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ご訪問ありがとうございます。飛鳥時代もいよいよ大詰めです。今回は白村江の戦いを見て行きたいと思います。日本の歴史において、外国に敗れたというのは、この時と太平洋戦争の時だけとはよく言われ、昭和天皇も玉音放送でこの例を引かれたそうですが、この時は国際情勢の変化もあって、出先の局地戦での敗北にとどまったとはいえ、支配者層にはかなりのショックであったことがうかがえます。さて、なぜ斉明天皇と中大兄皇子は百済のために戦ったのか?と言うことになると蘇我氏が百済派であったということから、孝徳天皇と
辺境へのあこがれなどと人はいう。司馬遼太郎は辺境への愛着から紀行「街道をゆく」で、モンゴル、アイルランド、オホーツクを旅した。小説「戈壁の匈奴」や「韃靼疾風録」も同じ理由だろう。辺境となる外縁の基点となるものは、文明国家やそれに準ずる先進国家なのか。しかし、その考えはひょっとすると傲慢なのかもしれない。古代だろうが、太古だろうが、人類史でみればほんの瞬き程度のものだ。そのさらに昔々の文明なき世々であれば、その濃淡は逆転していたのかもしれない。たとえば青森県の丸山三内遺跡(縄文時代
【平成30年6月13日(水)】【飛鳥川原宮】(斉明天皇元年~斉明天皇2年)所在地:奈良県明日香村川原1109川原寺跡第37代斉明天皇在位:斉明天皇元年(655)~斉明天皇7年(661)川原宮(かわらのみや)は、7世紀中期の斉明天皇が営んだ宮。一般には飛鳥川原宮(あすかのかわらのみや)と呼ばれている。奈良県明日香村川原にある川原寺(弘福寺)の地にあったと伝えられ、実際、昭和32、33年の発掘調査では川原寺創建以前の暗渠工事跡を発見し、これが川原宮の遺構であろうと考えられて
【白村江の戦い前夜まで】・百済滅亡(斉明紀六年(660)七月条『日本世記』引用、三国史記義慈王十六年三月条など)・百済復興斉明七年(661)四月条、鬼室福信の使者が筑紫訪問、王子豊璋の帰国を申請。七月二十四日条、斉明天皇崩御。八月条、百済救援軍として、前軍(将軍大花下阿曇比羅夫大連)・後軍(大花下阿倍引田比羅夫臣)を派遣、その後五千人の護衛兵を付けて豊璋帰還。天智元年(662)三月条、唐・新羅軍に攻撃される高句麗か