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初夏の夕方、空が急に暗くなった。ニューヨークの夕立ちは容赦がなく、石畳を叩く雨音が高まり、やがて空気が裂けるような雷鳴が響いた。その音を聞いた瞬間、キャンディの手が止まる。キッチンのテーブルには、切りかけの野菜。鍋ではスープが出来あがろうとしていた。もう一度、轟音。窓ガラスがわずかに震えた。(大丈夫よ……ね。たくさんの家があるもの)自分に言い聞かせる。実はキャンディは、雷が苦手だ。ポニーの家にいたころ、雷が鳴るたびに子どもたちは騒いだ。「怖い!」と笑いながらベッドに潜り込み、キ
結婚して半年ほど。キャンディは、ようやくニューヨークの空気に少し慣れてきた頃だった。ペントハウスのエレベーターで、ばったり出会ったのは、階下の部屋に住むミセス・ローレンス。上品だが、おしゃべり好きな未亡人である。「まあ、新婚さん。旦那様、今日もお仕事?」「ええ、劇場の稽古で」「まあまあ、俳優さんなのよね?大変ねぇ、芽が出るまでは」キャンディは、にこやかに微笑んだ。「ええ……まあ……」(芽、は出ているけど……)テリィは劇団の顔になりつつあり、ブロードウェイではもう有名人である
ケビンが電話をかけたのは、テリィが「売り込み」のための書類をまとめ始めた、その翌日だった。「……出ないか」受話器を置きかけた、そのとき。『もしもし?』聞き慣れた声が、時差の向こうから届いた。「久しぶりだな、アレックス」『ああ、ケビンか。SMTのことは、こっちでも話題になってる。もう終わったんだろ?どうだ?――いや、聞かなくても顔が浮かぶな』軽口だった。だが、ケビンはすぐに本題に入った。ロンドンに戻ってからのこと。ストラトフォードの反響。そして、何も来ない数ヶ月。『……なるほ
ロンドンのグランチェスター邸は、幼い子どもにとってはあまりに広く、冷たい場所だった。石造りの壁はひんやりとし、廊下に響く靴音はいつも大人たちの緊張を孕んでいる。10歳のテリィに与えられた日々は、礼儀作法や勉学ばかり。窓の外で遠縁の子どもたちが笑い合う姿を横目に、机の前に座らされるのが常だった。おやつの時間になっても、彼の前に皿が置かれることはなかった。「お行儀ができるようになるまでは結構です」と継母が冷ややかに言った日のことを、テリィはもう覚えていた。だから午後のひととき、ほかの子ども
長い救護活動を終え、ようやく自宅の扉を開けた。玄関を閉めた瞬間、耳にこびりついていたサイレンや人々の叫び声が、まだ頭の奥でこだまする。静けさが返ってきたはずの家が、むしろ不気味に思えた。マーサが振り返り、小声で「おかえりなさいませ」と言ってくれる。その目に浮かんでいたのは安堵と心配。彼女は眠る子を見守ったまま、気遣うように静かに立ち去った。ここは安全な場所だ。そうわかっているのに、胸の鼓動は荒く、肩は強張ったままだった。寝室へ入ると、ベビーベッドの中で長男が小さな寝息を立てていた。
秋のニューヨークの夜。ブロードウェイの灯が窓越しに揺れ、ペントハウスのリビングには暖かなランプの光が満ちていた。テリィは深く息を吐き、子どもたちの前に腰を下ろした。キャンディも隣に座り、二人の金髪の頭をそっと撫でる。「オリヴァー、オスカー。今日はちょっと大事なお話をしよう」真剣な父の声に、兄弟はきょとんとした顔を見合わせた。「このあいだイギリスに行っただろう?大きなおじいさまのおうちに」「うん!お馬さんに乗った!」とオリヴァー。「お庭でかくれんぼした!」とオスカー。ふたりの
テリィ12歳のとき。厩の空気は、春の夜の冷たさと、張りつめた緊張で満ちていた。吐く息がわずかに白く浮かび、馬たちの蹄が藁を踏む音が響く。ランタンの灯が揺れ、母馬の荒い息遣いを映し出している。その傍らに、まだ少年の面影を残すテリィが立っていた。父に伴われ、初めて仔馬の誕生に立ち会う。少年の胸は高鳴り、指先は汗ばんでいた。「次に生まれる馬は、お前のものだ」そう告げられたときの父の声が、今も耳に残っている。めったに心を開かない父が、自分に託した言葉。それは幼い心に、誇りと責任を同時
皆さん、いつもいいね!など、励ましありがとうございます♪テリィとキャンディの物語は、先日の結婚をもって一つの区切りを迎えました。この瞬間を皆さんと共有できたことを、とても嬉しく思っています。けれど――結ばれたことがゴールではなく、むしろここからが、二人の本当の物語の始まりだということも同時に感じています。私にとって「あのひと」はテリィです。結婚という大きな出来事を経てもなお、二人の歩む人生には無数の物語が広がっていると想像しています。すでに新婚生活のお話も(予約)投稿しましたが、こ
キャンディは、その場に立ち尽くしていた。声も出ず、足も動かない。ただ、風に揺れる草の匂いと、西の空に傾いた夕陽だけが、現実を知らせていた。長く伸びた影が、一歩ずつ、そこにいる人の輪郭を浮かび上がらせていく。それはまるで、夢が形を取っていくようだった。雑誌の見出しで目を引くあの名前。舞台の評判とともに語られる俳優、テリュース・グレアム。けれど今、シロツメクサの丘に立つその人は、どんなに大人びていようと、間違いなく彼女の知る“テリィ”だった。あの頃と変わらぬ、やわらかな眼差し。ただ、彼
まだ夏の陽射しが残るニューヨーク。空は高く澄み、風は秋の気配を感じさせた。キャンディは、小さなスーパーで買い物をしていた。ここはテリィに最初に教わったお店。抱えているのは紙袋ひとつ。中には野菜と、焼きたてのパン、それからテリィが好きだと言ったチーズ。「今日はいいトマトが入ったよ」店主の陽気な声に、キャンディはにこやかに応じる。「ほんと?じゃあそれもいただくわ。主人が喜ぶの」まだ“主人”という言葉に自分で少し照れてしまう。それでも、幸せそうな笑顔は隠せなかった。店を出て、紙袋を
幕が上がった初日は、観客席には芝居を楽しみにしている者と、スキャンダルの真相を探ろうとする者とが入り混じっていた。客電が落ちると、ざわめきは静まり返る。ロミオの登場――その瞬間、視線は一斉に舞台へ注がれた。そこに立つテリュース・グレアムは、記事に書かれた姿とは別人だった。高鳴る若さと切実な激情、そして研ぎ澄まされた言葉。その声がホールに響いたとき、観客の心はひとつ残らず掴まれていた。「おお、ジュリエット。君こそ太陽――」その台詞は甘美でありながら、どこか痛切な真実味を帯びていた。