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※2022年8月31日訪問※本堂の裏手の高台にある【伊達実元の墓】へと向かいますこちらが伊達実元の墓のようです▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼公は当寺の開基伊達家十四世稙宗公の三男で、亘理伊達侯(現宮城県亘理町)の祖、成実公の父に当たる。大森城より松川八丁目城に移り、天正15年(1587)4月卒去。世寿61才。上杉家より竹に雀の寺紋を贈られた。尊牌は亘理町大雄寺の廟に移された。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲実元の息子成実が、宮城県亘理町の亘理伊達氏の祖となった為、実元
こんにちは。早いもので、今年ももう7月となってしまいました。3密を避けて、新型コロナウイルス禍を乗り越えましょう。さて話は変わって・・・今日は、以前記事にした中舘観音寺(施無畏山延命院観音寺)の延命水の続きです。観音寺があるのは、鎌倉御家人の伊佐氏の居城・伊佐城があったといわれる場所。伊佐氏は仙台伊達氏の源流の氏族で、常陸国伊佐郡(現在の筑西市の一部)を治めていたされる常陸入道念西(伊達家では念西を伊達朝宗に比定)が、源頼朝による奥州征伐で息子たち(吾妻鏡によれば、常陸冠者為宗、同次郎為
小佐城(養父市八鹿町小佐字石堂)承久の乱以前の小佐郷地頭は、朝倉高清の弟小佐二郎大夫盛高の子、小佐大夫頼重であったろう。乱後、小佐氏は地頭職を失い、代わって為安、次いでその妻とも思われる尼常陸局が任じられている。ところが弘安八年(1285)頃には4人の地頭に分割される。すなわち安原兵衛入道、尾張入道、伊達五郎三郎、阿波孫五郎。伊達五郎三郎は伊達系図の時綱であろう。山田村と呼ばれていた彼の所領分は今井・石堂の辺りで、居館は現洞泉寺が建っている丘ではなかったか。元弘の乱にあたって貞綱・義綱は後醍
「秋なすは嫁に食わすな」って「嫁いびり」と「嫁のため」どっちが正解かしらかしら御存知かしらー。さて、本日は「系図で見てみよう」シリーズ。今回は、古代ばっかりやっているウチのブログでは大変珍しい(?)近世に立ち寄って、江戸時代に「仙台藩62万石」を治めた「伊達氏」についてやってみようと思います。仙台藩伊達家の祖は、ご存じの伊達政宗。仙台と言えば、政宗。政宗と言えば、仙台。しかし、政宗は仙台生まれではない…というと、意外に思われる方も多いのではなかろうか。政宗