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治承・寿永の乱第32弾ですこれまでのお話はこちらからどうぞ大庭に味方する畠山重忠(はたけやま-しげただ)は、頼朝に味方した三浦勢を追って由比ガ浜(ゆい-が-はま)あたりで追いつきましたが、畠山と三浦は親戚同士ということもあって、三浦の将・和田義盛(わだ-よしもり)と話し合い、戦はしないということで合意したはずでした。ところが、ここで思わぬ事態が起ってしまいます。別働として鎌倉の杉本(椙本)あたりにいた和田義盛の弟・義茂(よしもち)のもとへ義盛の下人(げにん、雑
鎌倉幕府は源頼朝という上流貴族が鎌倉に滞在し、その上流貴族の周囲に多くの御家人が集まって形作られている組織として誕生している。そのトップにある人間が、権大納言も経験した正二位征夷大将軍から正五位下左近衛中将に交替したのである。これから先、鎌倉幕府はどうすればいいのか、鎌倉幕府の御家人達はどうすればいいのか、明確な回答を示すことのできる者はいなかった。もっとも困惑を少なくする方法は、これまで源頼朝が果たしてきた職務を源頼家が引き受けることである。位階も役職も低いが、何と言っても源頼朝の実
鎌倉七口の一つ朝夷奈(朝比奈)切通しを歩いて来ました朝夷奈切通www.city.yokohama.lg.jp鎌倉駅東口④京急バス★鎌23・鎌24(鎌36は通りません)十二所神社下車十二所神社バス停まで25分5分ほど歩くと朝夷奈切通入口です鎌倉の七つある切通しの一つ横浜市の六浦へ通じる古道で六浦の塩や、港から物資を運ぶ重要な供給路仁治2年(1241)「鎌倉殿の13人」で坂口健太郎さんが演じた幕府執権北条泰時の指揮のもと、工事が行われました。約800年前の道が残ってるなんて
源頼朝の突然死の知らせが京都を混迷に招いたことは既に記した通りである。それは二月になってある程度鎮静化してきたものの平穏が取り戻せたというレベルにはほど遠いものであった。特に後鳥羽院の周辺警護の物々しさは際立っており、土御門通親が自らの身を守るために後鳥羽院に身を寄せたのも、土御門通親への不満を増すことにつながるものの身の安全のためにはやむをえないことと納得されてもいた。そんな中、建久一〇(一一九九)年二月一一日に左馬頭である源隆保が自邸に武士を集めて謀議していた事実が明らかとなった。
建久一〇(一一九九)年一月の源頼朝の死の知らせは京都を混迷に陥らせたらしく、特に土御門通親への反発は強かったようで土御門通親は二二日に後鳥羽院のもとに避難せざるを得なくなっている。現在と違ってこの時代の庶民に参政権など存在しないが、だからといって政治に無関心だなどということはない。いつの時代でも人は多かれ少なかれ政治的な意思や意見を持っており、その意思や意見に基づいて行動している。庶民が政治と無縁であると考えているのは民主主義での敗者だけだ。自分の暮らしへの危機感を強めれば強めるほど、政治
治承・寿永の乱、第9弾ですこれまでの話はこちらから。園城寺(おんじょう-じ)にて、以仁王(もちひと-おう)はじめ園城寺の衆徒と合流した源頼政(みなもと-の-よりまさ)・仲綱(なかつな)らの武士たちは、戦の機先を制するため、平家の拠点の一つである六波羅へ夜襲を仕掛けることを提案しました。夜襲の計画としては、まず頼政指揮のもと、戦力にならない老僧たちに松明を持たせて如意山を越え、白河付近に放火することで陽動作戦を展開、その間に仲綱・兼綱(かねつな)、渡辺党(わたなべ-とう)の武士たちをはじ
こんばんは~。治承・寿永の乱、3回目になります。前回にもお話ししましたが、以仁王(もちひと-おう)は平家への不満を募らせ、ついには謀叛を企てるに至ります。以仁王の令旨治承4年(1180年)4月。以仁王は摂津源氏は(せっつ-げんじ)の源頼政(みなもと-の-よりまさ)、仲綱(なかつな)父子やその配下である渡辺党(嵯峨源氏[さが-げんじ])を味方につけて、いよいよ平家追討の戦力を秘密裏に整えはじめます。そして、平家追討の令旨(りょうじ)を東海道(三重・愛知・静岡、南関東・茨城