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初夏の風が、アードレー家の庭を優しく撫でていた。穏やかな陽光が書斎の窓から差し込む中、アルバートは静かに机の引き出しを開けた。そこには、二つのものがあった。ひとつは、白い封筒に「T・G」とだけ記された、差出人不明の手紙。そしてもうひとつは、古びた革のノート。セントポール学院時代、キャンディが綴っていた日記帳だった。あれから何年も経っている。キャンディはその日記を手元に置くことを選ばなかった。「預かってもらえませんか」そう差し出された日、彼女の目は、どこか怯えていた。日記を読み
ブロードウェイでの退団の報せは、大西洋を越えてロンドンの演劇界にも届いていた。ストラスフォード劇団の名俳優、“テリュース・グレアム”という名前は、この街でも静かな熱を帯びて囁かれていた。「もし彼がロンドンに来るなら、ぜひ我が劇団へ」そんな声が、水面下でいくつも上がっていた。特に、ストラスフォード劇団と旧知の劇団主宰たちは、テリィ本人の意志を確かめる前から、紹介状や招待の手紙を準備していた。だが、テリィはすぐには動かなかった。ロンドンでの新生活。慣れない街の空気、特に子どもたちの学校や妻
数週間後の午後、テリィは書斎で資料を読みながら、窓の外の庭をちらりと見た。キャンディが花壇にしゃがみ込み、咲きかけのバラをじっと見つめているのが見えた。どこかおかしい。なぜなら、その指先は動かず、ただ茫然と花を見つめているだけだったからだ。胸がざわつく。太陽のような彼女が、今は影のように静かだった。テリィは書類を置き、窓に手をかけた。「……キャンディ?」声はガラスに吸い込まれ、届かない。彼女はゆっくり立ち上がると、庭の端へ歩き始めた。その背中の小ささに、テリィの胸にじわりと冷たい
テリィ主演の『BeforeDawn』で、ストラスフォード劇団の長い一年が締めくくられた。キャンディとテリィはニューヨークのアパートのリビングで、小さなテーブルを挟み、クリスマスケーキを前に向き合っていた。外では粉雪がしんしんと降り、窓硝子の向こうに灯るガス灯が、やわらかな金色の光を映している。「来年は……もう一人増えて、このケーキももっと賑やかに囲むことになるのね」キャンディがそう言って笑うと、白い湯気を立てる紅茶の香りに重なるように、部屋に温かな気配が満ちた。テリィはフォークを置き
ポニーの村の小さなホテルを出たのは、翌朝の9時だった。村の空気は透き通っていて、昨日の祝福の名残が、まだどこかに漂っているようだった。「さて、行くか」マイケルが軽く伸びをする。「うん。長旅だからな」ケビンが運転席に乗り込み、エンジンをかけた。車はゆっくりと村を離れ、舗装の甘い田舎道へ滑り出す。ハンドルが少しだけ震えるたび、昨日の笑い声や歌声がふっと蘇る。しばらく沈黙が続き、それを破ったのはマイケルだった。「なぁ、ケビン」「ん?」マイケルは窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
じつはこの数ヶ月、タウンハウスの裏側では、小さな波紋が何度も広がっていた。ニューヨークで長く自分の手で暮らしてきたキャンディは、ロンドンに来てもつい、洗濯物を庭に干したり、子どもたちの靴を玄関で磨いたり、キッチンで皿洗いを手伝おうと台所に入ったりしてしまう。当人に悪気などない。むしろ、働く人々への敬意と、「一緒に暮らしているのだから、私にもできることを」という思いからくる自然な行動だった。しかし、古参のメイド長ベネットは、何度も胸に手を当てていた。料理人ハドソンも、眉間に皺を寄せることが増
午後の鐘が鳴っても、俺は講堂へ戻らなかった。予定ではクリケットの授業だったはずだが、冷たい風の中で白球を追いかける気分にはなれない。どうせ減点は慣れっこだ。芝生を横切り、人気のない中庭へと出た。石垣に腰をかけると、白い息がふわりと空に昇った。ポケットから煙草を取り出す。だが火を点ける前にやめた。監督生やシスターに見つかれば、面倒な説教を食らう。いや、それより、今日は胸の奥がざわついて、吸う気になれなかった。目の端に、小さな人影が映った。女子棟の裏手。食堂を出たあとの休み時間ら
ニューヨークの夏は、夕立のあとのように静かだった。イギリス行きを前にして、テリィとキャンディのニューヨークの家には、旅支度の匂いが漂っていた。磨かれたトランク、テーブルの上に並ぶ書類、そして壁際に寄せられた子どもたちのおもちゃ。いつもと変わらぬ日常の中に、わずかな緊張と、別れの予感が混じっている。そんなある朝、扉の向こうから柔らかな声がした。「おはよう、キャンディ」玄関に立っていたのは、薄いベージュのコートに身を包んだエレノア・ベーカーだった。その姿を見た瞬間、キャンディは思わず微
第三幕のクライマックスは、テリィ(=スタンホープ大尉)が部下に短く指示を残し、激しい砲撃の中で前線へ出ていく場面だ。台本には「彼は銃を手に塹壕を離れ、暗闇の中に消える」としか書かれていない。だが、この一瞬に、彼の半年以上の生き様と、その先に待つ結末までも滲ませなければならない。稽古場の照明が落ち、効果音係が砲撃音を流す。テリィはゆっくりと銃を肩にかけ、視線を奥へ向けたまま歩き出す。その背を見ていた演出家が、すぐに「ストップ」と声をかけた。「テリュース、今のだと“退場”に見える。観客に
7月。ロサンゼルス駅のホームに汽笛の余韻が響く。長旅を終えた客たちが次々と降り立ち、スーツケースの金具や革靴の音がタイル張りの床に反射する。ポーターが荷台に載せたのは、深い艶を帯びた革張りのトランクが二つ。それは結婚式直後、エレノアから贈られたペアのルイ・ヴィトン製トランクだった。贈られたときは、蓋を開けると色とりどりの花があふれ出し、部屋中に香りが満ちた——それ以来、二人はこのトランクを「フラワートランク」と呼んでいる。今は衣類や旅の荷物が詰まっているが、革の香りと金具の輝きは、あ
翌日玄関のドアが静かに開き、冬の冷たい空気とともに、懐かしい声が届いた。「ただいま戻りましたよ」コートの襟を整えながら入ってきたのは、マーサだった。いつも通りの落ち着いた微笑みを浮かべているが、その頬は寒風に赤く染まっている。「マーサ!」キャンディは思わず駆け寄ろうとしたが、大きくなったお腹を気遣って足を止めた。その様子に、マーサはすぐ気づき、やさしく首を振った。「無理をしてはだめですよ。ほら、ゆっくり」「お姉さまの具合は?」と、居間から出てきたテリィが尋ねる。マーサは頷き、手
夜のロンドン。霧はもう晴れ、窓の外にはオレンジ色の街灯が滲んでいた。公爵家のタウンハウスは静まり返り、暖炉の火だけが廊下に柔らかな光を落としている。あの静かな朝から、半日ほどが過ぎた。エリザベスが心の内を打ち明けたあのあと、キャンディはそっと彼女の手を握り、穏やかに言った。「エリザベスさん。あなたの気持ちは、きっとジョージさんに伝えたほうがいいわ。どんな形でも、言葉にして伝えなければ、誤解だけが積もってしまうの。」エリザベスは目を伏せ、少し震える声で答えた。「……怖いの。彼に“もう疲
披露宴の最後の挨拶が終わると、扉の向こうからやわらかな風が吹き込んできた。案内役の声が響く。「このあとは庭園にて、皆さまご自由にお過ごしくださいませ」私たちは列をなして広間を出ていった。重厚なシャンデリアの輝きから一歩外へ出た瞬間、秋の夕暮れが広がり、庭園は無数のランタンと燭台に照らされていた。テントの下には立食のテーブルが並び、銀の器に盛られた果物や小さなケーキ、香り立つコーヒーやシャンパンが整えられている。芝生の上を歩くと、ほんのり冷たい風に薔薇の香りが混じって胸に届いた。厳かな
白い窓が大きく開け放れたポニーの家。さわやかな風がカーテンを揺らし、外からは子どもたちの笑い声と、ジュージューとお肉の焼ける音、香ばしい匂いが流れ込んでいた。庭ではカートライトさんがエプロン姿で腕を振るい、提供されたステーキがバーベキューグリルの上で次々と焼かれていく。看護婦仲間たちはリネンのエプロンをつけてお皿を運び、マーチン先生は瓶ビールの栓を器用にポンと飛ばして、訪れる人に振る舞っていた。室内には長テーブルが並び、キャンディの同僚看護婦たちが手縫いしたパッチワークのクロスがかかって
一方スザナのほうは。病室には、毎日のように花が届けられていた。だがその送り主は、テリィではない。“稽古が忙しい”そう聞かされたスザナは、寂しさをごまかすように窓の外を見つめる日が増えた。(……どうして来てくれないの?あの日、私が庇ったのに)胸がじんと痛んだ。そんな時。「スザナ、入るぞ」病室の扉がそっと開き、イアンが顔を出した。イアンが病室に入ってくると空気が少しだけ温かくなる。「今日のジュリエットの代役、まあまあ悪くなかった。でも、やっぱりお前じゃないとな」椅子に腰を下
結婚して半年ほど過ぎたある日の午後。窓から射す冬の光が床に長い影を落とすなか、「簡単に片付けておいて」とテリィから頼まれたキャンディは、書斎の片隅を整理していた。稽古続きで散らかった書類や資料を整えようと手を伸ばしたとき、小さな革表紙のノートが棚の奥に挟まっているのを見つけた。「……これは?」見覚えのないノート。けれど、表紙の角のすり減り方や、黒ずんだ手触りが、長い年月を物語っている。開いてはいけない――直感でそう思った。しかし、好奇心と胸の奥のざわめきが勝った。ページをそっと開
ニューヨーク郊外の高級住宅街。レンガ造りの瀟洒な建物の最上階にあるペントハウスが、テリィとキャンディの新しい住まいだった。1924年7月の朝。窓を開けると、夏の陽射しが白く輝き、街路樹の葉がざわめく音が涼しげに届いていた。ポニーの家では朝から子どもたちの声で賑やかだったが、ここは驚くほど静かだ。その静けさを破るように、ドアのベルが鳴る。「おはようございます、キャンディスさん」やって来たのは、テリィが以前より雇っていた通いの家政婦マーサ・グリーン。ふくよかで柔らかな笑顔の女性だ。毎日
《11月28日は、名木田先生のお誕生日です。先生への敬意を込めて、このお話を書きました。》夜更けのペントハウス。結婚して、まだ日も浅い。だけど、この時間の流れは、どれほど味わっても胸の奥がいっぱいになる。キャンディは、隣に眠るテリィの横顔をそっと覗き込んだ。長いまつげ。呼吸の静かなリズム。胸の上下のゆるやかな動き。灯りに照らされたその横顔は、まるで夢の中の人のように見えた。(……本当に、私…)声にならない呟きが、唇の奥でほどける。本当に、このひとと結婚したんだ。このひと
祭壇での誓い。拍手に包まれた祝福の時間。白いチャペルの光が、まだ瞼の裏に残っている。テリィがバスルームから戻るとキャンディがバルコニーから戻ってきた。テリィは静かに近づいていく。シャツの袖をまくりながら、少しだけ息をつめたような顔。「……綺麗だったよ。今日の、おまえ全部」「ありがとう。でも緊張してたのよ?」「知ってたよ、手が震えてた」キャンディは照れたようにうつむき、テリィはその頬に手を添える。「緊張、ほどいていい?」潤む瞳が彼を見つめている、答える前にそっと唇が重なった。最
冬の夜気が窓を揺らす中、アパートの部屋は小さく温かった。ストーブの灯りがゆらゆらと揺れ、壁に影を映す。キャンディは湯上がりで頬がまだ赤く、ハードな仕事で疲れがにじんでいるようだった。「……もう眠っちゃいそう」ベッドに座り込んだ彼女の声は、どこか甘くかすれていた。テリィは台本を置き、その表情に自然と足が動いた。「髪、濡れたままだろ。風邪ひく」タオルを取り、そっと髪を包む。指先が触れるたび、キャンディの肩がわずかに揺れた。(……かわいい)そう思った瞬間、胸の奥に熱が灯る。タオル