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結婚して半年ほど。キャンディは、ようやくニューヨークの空気に少し慣れてきた頃だった。ペントハウスのエレベーターで、ばったり出会ったのは、階下の部屋に住むミセス・ローレンス。上品だが、おしゃべり好きな未亡人である。「まあ、新婚さん。旦那様、今日もお仕事?」「ええ、劇場の稽古で」「まあまあ、俳優さんなのよね?大変ねぇ、芽が出るまでは」キャンディは、にこやかに微笑んだ。「ええ……まあ……」(芽、は出ているけど……)テリィは劇団の顔になりつつあり、ブロードウェイではもう有名人である
まだ夏の陽射しが残るニューヨーク。空は高く澄み、風は秋の気配を感じさせた。キャンディは、小さなスーパーで買い物をしていた。ここはテリィに最初に教わったお店。抱えているのは紙袋ひとつ。中には野菜と、焼きたてのパン、それからテリィが好きだと言ったチーズ。「今日はいいトマトが入ったよ」店主の陽気な声に、キャンディはにこやかに応じる。「ほんと?じゃあそれもいただくわ。主人が喜ぶの」まだ“主人”という言葉に自分で少し照れてしまう。それでも、幸せそうな笑顔は隠せなかった。店を出て、紙袋を
長い救護活動を終え、ようやく自宅の扉を開けた。玄関を閉めた瞬間、耳にこびりついていたサイレンや人々の叫び声が、まだ頭の奥でこだまする。静けさが返ってきたはずの家が、むしろ不気味に思えた。マーサが振り返り、小声で「おかえりなさいませ」と言ってくれる。その目に浮かんでいたのは安堵と心配。彼女は眠る子を見守ったまま、気遣うように静かに立ち去った。ここは安全な場所だ。そうわかっているのに、胸の鼓動は荒く、肩は強張ったままだった。寝室へ入ると、ベビーベッドの中で長男が小さな寝息を立てていた。
九月の初め。稽古場を出るころには、空はもう薄く色を失い始めていた。一日じゅう言葉を吐き、動き、立ち、崩れ、また立つ。身体は疲れているはずなのに、頭だけが冴えている。ハムレットの言葉が、まだ胸の奥で反響していた。テリィは、遠回りをするように劇場の正面へ回った。夕暮れの空を背に、ストラスフォード劇場の正面に、大きな看板が掲げられていた。『HAMLET』王子とオフィーリアの姿。光と影を含んだその絵は、まだ新しく、どこかよそよそしい。その下に、はっきりと刻まれた名前がある。《主演・
11月半ばのニューヨーク港。冷たい風が水面を渡り、桟橋の旗をはためかせる。ロンドンからの客船がゆっくりと近づき、汽笛が響いた。劇団のロンドン公演チームが、この船で帰国する。デッキの乗客の中でテリィの姿は一際目立っていた。背の高いコート姿で、迎えに来た人混みの中を探すように視線を走らせる。普段は舞台でも楽屋でも必要以上に感情を見せない男が、今は明らかに落ち着かない。演出家のウォルターは、その横顔を見て心の中で眉を上げた。(……まるで別人じゃないか)タラップから乗客が降り始める。
夜更け。窓の外はひっそりと静まり返り、遠い街のざわめきも届かない。灯りを落とした部屋の中で、赤ん坊の泣き声だけが響いていた。キャンディは揺り椅子に腰かけ、必死に赤ん坊をあやしていた。背中をとんとん、抱き直してゆらゆら、それでも泣き止んでくれない。産後の体はまだ完全には回復していない。眠れない夜が続き、心も体も疲れ果てていた。「どうして……泣き止んでくれないの……」声にならないつぶやきが漏れる。次の瞬間、胸の奥から鋭い痛みのような思いが押し寄せた。——私が母だから、安心できない
テリィが来客で呼ばれ、部屋を出て階下へ行った。一人になったキャンディは、あらためて宝石箱を机の上に置いた。象嵌細工の蓋を開ける。中は空だ。内側も見事な装飾が施されている。高価な代物であることがよくわかる。指先で内側の複雑に合わされた模様をなぞったとき、底に、ほんのわずかな引っかかりを感じた。「……?」それは爪でつまめ、そして、そっと持ち上げると、音もなく、底板が外れた。なにかが入っている。なんと、そこにあったのは、一枚の写真だった。「テリィ?」幼いテリィと、公爵、そしてエレ
秋のニューヨークの夜。ブロードウェイの灯が窓越しに揺れ、ペントハウスのリビングには暖かなランプの光が満ちていた。テリィは深く息を吐き、子どもたちの前に腰を下ろした。キャンディも隣に座り、二人の金髪の頭をそっと撫でる。「オリヴァー、オスカー。今日はちょっと大事なお話をしよう」真剣な父の声に、兄弟はきょとんとした顔を見合わせた。「このあいだイギリスに行っただろう?大きなおじいさまのおうちに」「うん!お馬さんに乗った!」とオリヴァー。「お庭でかくれんぼした!」とオスカー。ふたりの
キャンディは、その場に立ち尽くしていた。声も出ず、足も動かない。ただ、風に揺れる草の匂いと、西の空に傾いた夕陽だけが、現実を知らせていた。長く伸びた影が、一歩ずつ、そこにいる人の輪郭を浮かび上がらせていく。それはまるで、夢が形を取っていくようだった。雑誌の見出しで目を引くあの名前。舞台の評判とともに語られる俳優、テリュース・グレアム。けれど今、シロツメクサの丘に立つその人は、どんなに大人びていようと、間違いなく彼女の知る“テリィ”だった。あの頃と変わらぬ、やわらかな眼差し。ただ、彼
テリィ12歳のとき。厩の空気は、春の夜の冷たさと、張りつめた緊張で満ちていた。吐く息がわずかに白く浮かび、馬たちの蹄が藁を踏む音が響く。ランタンの灯が揺れ、母馬の荒い息遣いを映し出している。その傍らに、まだ少年の面影を残すテリィが立っていた。父に伴われ、初めて仔馬の誕生に立ち会う。少年の胸は高鳴り、指先は汗ばんでいた。「次に生まれる馬は、お前のものだ」そう告げられたときの父の声が、今も耳に残っている。めったに心を開かない父が、自分に託した言葉。それは幼い心に、誇りと責任を同時