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「大和と日本」の謎:その37◆「日本国」と「倭国」の併合中国の歴史書『旧唐書』には「倭国伝」と「日本伝」の2つが別国扱いで記述されている。そこには「日本国は倭国の別種なり。その国は日辺にあるゆえ、日本をもって名をなす」と記されている。つまり「倭」と「日本」は別の国だったと認識していたのである。「倭国伝」は「倭国は古の倭奴国なり」と始まり、末尾は648年の記事で終っている。これに対し「日本伝」は、「日本書紀」などの記述と矛盾せず、飛鳥・奈良時代の大和政権のことであることがあきらか
茂木先生の天皇に関する解説です。天皇の謎を10代の頃から40年間に渡り探求してきた茂木先生。その40年間で知り得たことをここで共有してくださいました。天皇はどこから来たか?文庫版『政治思想マトリックス』(PHP)6/5発売https://amzn.to/43RmWXM『日本人が知らない!世界史の原理』(ビジネス社、宇山卓栄先生と共著)https://amzn.to/48rUyMN『日本思想史マトリックス』(PHP研究所)https://amzn.to/46oZz8lyoutu.b
「大和と日本」の謎:その36大嘗祭は、天皇陛下が即位後初めて新穀を皇祖・天神地祇(てんしんちぎ)に供えられ、親(みずか)らも召し上がり国家・国民のためその安寧と五穀豊穣などを感謝し祈念される祭祀で御一代一度の特別な新嘗祭である。皇室の祭祀の中でも、古来より最も重要なお祭りとされてきた。神社庁では、大嘗祭について、以下のように説明している。大嘗祭で最も重要な儀式は、その年に国内で採れた新穀を、天皇陛下御親らが皇祖・天神地祇に供し奉り、国家・国民の安寧と五穀豊穣に感謝し、また将来もそ
華北平原に住んでいた倭人低地(山東)の東夷(夷=委)が倭人、人方高地(山西)の委人が巍(魏)、鬼方倭は稲玉を持って低く踊る様嵬は高いを意味する高宗伐鬼方。三年克之。殷の高宗(武丁)は鬼方を討伐し、三年してこれに勝利した。『易経』既済篇殷は鬼方、人方を攻撃していたが、殷もまた衣(夷)なり。夷人は良い着物を来ていたから衣人とも云い、(本来は)物腰柔らかく委と云う。鬼方は古羌であり、印欧語を話していたとも云われるが、匈奴の前身とする説もある。匈奴は断髪文身、夏后氏(夏王朝)末裔。
2024年6月28日今日の気分は?頭に浮かんだ今日のうれしかった気持ちを書いてみましょう昨日が誕生日だったので嬉しい。今日うれしかったことうれしかったことを写真と一緒に共有してみましょう列島の文化は、中国の倭族と似ている。湖北省恩施土家(トゥチャ)族苗(ミャオ)族自治州宣恩県の彭家寨景勝地では、古めかしい木造高床式住居「吊脚楼」と初秋の棚田が情緒あふれる風景を織りなしている文明の母は米作じゃなくて麦作というイメージを決定的にしたのは、古代中
小野一族の家紋は天足彦国押人命以後は「五三の桐」を使っていると思われますが、これの元は「五三の雲」から来ていると思われ、天皇家の十六菊紋も元は「日輪」だと思います。イスラエルに残っているものは、この日輪紋だと思いますが、孝昭天皇の頃には「天」からのモチーフである、「日輪」と「雲(雨?)」から、「地」のモチーフである「桐」と「菊花」へと転じているのは非常に興味深く、この頃には宗教感が少し変わったのかも知れません。桐の花の数は、代を経るほど増えて行く様子が見られますが、大山祇系の天足彦国押