因分析と再発防止に役立てるための制度となっています。ひかたんも補償対象です。ひかたんのような重度脳性麻痺の子は生後6ヶ月から申請することができます。病院と訪問看護さんから教えていただき
私たち夫婦は、入院バックを部屋に運んでから、再び、子ども達の待つ駐車場へと戻りました。子ども達とはあと数日、お別れです。とはいえ、赤ちゃんと会えた嬉しさや、総合病院と違ってちょこっと会えるようにもなったので、子ども達も以前ほどの寂しさを感じなくなっているようでした。3人共、ニコニコしながら自宅へと帰っていきました。病室に戻り、ひとりでソワソワと過ごしていると、看護師さんが赤ちゃんを連れて帰ってきました。看護師さんは笑顔でお帰りー!本当に良かったね。みんなでめち子さんが帰って来るのを
診察室に戻り、先生から今後の流れについて説明を受けました。とりあえず、2週間後、もう一度赤ちゃんを見てみて、成長が確認できたら、妊娠届を提出。それ以降、妊婦健診に入ることとなりました。私は、今回の妊娠確認に際し、電子問診表の備考欄に前回の死産後、総合病院の先生には次回妊娠が可能か相談しています。妊娠した場合は、妊娠後期から総合病院で管理入院をする必要があるとの説明も受けています。と、入力していました。(これは、無計画に妊娠したわけではないとわかって欲しかったという意図もありました。)
よんちゃんとの予定。ついに最後の火葬のみとなりました。朝のピクニックを終えた私たち6人は、家に帰ってからそれぞれの髪の毛と爪を切りました。爪は、夫がお父さん指、私がお母さん指、長男がお兄さん指、長女、次女がお姉さん指です。地域によって風習があるそうですが(私の住む地域にもその風習はなく、したことはありませんでした。)『亡くなった方が淋しくないように』という意味があると聞いたので、私たち家族はすることにしました。そして代わりに、よんちゃんの爪と髪の毛を切って胎毛箱に入れました。ちなみに
妊娠8ヶ月腰の痛みも増して、さらに恥骨が痛むような一人目の時にはなかった違和感が出始めました。トコちゃんベルトなしでは過ごせないくらいに。このトコちゃんベルトはこっこちゃんの妊娠時代から使っていたので、もうマジックテープはヨレヨレ歩いているとたまにマジックテープがズルっと取れてしまっていました後にこのトコちゃんベルトは出産時の出血で血まみれになり、捨てることに。この頃の胎動。今思えばですが、目でわかるくらいの胎動が全くありませんでした。お腹の中でぐーーっと伸びているような胎動や
37週1日です。シロッカー抜糸して退院し、1日家でのんびりしてましたが今朝5時にトイレに行くとポタポタと鮮血が垂れてトイレが真っ赤に術後からちょこっと出ていたおしるしのような茶オリは昨日1日完全に止まっていたのに!!病院に電話すると、子宮口もすでに3センチ開いているので『破水かな?すぐ来て下さい』との事、、夫を起こして陣痛タクシーに連絡して来てもらい一緒に行って来ました。到着して早速内診。子宮口は3センチのまま術後から変わってない。陣痛は来てない。破水検査マイナス。
よんちゃんには、3人のお兄ちゃんお姉ちゃんがいます。一番上は長男。今年、小学校1年になった6歳です。軽度の発達障害(アスペルガー)があります。弟の誕生を心から楽しみにしていました。一緒に週数を数えたり、妊婦健診にも行っていました。二番目は長女。年少さんの3歳です。妊娠中、臍帯異常(臍帯下垂と卵膜付着、これもまた稀な症例…)の影響で低体重児として生まれましたが、1番健康でひょうきん者です。三番目は次女。とっても活発でおしゃべりな2歳です。いつも長女のマネっ子をしています。子
看護師さんが診察室の外から声を掛けるも、先生は現れませんでした。すると、別の看護師さんが来て先にモニターみたいです。と、伝えてきました。そのまま、車椅子でベッドに移動してNSTをすることになりました。ベッドに横になり、NSTを装着します。それと同時に、体温と血圧測定。結果は、体温36.6血圧109/78(うろ覚え…)どちらも問題はなくホッとしました。それにしてもNST。すっごく、久しぶり。たぶん、第二子以来だと思う。第三子、第四子はやる機会がなかった気が
妊娠9ヶ月沖縄から帰ってきて、少し心配だった検診。結果は問題なく、順調でした。この検診が結局最後の検診となりました。ひかたんが生まれる11日前でした。今思えばなのですが…ひかたん妊娠中のお腹はこの時フワフワしたようなお腹ではなく、硬めで突き出るような形のお腹でした。一人目の妊娠の時、+14kg二人目ひかたんの妊娠は初期の頃から体重管理をしっかりしようと、食事は腹8分目にして毎日食べ過ぎないように心掛けていました。そのため体重はこの検診の時で+8.8kg。体重増加を抑えている
火葬場には予約時間の30分前に着く必要がありました。火葬場に着くと、私達の親族が待っていました。静かな火葬場に、見慣れた顔が並びます。皆、喪服を着て、悲しそうな顔をしています。よんちゃん。あなたのお父さんお母さん、お兄ちゃんにお姉ちゃん。ひいおばあちゃんにおじいちゃんおばあちゃん、おじさんもおばさんも、みんな生きてるんだよ?なんで、最初に逝ってしまったのですか?また涙が溢れてきました。たまらなく、つらくて苦しかった。よんちゃんをみんなに抱っこしてもらい、手続きに入ります。中
助産師さんとは、その後もしばらく、お部屋で話を続けました。私のカルテ情報を更新したいからと、家族のことについても聞かれました。ジェノグラムをかく際には「ちゃんとあの子もかくからね。名前は何くんかな?」と言って、よんちゃんもかいてくれました。よんちゃんだけ、黒く塗りつぶされてしまったけど…そのジェノグラムを見て、よんちゃんの存在がしっかりと記録に残った事がすごく嬉しかったです。助産師さんは、前回、私とよんちゃんを襲った常位胎盤早期剥離についてお話してくれました。私に対し、早剥はうちの
天使パパである夫は、私とよんちゃんを連れて帰ったあと、長男を連れて骨壺を買いに出かけました。骨壺は、病院の方から赤ちゃん用のコーナーを設けてある葬儀屋を教えていただきました。(後日、仏具店にもあることに気づきました。今までは全く気にしたこともなかったので…)夫は車内で長男に「よんちゃんは亡くなってしまったから、明日の10時にはお空に帰らないといけないんだよ。だから、新しいおうちを買いに行こうね。」と伝えたそうです。長男は車内でずっと「イヤだ、よんちゃんが飛んでいかないようにずっと捕まえて
うちの長男は、アスペルガーの特性を持つ男の子です。数字が大好きな小学生です。とてもとても、よんちゃんの誕生を楽しみにしていました。一緒に妊娠週数を数えていて、週数が増える曜日には「何週になったよ!」と、教えてくれていました。よんちゃんは37週で亡くなりました。火葬も済ませた後のある日、長男が「お母さん、今日で38週!」と言いました。そっかぁ、よんちゃんがまだお腹に居たら38週だったんだ。なんで、いなくなったんだろう。空っぽになったお腹。帝王切開をして痛い痛いお腹。長男に「よん