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よんちゃんの弟を出産して、世間的に4人の子持ちとなってから、言われるようになったセリフがひとつある。「あとひとり」とか「また次もあるかもね」とか。胸がギュッとなる。相手に嫌味がないのは分かる。軽いノリなんだろう。きっと、4人も産んでりゃまだいけるだろう、とか、思ってるんだと思う。別に相手の性格が悪いとか、想像力が云々という話でもないと思う。それに今回、私自身、出産して思ったけれど、やっぱり、子どもは可愛いし、兄弟が増えて子ども同士、ワイワイしているのを眺めるのは好きだし、帝王切開の
こんにちは、助産師のちえみです。助産師として最後の砦のような病院勤務を経験、自身の流産・天使ママの女性たちとの出逢いから現在はフリーで女性の笑顔のために活動中です。(詳細はこちらから)▼こちらの記事の続きです。『死産経験者の私は初産婦?それとも経産婦?』こんにちは、助産師のちえみです。助産師として最後の砦のような病院勤務を経験、自身の流産・天使ママの女性たちとの出逢いから現在はフリーで女性の笑顔のために活…ameblo.jp妊娠21週で死産。その後妊娠。私は初産
夫とは10年ほど前に出会いました。結婚してからずっと、子どもは4人欲しいねと話していました。それから男の子、女の子、女の子…と、トントン生まれ、最後はまた男の子を妊娠しました。第1子の長男は、とても大喜びでした。一緒に妊娠週数を数えたり、お腹に話しかけたりしていました。生まれたら何をしたいとか話していました。ちょうど今年度は長男の小学校進学の年でもありました。育休で家にいれることもありがたかったです。家族や親戚一同、大喜びの妊娠でした。子ども達も毎日、お腹の赤ちゃんに声をかけ
夫とふたりきりで出かけたのは久々でした。実は、出産予定前のゴールデンウィーク中、1日だけ実家に子ども3人を預けて出かける予定でした。車内で「ふたりきりは久々だね。デート行かずじまいだったね。」とか「夜中は渋滞もないし病院もすぐ着くね。」とか、他愛もない話をしていました。ナビ画面に流れるテレビ番組の内容に突っ込んだりしながら、楽しく向かいました。お腹の痛みは、相変わらず、まぁ痛いなぁ、くらいでした。当初予定していた誕生日より早まったけど、もうすぐ会えるんだなぁ、このまま帝王切開、腹をくく
手術室を出ると、産婦人科の看護師さんが待ち構えていたしました。この看護師さんは、総合病院で一番親しくしている方でした。看護師さんが、良かったですね。本当に頑張りましたね。と、声をかけてくださいました。私もホッとして返事をしました。すると、麻酔科の看護師さんが、向こうに旦那さんもいらっしゃいますよ。と言いました。夫がいるらしい方向を見ました。夫に向かって、担当医の先生がスタスタと歩いていくのが見えました。先生が夫に話しかけました。私のベッドを運んでいた看護師さん達も、その
私は、頭の中で何度も思いました。まだ生まれてなかったし、夫と、上の子3人の生活に変わりはない。ただ、元の生活に戻っただけなのだ。何度も何度も、そう考えました。そう考えないと、心がおかしくなってしまいそうでした。真正面から、受け入れられなかったのだと思います。よんちゃんの命が絶えたと分かってから、少しだけ、医療スタッフの動きも緩やかになったように感じました。たぶん、もう緊急に取り出す必要がなくなったからなのだろうと悟りました。夫は、かかりつけ医から車で駆けつけました。夫は、ポロポ
かかりつけの先生から妊娠届をいただいた私は、親子健康手帳の受取申請に行きました。その際、過去の妊娠、出産経歴をお伝えするのですが、今回は今までと違い、私には臨月での死産という経歴が付きます。何か、ちょっと別の対応とかあるのかなぁなんて、なんとなく思っていました。保健師さんとか、グリーフケアや妊婦さんのメンタルケアとか、してるのかなぁって。しかし、実際には、お心遣いあるお言葉はいただけましたが、特に何もなく淡々と終わりました。まぁ、死産後も行政の支援は何も受けなかったし、そんなものか。
昼過ぎ、部屋の移動がありました。産婦人科病棟の一番奥、個室の、静かな部屋でした。いろいろな配慮があっての事だと思います。夫も、昼過ぎに来てくれました。夫とよんちゃんと、3人で過ごします。助産師さんの提案で、手形足形を取ったり、沐浴や授乳をすることになりました。手形足形は、病院にキットがあったようで、それを使わせていただきました。夫が、ビデオを持ってきたので、その様子を撮影しました。手が真っ赤っ赤だねー。なんて、話しながら撮影しました。手と足が真っ赤になったよんちゃん。今度は
助産師さんとは、その後もしばらく、お部屋で話を続けました。私のカルテ情報を更新したいからと、家族のことについても聞かれました。ジェノグラムをかく際には「ちゃんとあの子もかくからね。名前は何くんかな?」と言って、よんちゃんもかいてくれました。よんちゃんだけ、黒く塗りつぶされてしまったけど…そのジェノグラムを見て、よんちゃんの存在がしっかりと記録に残った事がすごく嬉しかったです。助産師さんは、前回、私とよんちゃんを襲った常位胎盤早期剥離についてお話してくれました。私に対し、早剥はうちの
夫と話をして、この様な場合、葬儀とか火葬とかどうなるのだろう?という疑問がありました。よんちゃんは生まれてから、ずっと背中にアイスノンを敷いてできるだけ冷やしてもらっていました。まだ春先でしたが、部屋はクーラーで冷えていました。私は布団にくるまり過ごしていました。他にも、なるべくキレイで居てもらいたくて、私は唇にワセリンを塗っていました。(乾燥して皮膚が固くなるのを防ぐため)看護師さんからは「職員の家族が手作りしたので良いのがあれば…」と言われて手編みの帽子をいただきました。いろんな
よんちゃんが亡くなってから、2年以上が経ち、子ども達もそれぞれに成長しました。今でもよんちゃんの事は覚えている。そしてまた、新たな生命を授かり、今回は、無事に赤ちゃんが生まれた。赤ちゃんが生まれたことで、子ども達にとって、よんちゃんの存在はどうなるのかなぁと、ずっと気になっていたのですが、彼、彼女らの中には、しっかりと「5人兄弟」として存在しているようです。戸籍上には載っていない、よんちゃん。でも、子ども達は、当然、戸籍のことなんて知らない。よんちゃんがこの世に存在した、その事実だけ
手術が終わっても、私はずっと眠くてたまりませんでした。気づけば眠りについてしまう。遠くから、自分のいびきも聞こえてしまう。代わる代わる、看護師もやって来ます。「めち子さん、お名前と生年月日を教えてください。」私は乾いた声でようやく答える。「めち子、センキュウヒャク…」何度も何度も、このやり取りを繰り返しました。その度に看護師さんが液体を取り替え、私の身体に異常が無いかを聞いてきます。よく見ると、右腕には点滴、左腕には輸血がされていました。しばらくして、先生が来てくださいました
看護師さんが診察室の外から声を掛けるも、先生は現れませんでした。すると、別の看護師さんが来て先にモニターみたいです。と、伝えてきました。そのまま、車椅子でベッドに移動してNSTをすることになりました。ベッドに横になり、NSTを装着します。それと同時に、体温と血圧測定。結果は、体温36.6血圧109/78(うろ覚え…)どちらも問題はなくホッとしました。それにしてもNST。すっごく、久しぶり。たぶん、第二子以来だと思う。第三子、第四子はやる機会がなかった気が
令和6年4月末。よんちゃん、3度目のお誕生日を迎えました。その日が一日、一日と、近づくにつれ、私の気持ちはザワザワとし始めていました。あの時、こうやって過ごしていたな。とか。あの時、こうしていたら違ったのかな。とか。カレンダーを見ては思い出す。よんちゃんが亡くなる数日前から、火葬してお別れをしたその日まで。考えずにはいられなかった。気候もまるで同じ。朝晩は冷え。日中は優しい陽気になる。ずっと、春は好きだったのに。遠くからは、美しい鳥の鳴き声が聞こえてくる。死産をする
手術説明を受けるため、夫を呼びに行きました。しかし、一緒に連れてきた長女は先生のいらっしゃる診察室に入ることが出来ません。家族でどうしようか悩んでいたら、近くにいた案内担当のベテラン看護師さんが「説明の間、一緒に居ましょうか?」と言ってくださいました。長女に確認すると、最初は「パパとママと一緒がいい。」と言っていましたが、しばらくして「直ぐ帰って来る?」と言い、私達も「終わったら直ぐに戻るよ。」と、伝えると、長女は、コクっと頷いて、初めて会ったはずのその看護師さんの側に行き、自ら看護師さん
あわわわわわ……あと、2週間で次の妊婦健診です。心配!!!次は血糖検査があるんですよね。引っかかりませんように(。-人-。)あの、炭酸を飲むの苦手なんだよなぁそもそも炭酸飲料が苦手だから5分で飲み切るとか辛すぎるよー体重も日々少しずつ増えているし、一時期は辛いもの、塩っぱいものを欲していたのに、今は甘いもの欲がすごい!!
職場から連絡がありました。今後のことについて話したいから来てほしい。と。まだまだ心も身体も傷が癒えていない。本当は行きたくありませんでした。でも、時は進み続けます。よんちゃんは、二度と帰っては来ません。ガタガタの身体で、ハンカチを握りしめ、職場のある建物の中に入りました。職場から「出産時の領収書」「火葬証明書」の持参を指示されたので持って行きました。念の為「死産届」の写しも持って行きました。私は、死産となってから、上司に報告した際、「まだ2歳の次女に対する育休を取ることはできな
妊娠14週での妊婦健診。医師からの、「胎盤の位置が低い」との指摘。まだ14週だから気にしなくていいよ。と、サラッと言われたけど。気にせずにはいられません。だって、滅多に起きないと言われている常位胎盤早期剥離になっている私。「滅多にない」を経験した今、軽く受け止めることなんてできないのです。前置胎盤になると、いかに妊娠から出産が大変になるか…元々持っていた知識だけでも、その大変さは簡単に想像ができました。自宅に帰宅するなり、またソファ移動して横になりました。やっと止まったと思っ
新年度が始まって最初の参観日。授業参観後の学級懇談で、担任の自己紹介がありました。先生はベテランの女性で、非常にハツラツとした方でした。先生はご自身の経歴を話す中で、教員になってから、最初に男の子を出産したこと次に妊娠した子どもは死産したことその子どもは女の子であったことそれからしばらく、教員の仕事を休んでいたことその後、男の子を授かり無事に出産したこと女の子への未練が残り、再度、妊娠したこと女の子を授かることができ、無事に出産したことを話されていました。私はこの話を聞い
妊娠22週。総合病院での妊婦健診の開始です。今回は、自治体から配布される妊婦健診メニューに採血が入っていたため、絶食で行きました。私自身としては、〇管理入院は何週ころからになるかのを聞きたい〇タイミングがあれば性別を知りたい〇前回妊娠時に気になっていた、眼華閃発(視界のチカチカ)の話をしたいと考えていました。眼華閃発については、この時期は落ち着いていたのですが、今回の妊娠初期のうち、出血が続いていた期間に2、3日に1回の頻度で起きていた為、前回の後悔を教訓として、念の為、先生に伝
先生から休むことを勧められた私は、職場に電話連絡をしました。もう、復帰まで10日に迫っていました。職場からも了承を貰い、診断書を取るように指示されました。そもそも私は、育休で1年間休む予定であり、抜けた穴には新しい方もいらっしゃいました。職場への負担も無いわけで、私自身、申し訳無さもあまりありませんでした。みなさんも事情を知っているので、無理させようともしません。その点では、本当にありがたかったです。後日、再度かかりつけ医に行き、先生に診断書を書いてもらいました。先生はとりあえず
よんちゃんが亡くなってから、2年8ヶ月あまり。妊娠37週1日のこの日。ついに、私の人生4度目の帝王切開が始まりました。ずっとずっと、この時を目標に頑張ってきた。本当に、良く頑張ったと思う。私も、家族も、周りで支えてくれた方々も。みんなで手に入れたこの時だと思う。ようやく、ようやく、生きた我が子に会える。手術中は、オペ室の看護師さんと家族の話等をしていました。きっと、私が不安にならないように気遣ってくれていたのだと思います。看護師さんは、ずっと私の手をぎゅっと握り締め、話しかけ
天使パパである夫は、私とよんちゃんを連れて帰ったあと、長男を連れて骨壺を買いに出かけました。骨壺は、病院の方から赤ちゃん用のコーナーを設けてある葬儀屋を教えていただきました。(後日、仏具店にもあることに気づきました。今までは全く気にしたこともなかったので…)夫は車内で長男に「よんちゃんは亡くなってしまったから、明日の10時にはお空に帰らないといけないんだよ。だから、新しいおうちを買いに行こうね。」と伝えたそうです。長男は車内でずっと「イヤだ、よんちゃんが飛んでいかないようにずっと捕まえて
よんちゃんを常位胎盤早期剥離で死産してから約2年。いつか、また、妊娠したいと、ずっと思っていました。そして、無事に妊娠。今回の妊娠は、過去4回の妊娠と全然違う。妊娠経過もだけど。それ以上に、私自身の出産への覚悟が、全然違う。なんとしても、無事に産みたくて。なんとしても、二度とあんなにツラい思いはしたくなくて。なんとしても、赤ちゃんの誕生を楽しみに待つ子ども達の笑顔が見たくて。赤ちゃんを産むため、自分に出来ることは何だってしたいと。心から思って過ごしてきました。たくさんの壁は
先生が、入院の開始日について考えていました。電子カルテに記載された、私の過去の記録を見て、先生が、前回(早剥発症時)は、陣痛が来たと思って受診したんだね。と、言いました。そこで私も、そうなんです。あんまり痛くなくて。全然、笑えるレベルの痛みしか無くて。そういうのもあって、昨日の夜も痛みの具合に判断がつかず、夜間受診してしまいました。すみません…と伝えると、先生は、普通、早剥ってめちゃくちゃ痛いんだけどね。と答えました。そして先生が、卓上カレンダーを手に取りを、クリスマ
妊娠37週目にして、私は常位胎盤早期剥離により大事な大事な我が子を亡くしました。いろいろと調べたところ、常位胎盤早期剥離の既往歴があると次回妊娠時に再発しやすいとのこと。私や夫としては、やっぱり子どもをもうひとり育てたい。でも、怖い。そんな思いでずっと葛藤していました。出産前、私は今回が最後の妊娠だからと卵管切除も検討していました。でも、健康な子宮の一部を失うのはなんだか悲しくて。助産師さんに相談したら「迷うくらいならしない方がいいよ。今はミレーナとか避妊方法もいろいろあるから!」
夜、寝る頃には「少しずつ、前向きになれたかもしれない。」と思い、眠りにつきます。でも、朝目覚めると、胸が苦しくて苦しくて。東側の窓に差し込む、朝の優しい木漏れ日を見ても悲しくて。あの日から、清々しい朝など無い。どうにか起きて、夫と子ども達を送り出し、散らかった部屋を片づけ、洗濯をし、よんちゃんの事を考える日々を送っています。あれから1か月が過ぎたから、もう特に予定もなく。最近は、チラホラ「出産おめでとうございます!」とか書かれたハガキやプレゼントが届きます。妊娠中に、プレママプレゼ
うちの娘ふたりは、自宅近くの認定こども園に通っています。とてもアットホームで、家族の様に接してくれます。今回の死産をご報告した際も、一緒に悲しんで下さいました。よんちゃんにと、お花もいただきました。お花には「天国でお友達をたくさん作ってくださいね。」と、書かれてありました。その優しさに涙が出ました。認定こども園を管理する市役所から、こども園に連絡があり「そろそろ出産予定日だから、生まれたら出生届の写しを提出するように」と、指示をされたそうです。そこでこども園の方が、今回、死産とな
今回の死産。私は何人かの友人に報告をしていました。そのうちのひとり。学生時代からの大事な友人。彼女が大学に行ってからは、本当に数えるほどしか会っていません。ライン等のやりとりも殆ど皆無。でも、とても大事な友人です。彼女には、手紙でよんちゃんの事を伝えました。元々あまりマメではない友人。(ごめんね。笑)そんな彼女から直ぐに郵便が届きました。中を開けると手紙と本が一冊。手紙を読むと、私のことを本当に心配してくれていて、子供のことも一緒に悲しんでくれていて。そして、こんな時
常位胎盤早期剥離既往がある場合の妊娠。再発の可能性は、既往歴がない場合の10倍だと聞きます。あっという間に赤ちゃんの生命を奪う。母体も一気に状態が悪化。亡くなるケースもある。やっぱり、こんなに残酷な経験をした後の妊娠はいろいろと覚悟が必要だった。妊娠してからは毎日、毎日。1分、1秒たりとも気が抜けなくてずっと苦しかった。前回、死産をして直ぐに当時の担当医から「次の妊娠では管理入院」との説明を受けていたから、きっと、それなら大丈夫だと思うことができた。でも、結局、私の場合は管