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1973年4月20日の群馬県吉井町体育館の興行を最後に日本プロレスは興行を停止しました。事実上の崩壊だね日本プロレス社長の芳の里は崩壊を見考して残っている選手を力道山家を通して全日本プロレスで預かってもらおうと動いていたのだ。そして力道山家や日本テレビ等々の仲介で全日本プロレスへの合流が決まった。日本プロレス残党の受け入れはジャイアント馬場さんとしては迷惑な話しかなかった。しかし、日本テレビや力道山家のバックアップを受けている立場として渋々受け入れた。馬場さん、全然笑ってないね馬場
プロレスの話題怒らないでね!突然はじめます。プロレスの話題??【突然のプロレスの話題第5回】どういうわけか、シリーズの最初の日。外人組の到着がおくれて日本人だけで大会が行われた。テレビは実況生中継で、メインは「馬場vs吉村」レフェリーが猪木という試合となった。調べてみたら、これは昭和43年2月16日。大雪で外人が遅れたのだった。でも、ああ、どうせなら、馬場と吉村じゃなくて、馬場と猪木の対戦にすればいいのに。とも思ったが、いやいや、そん
人間発電所サンマルチノは馬場とは親友と言われていましたが、その馬場に対する評価は恐ろしいほど低いのがわかります。猪木に対してはこれから2年後がピークでその後は巧く狡いレスリングで誤魔化すだろうと。坂口に対する評価が一番高く、ベタ褒めです。面白いですね。
藤波さん大年表※藤波さんのデビュー50年を記念して、この「藤波さん大年表」(お試し版)を作りました。藤波さんの「誕生」から、令和4年の今までを、年毎に「トピックス」を豊富に入れて、「楽しく」年表風にまとめようと思っています。(きっと、すごい量になるなあ)出典はいちいち記していません。独自研究(笑)を含みます。ほぼ文字だけですが、たまに素敵な写真を専門誌紙、パンフレット等からお借りして載せています。もし、問題がありましたら、すぐに削除いたします、よろしくお願いいたします。RSD
好きな相棒・名コンビといえば?BI砲‼️写真はお借りしました猪木の東京プロレス崩壊における日本プロレス復帰を受けて結成されたダッグチームで、60年代末から70年代にかけてインターナショナルタッグタイトル保持チームとして全盛を迎えたが、ザ・ファンクスに敗れ王座を陥落してから、猪木の除名処分、馬場の独立と続く騒動でチームは解散したが、1979年東京スポーツ主催の夢のオールスター戦で一夜限りの復活を果たした。猪木の若くスピーディな動きと、全盛期の馬場の重量感溢れるパワフルな動きがマッチして