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一三人の合議制の成立と、その合議制のメンバーに含まれていない五名への特権の付与。本来であれば対立すること間違いない構造であるが、この後の記録を追いかけていくとそこまで対立した構図は見られない。一三人の合議制も、五名への特権付与も、そもそも存在しなかったのではないかと言えるほどだ。建久一〇(一一九九)年四月二七日、鎌倉幕府は源頼家の名で一つの指令を出している。東国における新田開発である。荒廃した、あるいは不作であると言った理由で年貢が減ってしまっている土地について、今後もそのまま
吾妻鏡(マンガ)の(中)まで、やっと読み終わりました。頼朝が長女を天皇に嫁がせようとするところまで進みました。でも、ぶっちゃけ、頼朝のことが全く好きになれず、読むのがきついです。嫌いすぎて、腹を立てながらの読書。今夜は寝る前に、落ち着く音楽を聴こうと思ってます。マンガ日本の古典(14)吾妻鏡上巻(中公文庫)楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}マンガ日本の古典(15)吾妻鏡中巻(中公文庫)楽天市場${EV
建久一〇(一一九九)年四月一二日に一三人の合議制が誕生したことに対し、源頼家は反発を見せたとはすでに記したが、では、具体的にどのような反発を見せたのか?吾妻鏡の記載を信じれば、到底容認できない反発である。建久一〇(一一九九)年四月二〇日、源頼家の側近五名に対する特権が発令されたのだ。ここに記されている特権は二つ。一つは源頼家への目通しは側近五名の誰かを通じてでなければならず、五名以外の者を通じて、あるいは、誰も通すことなく直接源頼家に会うことは許さないとする特権。この特権については、同
源頼家の名で発令された命令として特筆すべきが、各国の守護の職掌の明確化である。地頭が荘園を管理監督しその年貢を手に入れることのできる役職である一方、守護という役職は明瞭化しがたいところがある役職である。ただ、鎌倉幕府を国家運営組織の一部と捉えるから明瞭化しがたいのであり、鎌倉幕府を現在の政党と捉えると、意外とスムーズに理解できる。守護とは何かを定義するならば鎌倉幕府が令制国単位に任命する令制国単位における鎌倉幕府の総責任者ということになるが、現在の政党政治における地域でのその政党の責任
治承・寿永の乱、第42弾になりますこれまでの話はこちらから房総半島の国々、安房・上総・下総の三国をほぼ制圧下に置き、挙兵した当初に比べれば段違いの勢力を持つに至った頼朝ですが、千葉常胤(ちば-つねたね)が本拠地として勧め、河内源氏にゆかりが深い鎌倉の地へ行くには、まだいくつかの障壁がありました。その最大の障壁となったのが、武蔵国に割拠する武士団、とりわけ秩父党(ちちぶ-とう)と呼ばれる大武士団でした。秩父党は畠山重忠(はたけやま-しげただ)・河越頼重(かわごえ-しげよ
東海道歩きは「大磯町」に入りました。「塩海橋(葛川)」は、二宮町と大磯町を分ける境界です。松並木が残っています。キロポストは気になります。このあたり「国府新宿」「国府本郷」といいます。大化の改新により全国に政務を執り行う役所・国衙が設置されました。その地を「国府」と呼びます。ここ相模国では数か所の変遷を経て六所神社の鎮座地である柳田郷に国府が置かれました。『吾妻鏡』治承4年(1180)10月16日条に…「相模国府六所宮に至り給う
治承・寿永の乱、第46弾ですこれまでの話はこちらから。治承4年9月10日(『吾妻鏡』)。甲斐国(今の山梨県)の武田信義(たけだ-のぶよし)、その子・一条忠頼(いちじょう-ただより)以下の軍勢は隣国・信濃国(今の長野県)へ侵攻しました。ついに甲斐源氏が兵を挙げたのです。その甲斐源氏に対する敵は菅冠者(すが-の-かじゃ)という人物。ですが、この菅冠者、残念ながらどのような人物かわかっていません。『吾妻鏡』によれば、信濃国伊那郡大田切郷(いな-ぐん-おおたぎり-ごう:
治承四年八月小二日(壬午・みずのえうま)相模国住人の大庭三郎景親をはじめ、五月の合戦(以仁王・源頼政討伐)のために在京していた東国武士のほとんどが帰国した。四日(甲申・きのえさる)元検非違使尉(けびいし・じょう)の散位・山木兼隆は伊豆国に流された流人だが、父の平信兼(和泉守)の訴えで伊豆国山木郷(現在の伊豆の国市韮山の山木地区。兼隆の館は少し高台にあった)に配流となり、数年を経て、平清盛(相国禅閣)の権威によって、周囲の郡郷に影響を与えていた。山木兼隆が平
やっと「吾妻鏡」(マンガ)を読み始めました。マンガ日本の古典(14)吾妻鏡上巻(中公文庫)楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}マンガ日本の古典(15)吾妻鏡中巻(中公文庫)楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}マンガ日本の古典(16)吾妻鏡下巻(中公文庫)楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}平家物語は関西の話ですが、吾妻鏡は関東が舞台です。平家討伐のために木曽義仲と義経を送る
昨日のブログ記事で、ちょっと間違えていました。頼朝が義仲と義経を京へ向かわせたと書いたような気がしますが、本当は、義仲を討つために、範頼と義経を向かわせた、の間違いでした。にわかの歴女なので、本当にすみません。今日も吾妻鏡を読み進めています。静御前が出てきて、初めて、彼女が義経の愛妾だと知りました。こんなの世間では常識でしょうね・・・。もの知らずなのでお恥ずかしいですが、手探りで日本の歴史に分け入っていきます。マンガ日本の古典(14)吾
大型連休後半、3日目のこどもの日🎏京急逗子・葉山行きに乗り、金沢八景駅で久里浜行きに乗り換え、初めて追浜駅に下りましたハイキングコースの続きです✨当日は富士山がうっすらと見えましたよ初めて通るコースなので、なかなか要領を得ず(見られるポイントは何処なのか良く分からない)鎌倉同様、リス達が沢山居たので撮影してみました。でも、写っていなかったようです初めて歩いた感想・・・渓谷の落差が凄くて、高所恐怖症の方にはお勧めしません。道幅も狭くて人とすれ違う際は譲り合いが必要なコースです。