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ネット上で芹沢鴨だとして広まっている古写真に関して、2014年に「鴨じゃない」と題して記事を書いたことがあります。興味のある方はどうぞ。鴨じゃない※.『幕末の素顔日本異外史』より。この写真はもともと『幕末の素顔日本異外史』(毎日新聞社/1970/文・永六輔)に掲載されていたものですが、同書の前書きによると、掲載されている写真はすべて「アメリカ・ワシントン米国国会図書館に秘蔵されていた」ものだということになっています。そして、この写真はのちに『激録新撰組』(
今回の「大坂城」(大阪府大阪市中央区)散策は、「本丸」周囲を取り巻いて建っていた「三重櫓」跡が、現在「本丸」跡内側から見てどのようになっているのかをテーマに探索しました。本日はその「後編」をお届けします。「本丸御殿」跡にできた池泉庭園越しの復興「天守」「前編」では、「本丸」後の北東隅にある「蔵方預櫓(糒櫓)」跡まで見てきました。「前編」はこちらからどうぞ!『<大坂城(前編)>本丸跡内の”三重櫓”跡地を探索!』先日の良い天気の日ですが、月に1度「天満橋」に用事があり、用事が済
これまで何度か紹介しました、米国議会図書館デジタルアーカイブ収蔵のフェリーチェ・ベアトの写真集「Japanese&Chineseportraits」に、第12代横綱(江戸時代最後の横綱)陣幕久五郎(じんまくきゅうごろう1829-1903)と思われる写真が2枚収録されています。陣幕久五郎は嘉永三年(1850)に初土俵を踏み、当初は徳島藩のお抱え力士でしたが、元治元年(1864)十月に薩摩藩お抱えとなり、慶応二年(1866)十一月場所で大関に昇進、さらに翌慶応三年(18
最近、模型づくりの資料集めの一環から古写真に熱中しているのですが、今回は新発見の可能性がある写真二点をご紹介します。一点目は、かんさんが発見されて、コメント欄より教えて下さいました。私も見たときは興奮で身震いしてしまいました。それが、こちら。焼失前の岡山城天守の全貌を不明門の石段からのぼったところ、本段御殿の跡地越しに見た写真です。岡山城本丸本段には、明治29年に岡山尋常中学ができて以来、校舎が立ち並んでいたので、天守の全貌は見渡せず、今まで確認された天守南面の写真は校舎との間から見上げ
以前記事にしました「鼓を打つ芸妓」とともに、名前のわからない古写真の美女としてネットでたびたび取り上げられている一人の女声がいます。この人。この女性、「鼓を打つ芸妓」と違って、少なくともどこの人なのかはわかっています。というのも、この写真は6人で撮影した写真の彼女の部分だけをカットしたものであって、その元の写真には「長崎の芸妓たち」というタイトルがついているからです。つまり彼女は長崎の芸妓さんだったわけです。そして元の写真はあることで有名です。それが何かは、見れば一目
ネット上で「幕末の四大人斬り河上彦斎の写真」として広く出回っている古写真について、3年前に記事にしました。興味のある方は下をクリックして下さい。河上彦斎写真の謎この写真は河上彦斎のウィキペディアにも本人の写真として掲載されているのですが、実は出典が不明となっています。そこで調べてみたところ、スペインのアニメファンの方のブログが出どころとなっていて、根拠のないものだということがわかったのですが、その後も調べ続けたところ、ちょっと有力情報かなと思えるものにたどり着きました。この
再び古写真に関する話です。昨年5月に『鼓を打つ芸妓の謎』と題して、この古写真の美女のことを書きました。・・・まあ、結局は謎は深まるだけだったという話だったのですが。その後、何か情報はないかとネットを中心に色々と探し回ったのですが、直接的なことではないにしろ、ちょっとヒントになりそうなものをみつけました。それは、ちょっと意外なところに掲載されていたものでした。その意外なところというのは「CVLTNation(カルト・ネイション)」という、ヘヴィ・メタルやパンクなどの音楽
「鼓を打つ芸妓」というタイトルのついた古写真があります。現代でも通じる美人だとネットなどでもよく取り上げられているようですが、明治期の写真家・玉村康三郎によって撮影された写真といわれ、一説には明治43年(1910)に撮影されたものだともいわれています。ちなみに、こちらは彩色写真といわれるもので、白黒写真に色を塗ったお土産用の写真です。この女性について何かわからないかと、色々調べてみましたが、そんな中で一枚の写真を見つけました。こちらです。こちらは「月琴を弾く娘」
本日3月7日から始まりました東京都写真美術館「夜明けまえ知られざる日本写真開拓史〜総集編」「早く見たい!」と初日になんとか時間を見つけていち早く駆けつけ、拝見しました「夜明けまえ」シリーズは、写真という技術が日本に入ってきた幕末の頃〜明治中期までの写真史を、各地に遺された貴重な原本の写真史料とともに紹介した展示でした。今回は長年開催されてきた「関東編」、「中部・近畿・中国地方編」、「四国・九州・沖縄編」、「北海道・東北編」の四つのシリーズ展示の総集編。
幕末に『公武合体』の証として、天皇家から時の14代将軍・徳川家茂に嫁いだ皇女・和宮(親子内親王)。そんな和宮を写した“唯一の写真”と言われてきたのが、↓画像の和宮が降嫁に際し中山道を通って江戸へ向う途中、信州小坂家で休息した折に、小坂家の写真師が撮影したものである。この写真に『静寛院和宮』と記されていたことから、小坂家では勿論、徳川家でも和宮本人の写真として信じられてきた。と・こ・ろ・が…2011年7月号の『歴史通』内の「古写真探偵皇女和宮の真実」という記事(古写真
【01】吉原遊郭の古写真の街並み【02】吉原遊郭の内部【03】吉原の遊女(明治時代)【04】吉原大門(おおもん)【05】新吉原件の町通り【06】角海老楼(明治40年代の写真)【07】新吉原大門(明治5年~6年頃の吉原大門は、まだ木造)【08】鉄製の大門(明治14年頃の吉原大門)【09】吉原のお座敷の様子(1910年の写真)【10】見世の遊女と客「不夜城、吉原」の中の1枚【11】吉原をゆく人力車
以前に書かせていただいた記事で、(写真裏に静観院和宮と記されていた為)徳川家も認めていた和宮を写した唯一の写真が実は、大和郡山藩の最後の藩主・柳澤保申の正室『柳澤明子』さんであったことが、古写真研究家の森重和雄さんの研究(2011年7月号の『歴史通』内の「古写真探偵・皇女和宮の真実」)によって明らかになったことをお伝えしました。詳しくは下の記事を参照⬇️皇女・和宮ではなかった!?あの有名写真の主『皇女・和宮ではなかった!?あの有名写真の主』幕末に『公武合体』の証として、天皇家から時の
フォン・スティルフリート男爵夫人も来日なさってたのね❣️https://twitter.com/_9105294027642/status/1523420482028015616?s=21&t=xlifYTL-h1boLSzuohxVng睦仁天皇暗殺現場写真を撮影した、ハンガリーのフォン・スチルフリード男爵の人力車写真3カット。既投稿以外の長崎大学古写真人力車(2514)には娘と夫人。李家長州政権はスチルフリードが江藤新平司法省に告発した為、蔑んでパパラッチ扱い。勅任官江藤新平を不法処