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横田基地に接近した区間のフライトデータに矛盾あり横田基地へ向かった18:45′〜18:48′の3分間は、緩やかに左旋回しながら高度を5000mから2080mに安定降下しつつ南からのアプローチを試みていた。この区間はDFDR上、エンジン出力(エンジン圧力比:EPR)をスラストレバーをほぼ全閉の平均0.92まで絞り、前後方向加速度は一定の負の加速度を保って減速し続けた記録になっているが、CAS:対気速度は約420km/hを維持して減速しなかったことになっている。これは矛盾している。「DFD
田村飛行隊長は話を続けた。自衛隊と米軍では123便の墜落地点を正確に把握していたが、国の上層部はそれを直ぐには公表しなかった。123便にB-1の塗料が付着している可能性があるとして、先ず意図的に墜落地点の誤報を流した。その間に陸上自衛隊の精鋭部隊である習志野第1空挺団が大型ヘリで墜落地点に飛び、残骸の中から塗料が付着している部品を回収したのである。回収を終わらせてから国は正式な墜落地点を公表した。それは日付けが変わった午前4時頃だということだ。もう一つの現場、相模湾には123便の損失したラ
前回、神代の初期、神々の社会が乱れだしたことをご紹介しました。この時の地の統括者は国常立尊でした。人間の時間間隔では数百億年レベルの大昔のことです。元来、神に善も悪もなかったようなのですが、だんだん神々に派閥が出来だし、国常立尊の時代の終盤には3つの派閥に分かれ、最終的には後に邪神と呼ばれるようになる派閥が国常立尊を引退に追い込んだ上、国常立尊を幽界に封じ込めてしまい、邪神が地の統括者となったようです。邪神が統治する世界では規律が乱れに乱れ、神々は自分のことばかり優先的に考えるように
緊急着陸の準備として.フラップは下げられたのか[DFDRの綻び]18:45′〜18:48′の区間で横田基地への緊急着陸を試みるも直前で諦めたとして、その詳細は検証の記録10で述べた。この際に着陸準備の為、コクピット内では以下の会話がなされていた。18:44′47″〜機関士)フラップどうしましょうか?下げましょうか?機長)まだはやい機関士)まだはやいですか機長)まだはやい副操縦士)ギアおりてますか?機関士)ギアおりてますこの会話の流れだと、その後着陸に備えて然るべき時期にフ
「機長、これから横田基地にエスコートしますので付いて来てください」「了解しました。ただハイドロがダウンしていますので殆どアンコントロールです。エンジンコントロールとエルロンでどうにか付いて行けると思います」こんな状態で果たして横田までエスコート出来るだろうか、もし自分が高濱機長の立場なら自信がない。阿部はそう思いながらJAL機の前へ出ようとした時、思わぬ光景を目にした。旅客機だから当たり前かもしれないが、乗客が窓から盛んに手を振ったり手を合わせたりしているのである。阿部は胸が締め付けられる
1985年8月12日に発生した日航ジャンボ機墜落事故は、乗員乗客520人が亡くなり、史上最悪の飛行機事故と言われます。発生から38年が経ちますが、未だに多くの人が墜落の原因等について納得がいかず、真実を追究しようとしています。日航機墜落記録開示認めず乗客遺族、再び敗訴乗客乗員520人が犠牲になった昭和60年の日航ジャンボ機墜落事故を巡り、遺族が日航に機体のボイスレコーダー(音声記録装置)とフライトレコーダー(飛行記録装置)…www.sankei.com日航機墜落事故の事故原因は「
◉垂直尾翼損壊の貴重なサンプル墜落事故翌日.8月13日の夕方に相模湾で護衛艦「まつゆき」に発見され回収された垂直尾翼の残骸は、前縁上部のまとまった部分形状をよく維持しており垂直尾翼の破壊状況を知る上でたいへん貴重なサンプルとなった。また8月14日午前10時頃に航行中の漁船によって下部方向舵最上部の残骸が回収された。図①図①B747垂直尾翼模式図🔳回収された垂直尾翼前縁上部の破壊状況日本航空123便は相模湾伊豆沖の上空で異常事態に見舞われ、その際に破壊された垂直尾翼とAPUの大半
阿部と白鳥は無断外出から無事に隊舎に帰り着くと、待ち侘びていた谷口と北沢に無言で新聞を手渡した。消灯になり照明は消したが、ある者は憤慨しある者は冷静にこの件について意見し合った。皆、外部からの飛行物体による衝撃で損傷したとする見解で一致した。飛行物体についての議論阿部:問題は何が垂直尾翼を破壊したかだ。北沢:まさかミサイルじゃないでしょうね。阿部:ミサイルなら信管でも外さない限りあんな損傷にはならないよ。白鳥:例えば航空機そのものだとか。谷口:航空機ならその相手もダメー
墜落の全容(後編)日航123便は、18:38′山梨県上空の横田空域内で、米軍輸送機C-130に誘導されながら東から北東へ変針した。この区間で、高濱機長はC-130が横田基地と交信中であろう僅かな隙を狙って、東京管制(ACC)に羽田へのレーダー誘導を要請し、B滑走路22がアベイラブルであるとの情報を得た。そしてちょうど大月市上空に差し掛かった辺りである。18:40′エンジンを一旦スローに落としたことでC-130が後方に距離を開けて下がったタイミングで、突然スラストレバーを全開にした。そし
日本航空123便を襲った衝撃波の正体1985.8.1218:24′に日本航空123便の垂直尾翼と機体尾部は、超音速機が掠めたことによる衝撃波で破壊されたとした。今回は「検証の記録3」を補足する。【機体内部の衝撃波】確実に言えることは、伊豆半島にソニックブームとして伝わった衝撃波は日本航空123便の機体内部で発生したものではない。仮に後部圧力隔壁に1.8㎡の開口部ができてラバーノズルの働きをしたとすれば規模の小さな衝撃波は生じるだろう。しかしながら、真後ろのAPU防火壁に衝突して破壊す
日本記者クラブ.取材ノート掲載記事から日本記者クラブ.取材ノート2021年10月掲載分【共有できなかった墜落地点情報】藤森研を参照して、検証の補足にする。(尚2022.812朝日新聞デジタルにも同様の手記が掲載された)1985年8月12日、朝日新聞社.社会部の藤森さんは、朝日新聞社の取材ヘリ(ちよどり)で20時30分に羽田から飛び立ち、21時9分に墜落現場の上空に到着した。ヘリの計器は羽田から方位304°.距離60マイルを示していた。羽田に帰着後に、地図にコンパス.分度器.
日本音響協会所長曰く「客室高度警報音は鳴っていない」事故調査報告書(以下.報告書)によれば、18:24′35.5″の初期事故により客室には急減圧が生じて、①24′37″から1秒間と②25′04″〜47′28″の約22分間、及び③51′26″〜55′24″の約4分間(高度を10000ft以上に上げた区間)は客室高度警報音が鳴ったとしている。(図1)■先ず①について客室高度警報音が24′37″①から1秒間鳴り、一旦鳴り止んで29秒後の25′04″②から再度鳴り始めたとしたことに
墜落現場の位置は、当日夜間の早い時間帯から絞り込まれていた日本航空123便がレーダーから消息を絶ってから、いち早く米軍、自衛隊が航空機を飛ばして捜索に当たり、墜落現場上空を旋回するなどして横田TACAN、入間TACANで方位と距離を測定し、墜落現場の特定を急いだ。直ちに米軍輸送機C-130、空自百里基地.第305飛行隊所属のF4-EJが、また同空自ヘリコプターV-107が捜索にあたった。最も早い情報は、19時19分、炎上する日航機をいち早く発見した、米軍C-130の旋回位置を、横田TACA
はじめに2021年10月17日この日は私にとって忘れられない衝撃の1日となった。日本航空123便墜落事故の調査をするうちに、縁あって連絡を取り合っていたY氏から非常に重大な内容の資料を託されたのである。資料はPDF化したデータを3つに分けてiCloudメールで送って頂いた。時は1985年8月12日日本航空123便に非常事態が発生してから直ちにアラート発進したF-4EJファントム.2機の編隊長.阿部典之元一等空尉の105頁にわたる大変貴重な記録である。阿部氏は記録を完成させたその日のうち
墜落現場からは、垂直尾翼の破断部が全く回収されていない⁈事故初期の垂直尾翼損壊後に、いったいどれだけの垂直安定板が残存したのか。先ず、事故調は下図(P163.付図27)にて格子柄の部分が山中から回収した残骸として、事故現場から回収された部分と記している。さらに事故調は、最終的な墜落時の垂直尾翼残存部分を下図(付録11.付図10)のA.B.E.の部分として全体の41.61%が残存したと結論づけた。これには東京都西多摩郡奥多摩町日原で、非番の警察官である山崎啓一さんが撮影した写真(18:50
あとがき私がこの案件を調べるにあたり、先ず参考にした資料は事故調査報告書とその解説書である。さらに航空力学、圧縮性流体力学、熱力学、材料力学、音響などの成書や論文などの文献も参考にしながら、私の専門分野からの解析も含めて慎重に調査を進めた。新聞記事や信頼筋(元米軍連絡将校.大手航空会社現役機長.元日本航空客室乗務員)からの情報も大いに有用であった。関連書籍、雑誌記事、ブログ、動画等は情報としての信頼性において優劣があるためそれに応じて参考程度とした。事故調査報告書を読み進めるにあたり、
圧力隔壁破断説の根拠と示されるものは衝撃波による外部要因で説明できる☆以下に事故調査報告書が後部圧力隔壁から破断が始まった根拠として挙げている事項を羅列するが、これらは全て衝撃波による外部からの衝撃力で説明できる事柄である。⚫︎後部圧力隔壁は上方の第1ストラップと第2ストラップの間で大きく非与圧側に折れ曲がっていた(報告書.写真77〜83)⚫︎与圧側の断熱材が後部圧力隔壁の後方の非与圧区域(水平尾翼.垂直尾翼残存部.胴体後部)に広く付着していた(同写真94.95.97.98)⚫︎後部胴
日航機墜落事故関連そこに友情は無かった黒田匠ワタナベケンタロウ氏の私に対する根拠なき誹謗中傷が過ぎる。当方が抗議しないことをいいことに図に乗るのはいい加減にしてもらいたい。自らの狭量が元で協力者が離れて行ったにもかかわらず、それを恨んで虚偽の言い掛かりを付けて相対的に自分の位置を上げようとする卑劣な行為は許されない。よって事実を説明する。とはいえ一時は同じ志をもつ仲間として全面的に信頼した相手でもある故に誤解が解けることに期待したい。▪️対象ワタナベケンタ
CVRから-羽田緊急着陸に関する交信部分の修正案フライトデータから大月旋回の解析をした後に、流出CVR中にこの区間の記録が殆ど欠落していることを疑問視するようになった。元々マスコミにリークされた流出CVRはオリジナルではない。事故調査報告書の文字起こしの順と時刻に合わせてマスコミ等機関によりACC録音分等も含めて再編集されたものである。日本標準時の音声案内は、ACCの録音用磁気テープに記録された報時信号に沿って後から挿入されたものである。羽田緊急着陸に関する交
墜落現場の朝(前編)1985年8月28日朝日新聞朝刊立命館大学産業社会学部深井純一教授の投稿から【題名】鈍かった日航機救出活動深井教授はゼミで長野県南牧村の知人宅に8月12日から宿泊しており、事故現場へ救護隊として駆けつけようと翌13日早朝4時半にゼミの学生らと合わせて4人で事故現場を目指して自家用車で出発。長野県北相木村から群馬県上野村へ入ろうと試みたが、警察の検問に阻まれて止むを得ず迂回し、南相木村の川沿いの林道の終点で車を乗り捨てて7時に入山した。約3時間余りで事故現場(御
ユミコちゃん...元宝塚雪組娘役北原遥子花王ソフィーナのTV-CM1983年雪組バウホール公演・杜けあき主演『恋のトリコロール』で初ヒロインに抜擢された当時研3のユミコ。吾輩のヅカ初見の年に初舞台を踏んだ宝塚歌劇団第67期生。その中でもすみれ寮で同室で"双子姉妹"と周囲に呼ばれたという北原遥子と黒木瞳。研1で朝日放送🖥️の朝の情報番組『おはよう朝日です!』のアシスタントに抜擢された二人。当時の「宝塚グラフ」の中でも、座付演出家・柴田侑宏との対談企画にも☝️雪組のユミ
翌8月13日0600.百里基地に起床のラッパが鳴り響いた。眠い目を擦りながらベッドを整頓していたところに警務隊の当直士官が入って来た。「おはようございます。本朝の朝食は食堂ではなくこちらで用意しますので本庁内で摂っていただきます。その後はここで待機してください」すぐに阿部が、「一度隊舎に帰らせてくれ。着替えや洗面道具など他にも取って来たい物がある」「申し訳ありませんが、本庁から外出させぬよう通達を受けております。隊舎に必要な物があればメモを渡してください。警務隊員に取りに行かせます」
2022年4月に投稿した記事ですが、再投稿させていただきます。☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆1985年8月12日、午後6時56分に羽田空港から大阪・伊丹空港に向けて飛び立ったJAL123便。その後、行方不明となり、群馬県上野村の御巣鷹の尾根に激突、乗員乗客520名が死亡した航空史上最悪の大惨事、日航ジャンボ機墜落事故。実は、真相はもみ消され、闇に封じ込められたままとなっていることを、『テレビは見るな!新聞は取るな!』を読んで知りました。非常に衝撃
後部圧力隔壁の修理はミスなのか.事故原因なのか(中編)B747-SR100.JA8119には、1978年6月2日の大阪国際空港における着陸時に後部圧力隔壁を含む機体後部.尾部を損傷する事故歴があった。この修理はボーイング社の修理チームにより施行された。後部圧力隔壁の下半分を交換する際に、スプライスプレートの不適切な設置により上側ウェブ下端の一部は1列リベット結合となった。この為リベット孔周囲の強度が低下して疲労亀裂を早めることになり、後部圧力隔壁破断の原因になったとされた。⚫︎前編.第
墜落現場の朝(後編)先遣部隊として翌朝7時54分に基地を発進した習志野第1空挺団.73名は、現場に8時49分リベリング降下を開始し9時54分降下を完了した。しかし墜落現場の中心となる御巣鷹の尾根とツゲノ沢第3.4支流に駆け付けることはなかった。何故だろうか。統括する東部方面総監部は、早朝6時前には複数の捜索機(立川UH1.OH6入間V107)から有視界下での機体残骸確認の報告を受け、6:15′には墜落現場の空撮映像を伝送されていた.にも拘らずである。このことは、第1空挺部隊は予め任務と
翌日の出来事としてバーバスポイント基地飛行隊との共同飛行訓練の様子が描写されている-中略-訓練後、4人は隊舎に戻りミーティングルームに集まった。先ず阿部がK子から仕入れた情報として、日本国内では7年前の尻もち事故歴が調査の対象になっていることを話した。そこにケインがやって来て事故についての議論が始まった。「新たな情報を入手しました」4人はケインの次に出て来る言葉に少し緊張した。「皆さんがJAL機をエスコート中に遭遇した岩国からのC-130輸送機のクルー6人が、JAL機墜落の翌日アメ
伊豆半島に鳴り響いたソニックブームの音圧レベル(デシベル.dB)を概算す事故当日18:24′の初期事故とほぼ同時刻に、伊豆半島.賀茂郡河津町の海岸で、住民が波の音をテープに録音中に偶然ボーンという音が録音された。日本音響協会で分析した結果、サウンドスペクトログラムから衝撃波によるソニックブームと断定され、その音エネルギーは波の音の30倍以上と解析された。また事故発生40秒後に賀茂郡東伊豆町の東京大学地震研究所.箒木山観測所で微気圧振動計に記録された波形は、CVRの再生波形と同一の傾向を示した
落合証言から分析する時系列と飛行経路落合由美さんの証言は、基本的に事故調査報告書の飛行経路略図と時系列に合わせてある印象である。一見すると羽田にも横田にも向かった様子が見られない。これを羽田緊急着陸や横田緊急着陸の予定があったものとして吟味し直すと、証言からは、大月旋回の中盤18:42′頃から墜落直前の18:55′頃までが完全に欠落していることが分かる。これを以下に説明する。先ず証言内で矛盾することを一点のみ挙げる。酸素が出なくなった時刻(酸素供給は約18分間)は18:43′頃である。そ
第4エンジンは大破.粉砕し原型を留めず日本航空123便は、墜落の最終局面では+3Gの斜め垂直旋回で機首を上げながら地上との衝突を避けようとした。しかし右バンクの姿勢で右主翼を一本から松などの木々に接触させて、右主翼と第4エンジンが破損。続くU字溝では機体後部胴体を地面に打ち付けて垂直尾翼や水平尾翼などが脱落し、弾みで反転して舞いながら約600m先の御巣鷹の尾根に背面から叩きつけられた。⚫︎事故調によれば、左主翼の第1.2.エンジンはU字溝での接触で外れ、500〜700m飛び、墜落地点(
垂直尾翼損壊の原因・ステルス機超音速流が強力な斜め衝撃波を形成して垂直尾翼を破壊したと仮定するならば、原因は超音速機がギリギリで掠め飛んだアクシデントである可能性が高い。管制にレーダー航跡の記録は無いとされているため、レーダーに極めて映りにくいステルス機が候補に挙がる。1985年当時はまだ本格的なステルス機は存在を知られてはならない軍事的最高機密であった。冷戦が順次雪解けしていく1988年以降になってからは徐々に明るみに出ることになり、ミリタリー雑誌にスクープされたこともあって米国防総省は