ブログ記事1,439件
●徐福の息子・五十猛の丹波進出富家の伝承によれば徐福が秦に帰国している間に彼の息子であ「五十猛」は成人し八代目大国主の孫娘の大屋姫と結婚し子供に高倉下(タカクラジ)が生まれました。大屋姫は兄(多岐都彦)と共に葛城へ進出していたので、タカクラジは後に和歌山の紀ノ川下流へ移住します。タカクラジは徐福が秦より持ちこんだ竹や梅を植林。木の国→紀伊の国となりタカクラジの子孫には後に武内宿禰(タケノウチノスクネ)が生まれます。一方五十猛は母や秦族を連れて丹波国へ移住、海香山(アマノカゴヤ
名君島津斉彬皆さんこんにちは。先日40さんの鹿児島お話会が開催されましたが音声ファイルはお聞きになられたでしょうか。一部分に関して思うところがありましたので少しお話しさせていただきたいと思います。全体は是非音声ファイルを買ってお聞きになってください。埼玉からの参加者の方の質問「この変なDS社会を3000年前から1000年間計画して演出したのはキリスト教の天才集団であるキリスト教グノーシス派と言われる存在がありますが、グノーシス派のエンブレムは丸に十です、ご当地鹿児島の島
沖の注連縄「琉球」の謎最終回「魏志倭人伝」は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻「烏丸鮮卑東夷伝・倭人条」(うがんせんびとういでん)の略称である。当時の日本列島にいた民族・住民の「倭人」の習俗や地理などについて書かれている。当時の「倭」に、女王の都する「邪馬台国(邪馬壹国)」を中心とした国が存在し、また女王に属さない国も存在していたことが記されており、その位置・官名、生活様式についての記述が見られる。「魏志倭人伝」「烏丸鮮卑東夷伝・倭人条」のタイトルにある「東夷
《前編》より【筆者(飛鳥昭雄)のルーツ】筆者は藤原の一族の末で、『古事記』『日本書紀』を編纂した藤原不比等の仕掛けを子孫として解き明かす最中といえ、祖先は「大化の改新」を成した中臣鎌足とされ、平安時代は「陰陽寮」と関わり「壇ノ浦の海戦」で敗北した平家側にいて、敗北後に国東半島(大分県)の山中深く隠れた平家落人部落で巨大な「六芒星」を組む奇祭を行う一族で、そのため、裏家紋は向って左向きの「髑髏」でサンスクリット語の「カッパ(カンパラ)」の継承者でもある。(p.113)中臣鎌足=藤
徐福は始皇帝に、言った「海中に蓬莱、方丈、瀛エイ州という三神山があって、仙人がそこに居住しています。我々は斎戒し身を清め、穢れなき童男、童女とともに仙人を求めたいと思います」そこで、皇帝は徐福を海中に遣わした徐福の和名は、ホアカリだった火明りは、イヅモの神戸臣家の八千矛の娘、道姫を妻として迎えその長男をイソタケ(五十猛)と名付け氏を、海アマと名のったが、この家系は神功大王の時代、葛木襲そ津彦の海軍に参加して、海部あまべと苗字をかえたその後、八千矛王は、園の長浜で行方不
神代文字の阿比留草文字が殷王朝の甲骨文字の一部に一致していることは知られているが(参考)、書体の変遷についての以下の親子関係図は興味深い。参考①神代文字は甲骨文字を徐福が伝え、甲骨文字→古体篆字→阿比留草文字へ変遷した伊那の谷から古代が見える(2010.6.7、参考)江戸幕府の修史事業として林羅山らが編纂した歴史書・本朝通鑑に、徐福之来日本、在焚書抗儒之前六七年矣、相蝌蚪篆?書添竹牒、時人知者鮮矣。其后世世兵燹、紛失乱墜、未聞其伝、嗚呼惜哉。始皇帝の焚書坑儒の6,
地神こと出雲族の伝承と猿田彦との関係を調べていますが、出雲のカンナビ山に眠るのは「クナト王」と富家では伝承されていますが、麓にある佐太神社の祭神は「猿田毘古大神」となっています、佐太神社は佐太御子社とも呼ばれた事からクナト王の子供とみる事もできますので、クナト王の子供が猿田彦となります。(これは佐太神社に生前は猿田彦が住んでいたという意味でもあります。)古代に出てくる○○彦とは○○族の族長という意味で称号なりますから、クナト王の子供達が猿田族になったとも理解できます。(子供のうちの一人
こんにちスタルペスです。縄文遺跡を訪ねて佐賀市に向けてドライブしている途中、たまたまトイレで立ち寄った物産直売所(橋の駅「ドロンパ」)が「筑後川昇開橋」の公園になっていましたので見学をさせて頂きました。「筑後川昇開橋」は、一般道で佐賀県に向かうときにはいつも見ていた「赤い可動橋」です。※筑後川に架かる「筑後川昇開橋」※赤い「筑後川昇開橋」はどこからも目立つ存在です。※高くそびえる二つのタワーが合掌しているように見えます。対岸の福岡県
徐福が求めた不老長寿の薬それは金が溶けた水土御門家の秘伝生命を維持するのはミネラル昔と比べてミネラルが少ない野菜そして残量農薬を中和するのにミネラルを消費するバランス良く摂る必要があり現代人は圧倒的に不足しているバランスは人によって異なるという鍛練と秘伝の水のおかげで土御門家の方は健康で長生き120才くらいまで生きる【歴史震撼!】秦の始皇帝が求めた不老長寿の薬、現代日本に存在する!?【第百三十五世深草秦氏祭司兼統理高千穂天磐境大社宮司土御門
古代の倭人とは、縄文人、古代中国に在住した縄文人の同族(殷、秦、斉、羌族などが弥生時代末期以降の渡来人として来日する)、そして、揚子江(長江)中・下流域の水稲を作り始めた呉の太伯の末裔が日本列島に移住した人々などからなり、古代の原日本語を喋る人々を総称して倭人と呼んだと考えられる。彼らは後期旧石器時代の頃から自由に海を渡ることが出来たことが黒曜石の分析で考古学的に証明されている(参考)。中国の国務院発展センターの張雲方も、3千余年前に倭人の記述が中国の史書に存在したこと、3065年前頃から興
みんな元気ですかきのうの続きだよ・・・日本では少なくとも37か所に徐福伝説があります。北は青森県から南は九州鹿児島県まで徐福がこの地に来ていたとする伝説や記念碑があります。間違いなく徐福の大集団は日本に来たのです。日本を目指して東の海に漕ぎ出したのです。現在徐福の末裔とされる名字は福永、福岡、福島、福仙、福山、福寿、福田、福畑、福海、福住などとされています。一方この大集団の中には秦氏も当然いました。言わば徐福の行動を見守る始皇帝のお目付
先日の続きです。寒川神社のご祭神とされる月読尊。縄文期の神々の中で、天照大神、月読尊、スサノオ尊の3兄弟は有名です。天照は「太陽」を、月読は「月」を、そしてスサノオを「海」を担当したと伝えられます。古事記や日本書記でも、天照大神やスサノオはたくさん登場しますが、月読尊はほとんと登場しない謎の神。「月読」という名前から、「月を読む」=「月(や太陽)など、星の運行に精通」した天文学の神さまだったようで、月を司る、または夜を統べる神として崇められ、かつては、月の運行に基づく太陰暦を用いられたことか
日本の古代史は「古事記」「日本書紀」(記紀)に負うところが多いですが、これらの史記は奈良時代の舎人親王ら皇族をはじめ太安万侶や藤原不比等ら官僚たちが、時の権力者や関係者に忖度しながら天皇の正統性を国内外に示すために編纂したもの。つまり、不都合な真実は神話の中に隠蔽しつつ、当たり障りなく纏め上げたため必ずしも史実を忠実に伝えているとは言い難い。その内容を記紀以外の一次資料と併せて比較検証し、忖度のベールを慎重に剥がしていくことで初めて真実の歴史に近づけるのです。寺社仏閣の入口に掲げられた由緒書の
疲れて力が入らない状態を「だるい」、「しんどい」、「えらい」「こわい」と言うが、著者の周辺の下関では「だらしい」と言っていた。著者が東京に就職した時は、周辺は「だるい」と言っていた気がする。上の方言地図では山口は「えらい」と言うらしい。確かに「えらい」と言う表現も理解できるが、普段使った事はない。状況によっては「たいぎな(大義のことか?)」とも言う。この「だらしい」と言う言葉をGoogle検索して見ると、愛媛県の宇和島と高知県の宿毛市あたりに見出された。極めて珍しい方言であった。群馬・東京・
令和6年3月12日(火)は霊峰冠岳(鹿児島県いちき串木野市)で山歩してきました。この日は仕事を定時ダッシュ💨で17:15山歩スタートです⛰️目的は『白山神社』参拝ですが、どうせなら霊峰冠岳も登ろうとチャレンジです✨✨が、少し後悔(笑)西嶽神社に登って行きます⤴️参道もですが、山道もこのような階段が続くのでキツいです😓自分の歩幅に合わないんですよねぇ〜💦今回は白山神社に行くのがメインなので、阿弥陀堂、天狗岩はスルーです💦この瞬間は達成感半端ないですね✨✨ヤッホイ!!!サンチョ⛰
「富家の伝承」が伝える真実の歴史。出雲族が島根に築いた古代出雲王朝。出雲王朝は17代まで続きました。○出雲王朝八代目の王・八千矛(やちほこ)の時代この時代に王朝を揺るがす大きな出来事がありました。中国の秦(紀元前905~紀元前206)から出雲の海岸に、使者が船でやってきました。秦国人である『ホヒ』とその息子『タケヒナドリ』は手土産として銅鐸に似た青銅の鐘(かね)と剣を献上、これから『徐福』という秦の方士(道教の士)と多くの秦の者たちが来ることを告げ上陸の許可を求めます。(
「神様」に対する概念が崩壊。龍神だのなんだの含めて……はぁ…笑うしかない。衝撃的すぎる。衝撃的だよ、富さん。富さんとは、古代出雲王朝の直系で東王家「富家」に約4000年にわたる史実の正当な伝承を受け継いでいる「富當雄(とみまさお)」さんのこと。富當雄さんは、死の間際に息子に「真実の出雲史を普及させてくれ」と遺言を残したそうです。その遺志を継いだ當雄さんのご子息である現在の当主が、出版社を立ち上げ「斎木雲州」というペンネームで伝承のうち公開してよいものだけを本にして出版されています