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手術が終わっても、私はずっと眠くてたまりませんでした。気づけば眠りについてしまう。遠くから、自分のいびきも聞こえてしまう。代わる代わる、看護師もやって来ます。「めち子さん、お名前と生年月日を教えてください。」私は乾いた声でようやく答える。「めち子、センキュウヒャク…」何度も何度も、このやり取りを繰り返しました。その度に看護師さんが液体を取り替え、私の身体に異常が無いかを聞いてきます。よく見ると、右腕には点滴、左腕には輸血がされていました。しばらくして、先生が来てくださいました
令和6年4月末。よんちゃん、3度目のお誕生日を迎えました。その日が一日、一日と、近づくにつれ、私の気持ちはザワザワとし始めていました。あの時、こうやって過ごしていたな。とか。あの時、こうしていたら違ったのかな。とか。カレンダーを見ては思い出す。よんちゃんが亡くなる数日前から、火葬してお別れをしたその日まで。考えずにはいられなかった。気候もまるで同じ。朝晩は冷え。日中は優しい陽気になる。ずっと、春は好きだったのに。遠くからは、美しい鳥の鳴き声が聞こえてくる。死産をする
先生から休むことを勧められた私は、職場に電話連絡をしました。もう、復帰まで10日に迫っていました。職場からも了承を貰い、診断書を取るように指示されました。そもそも私は、育休で1年間休む予定であり、抜けた穴には新しい方もいらっしゃいました。職場への負担も無いわけで、私自身、申し訳無さもあまりありませんでした。みなさんも事情を知っているので、無理させようともしません。その点では、本当にありがたかったです。後日、再度かかりつけ医に行き、先生に診断書を書いてもらいました。先生はとりあえず
看護師さんが診察室の外から声を掛けるも、先生は現れませんでした。すると、別の看護師さんが来て先にモニターみたいです。と、伝えてきました。そのまま、車椅子でベッドに移動してNSTをすることになりました。ベッドに横になり、NSTを装着します。それと同時に、体温と血圧測定。結果は、体温36.6血圧109/78(うろ覚え…)どちらも問題はなくホッとしました。それにしてもNST。すっごく、久しぶり。たぶん、第二子以来だと思う。第三子、第四子はやる機会がなかった気が
夫とは10年ほど前に出会いました。結婚してからずっと、子どもは4人欲しいねと話していました。それから男の子、女の子、女の子…と、トントン生まれ、最後はまた男の子を妊娠しました。第1子の長男は、とても大喜びでした。一緒に妊娠週数を数えたり、お腹に話しかけたりしていました。生まれたら何をしたいとか話していました。ちょうど今年度は長男の小学校進学の年でもありました。育休で家にいれることもありがたかったです。家族や親戚一同、大喜びの妊娠でした。子ども達も毎日、お腹の赤ちゃんに声をかけ
私は、頭の中で何度も思いました。まだ生まれてなかったし、夫と、上の子3人の生活に変わりはない。ただ、元の生活に戻っただけなのだ。何度も何度も、そう考えました。そう考えないと、心がおかしくなってしまいそうでした。真正面から、受け入れられなかったのだと思います。よんちゃんの命が絶えたと分かってから、少しだけ、医療スタッフの動きも緩やかになったように感じました。たぶん、もう緊急に取り出す必要がなくなったからなのだろうと悟りました。夫は、かかりつけ医から車で駆けつけました。夫は、ポロポ
昼過ぎ、部屋の移動がありました。産婦人科病棟の一番奥、個室の、静かな部屋でした。いろいろな配慮があっての事だと思います。夫も、昼過ぎに来てくれました。夫とよんちゃんと、3人で過ごします。助産師さんの提案で、手形足形を取ったり、沐浴や授乳をすることになりました。手形足形は、病院にキットがあったようで、それを使わせていただきました。夫が、ビデオを持ってきたので、その様子を撮影しました。手が真っ赤っ赤だねー。なんて、話しながら撮影しました。手と足が真っ赤になったよんちゃん。今度は
夫と話をして、この様な場合、葬儀とか火葬とかどうなるのだろう?という疑問がありました。よんちゃんは生まれてから、ずっと背中にアイスノンを敷いてできるだけ冷やしてもらっていました。まだ春先でしたが、部屋はクーラーで冷えていました。私は布団にくるまり過ごしていました。他にも、なるべくキレイで居てもらいたくて、私は唇にワセリンを塗っていました。(乾燥して皮膚が固くなるのを防ぐため)看護師さんからは「職員の家族が手作りしたので良いのがあれば…」と言われて手編みの帽子をいただきました。いろんな
手術室を出ると、産婦人科の看護師さんが待ち構えていたしました。この看護師さんは、総合病院で一番親しくしている方でした。看護師さんが、良かったですね。本当に頑張りましたね。と、声をかけてくださいました。私もホッとして返事をしました。すると、麻酔科の看護師さんが、向こうに旦那さんもいらっしゃいますよ。と言いました。夫がいるらしい方向を見ました。夫に向かって、担当医の先生がスタスタと歩いていくのが見えました。先生が夫に話しかけました。私のベッドを運んでいた看護師さん達も、その
こんにちは、助産師のちえみです。助産師として最後の砦のような病院勤務を経験、自身の流産・天使ママの女性たちとの出逢いから現在はフリーで女性の笑顔のために活動中です。(詳細はこちらから)初著書!「今日もいのちにありがとう」あなたのいのちの癒しにつながりますように。『初著書!いのちの癒しと勇気づけのエッセイ集ー「今日もいのちにありがとう」』今日もいのちにありがとう石渡智恵美(著)このブログがきっかけであたたかなご縁がつながり、人生初めての著書をこの世に生み出すことができました。
助産師さんとは、その後もしばらく、お部屋で話を続けました。私のカルテ情報を更新したいからと、家族のことについても聞かれました。ジェノグラムをかく際には「ちゃんとあの子もかくからね。名前は何くんかな?」と言って、よんちゃんもかいてくれました。よんちゃんだけ、黒く塗りつぶされてしまったけど…そのジェノグラムを見て、よんちゃんの存在がしっかりと記録に残った事がすごく嬉しかったです。助産師さんは、前回、私とよんちゃんを襲った常位胎盤早期剥離についてお話してくれました。私に対し、早剥はうちの
よんちゃんとお別れした日から、900日が過ぎた。私は、スマホにカウントダウンのアプリを入れている。この日だけは、消したくない。ずっと残して、心に刻み続けていきたい。私の人生が、大きく変わった日。私が、変わった日。900日だって。900日前まで、お腹の中で生きていたんだって。あの日からずっと、悲しみと共に生きている。よんちゃんと共に、生きている。よんちゃんの2回目のお誕生日を過ぎたころ。私たち家族の元に待ち人がやって来ました。ずっと、ずっと、待っていた。ありがたいことに、
山本真弓プロフィール1976年7月10日生まれ石川県出身アドラー心理学勇気づけ講師・カウンセラーとして活動中。石川県内の特別支援学校教諭を13年経験し2018年に教員退職後、起業。これまでにアドラー心理学の子育て講座を多数開催し、特に障がいのある子のお母さんに向けたサービスに定評があります。自らの経験を活かした温かいメッセージは同じように障がいのある子のお母さんの心を打ち、ブログやメルマガは「分かりやすくてためになる」と共感を得ています。
よんちゃんの弟を出産して、世間的に4人の子持ちとなってから、言われるようになったセリフがひとつある。「あとひとり」とか「また次もあるかもね」とか。胸がギュッとなる。相手に嫌味がないのは分かる。軽いノリなんだろう。きっと、4人も産んでりゃまだいけるだろう、とか、思ってるんだと思う。別に相手の性格が悪いとか、想像力が云々という話でもないと思う。それに今回、私自身、出産して思ったけれど、やっぱり、子どもは可愛いし、兄弟が増えて子ども同士、ワイワイしているのを眺めるのは好きだし、帝王切開の
妊娠14週での妊婦健診。医師からの、「胎盤の位置が低い」との指摘。まだ14週だから気にしなくていいよ。と、サラッと言われたけど。気にせずにはいられません。だって、滅多に起きないと言われている常位胎盤早期剥離になっている私。「滅多にない」を経験した今、軽く受け止めることなんてできないのです。前置胎盤になると、いかに妊娠から出産が大変になるか…元々持っていた知識だけでも、その大変さは簡単に想像ができました。自宅に帰宅するなり、またソファ移動して横になりました。やっと止まったと思っ
もう本当に大失態。今まで、ずっと安静に努めて生活してきたのに。完全に、私の不注意です。一昨日の昼、自宅リビングでソファから前のめりに転倒してしまいました。その日、私はひとりで過ごしていて、昼食後に温かいお茶を飲むため、マグカップにお茶を入れてリビングを移動していました。ちょうどテレビがついており、私がそちらに注意を向けていたのがいけなかったのだと思います。テレビを見ながら、マグカップ片手にソファへ腰掛けたところ、ソファのクッションが少しずれており、座り方が浅くなってしまいました。バ
ようやく、これからは家族でゆっくりと過ごせると思った矢先、夫が、うつ病になりました。この話、ブログに書こうかどうしようか迷ったけど。妊娠、出産を巡るあれこれは、女性だけでなく、パートナーや子どもにも何かしらの影響を与えるのだろうとも思い。あまり詳しく書くと趣旨がずれそうなので、少し、書くことにします。夫がうつ病となった主たる原因は、仕事です。正直、私は妊娠前から辞めて欲しかった。ずっと「早く辞めないと、心か身体が壊れちゃうよ。」と、言っていた。でも、夫は優しくて、真面目だったから。
月明かりの眩しい夜でした。便意に似た腹痛で目を覚ましました。時計を見ると3時ちょっと前でした。4度目の出産。帝王切開の予定日から10数日前でした。なんとなく、今回は先に陣痛がきてしまう予感はありました。幼い子ども3人の相手でゆっくりする間などなかったからです。今までより、張ることも多かったです。でも、安静にすれば治まる、その程度の張りでした。検診時に先生にも診てもらったこともありましたが、子宮口もしっかりしまっていて問題ありませんでした。その他のエコーや検査も問題ありませんで
よんちゃんを常位胎盤早期剥離で亡くしてから、ずっとずっと考えていた問題。いったい、あとどれくらい早くいけばあの子は助かったのか。ネットや本、同じように辛い経験をされた方の体験記等をたくさん読みました。私はお医者さんでも医療従事者でもなんでもありません。ただの一経験者です。だからこれが本当なのかも分からないし、程度によって個人差があると思います。でも、私が感じた感覚として…『腹痛を訴えてから分娩までの経過時間』○約1時間後に出生で脳性まひという方を拝見しました。お辛かったと思いま
かかりつけの先生から妊娠届をいただいた私は、親子健康手帳の受取申請に行きました。その際、過去の妊娠、出産経歴をお伝えするのですが、今回は今までと違い、私には臨月での死産という経歴が付きます。何か、ちょっと別の対応とかあるのかなぁなんて、なんとなく思っていました。保健師さんとか、グリーフケアや妊婦さんのメンタルケアとか、してるのかなぁって。しかし、実際には、お心遣いあるお言葉はいただけましたが、特に何もなく淡々と終わりました。まぁ、死産後も行政の支援は何も受けなかったし、そんなものか。
よんちゃんが亡くなってから、2年8ヶ月あまり。妊娠37週1日のこの日。ついに、私の人生4度目の帝王切開が始まりました。ずっとずっと、この時を目標に頑張ってきた。本当に、良く頑張ったと思う。私も、家族も、周りで支えてくれた方々も。みんなで手に入れたこの時だと思う。ようやく、ようやく、生きた我が子に会える。手術中は、オペ室の看護師さんと家族の話等をしていました。きっと、私が不安にならないように気遣ってくれていたのだと思います。看護師さんは、ずっと私の手をぎゅっと握り締め、話しかけ
私にはプロのカメラマンである友人がいます。夫婦そろって学生時代からずっと交流があり、妊娠中もよく連絡を取っていたので、今回の件も報告していました。すると、向こうからラインがあり、亡くなった人をキレイに写真撮影するポイントを教えてくれました。○蛍光灯を切り、窓際で自然光を利用して撮る。○可能であれば朝日がキレイ。○使い捨てカメラ等のフィルムもいい。荒かったり暗かったりするが、光を通して写すからまた違って感じられる。ということでした。本当は駆けつけたかったとのメッセージも添えられて
よんちゃんとの予定。ついに最後の火葬のみとなりました。朝のピクニックを終えた私たち6人は、家に帰ってからそれぞれの髪の毛と爪を切りました。爪は、夫がお父さん指、私がお母さん指、長男がお兄さん指、長女、次女がお姉さん指です。地域によって風習があるそうですが(私の住む地域にもその風習はなく、したことはありませんでした。)『亡くなった方が淋しくないように』という意味があると聞いたので、私たち家族はすることにしました。そして代わりに、よんちゃんの爪と髪の毛を切って胎毛箱に入れました。ちなみに
「諦める」って言葉。なんだかネガティブであんまり好きじゃありませんでした。私は元々反骨精神の強いタイプ。いやいや、私、もっと頑張ろうよ!と、思ってなんでもやっていたし、がむしゃらに走る自分自身も好きでした。でも、ここ最近「もう、諦めるしかない。」って、思う自分がいるんです。よんちゃんと一緒のキラキラした未来。どうがんばっても手に入りません。考えても考えても、それは想像で、絶対に手に入らない。未練タラタラの私は、今でもその思いを抱えて生きています。「諦める」という言葉。本来の意
妊娠9ヶ月沖縄から帰ってきて、少し心配だった検診。結果は問題なく、順調でした。この検診が結局最後の検診となりました。ひかたんが生まれる11日前でした。今思えばなのですが…ひかたん妊娠中のお腹はこの時フワフワしたようなお腹ではなく、硬めで突き出るような形のお腹でした。一人目の妊娠の時、+14kg二人目ひかたんの妊娠は初期の頃から体重管理をしっかりしようと、食事は腹8分目にして毎日食べ過ぎないように心掛けていました。そのため体重はこの検診の時で+8.8kg。体重増加を抑えている
梅雨の合間、晴れたある日の話。うちの父が「何十年振りに見つけたから。」と言って、2匹のタマムシを捕まえてきました。滅多に見ることのできない虫を、孫たちにもぜひとのジジ心。父がその日、昨年亡くなった祖父方を訪れた際、近くの木々にたくさん飛んでいたそうです。さっそく、タマムシを虫かごに入れ、庭の葉っぱやとりあえずうちにあったカブト虫用のゼリーを入れてみました。子ども達は大はしゃぎ。口々に「キレイだね〜」と言っています。私もこんなに間近で見たのは初めてでした。しかし、タマムシ。何時間
2018年の話です。ちょうど一年前の今日のことです。6月21日17週2日7:45頃、朝食を食べているときに、水っぽいものが出てくる感覚。3年前の破水と同じ感覚。トイレで確認すると、前回の破水とは違って、血液が混じっている感じも生臭さもなかった。破水でないと思いたかったけれど、きっと破水したな…と絶望的な気持ちになった。出勤した夫に戻ってきてもらい、大学病院へ電話し受診。内診後、おそらく破水ということで入院決定。車イスで個室へ移動した。K先生が部屋へ来て経腹エコー。赤ちゃん
よんちゃんと病院で過ごしたのは、ほんの数日でした。でも、よんちゃんは一回も泣かないから、私はなにもすることがありませんでした。産後はあまり目を使っちゃいけない。とか、聞くので、これまでの産後はできるだけスマホもいじらないようにし、赤ちゃんとゆっくりしていました。しかし今回ばかりは…常位胎盤早期剥離のことを調べたり、死産後のことを調べたり、あっという間に容量もオーバーです。入院時のお産セットに、無料プレゼントのハガキが入っていました。赤ちゃんの写真入り絵本と等身大ポスターのプレゼント
病院受診を経て、復帰の目処がたちました。とは言っても、休職期間はちょっと延長。必要な手続きを行います。市役所へ行き、子ども達の保育園の手続き。窓口に新たな診断書の写しを提出し、申立書も再度必要とのことで作成しました。(2度目のため、内容は「診断書のとおり、育児不可のため申請します。」程度で良いとのことでした。)職場へも行き、診断書を提出しました。事務の方からは「あー、これじゃ(こんなに休んだら)給与に影響するねぇ」とかなんとか言われましたが…幹部からは「ゆっくりでいいよ。」と言って
出血から約3週間。妊娠13週の終わりごろ。ようやく、出血は落ち着きました。出血を見なくて済む。それだけで気持ちも穏やかになり。リハビリがてら、少しだけ家事も再開したり、動ける時間が増えました。そして妊娠14週。私は妊婦健診に向かいました。先生に、出血は一週間程前に止まったことを伝えました。先生が腹部エコーを開始します。しばらくして先生が、めち子さん、どこに住んでるっけ?と、尋ねてきたので、また世間話かなぁなんて軽く考えながら住んでいる場所を伝えました。先生は、私とこの様