ブログ記事273件
応接間には、穏やかな静けさが流れていた。窓から吹き込む初夏の風が、白いレースのカーテンをゆっくりと揺らしている。庭では幼い子どもたちの笑い声が遠くに聞こえた。その穏やかな空気の中で、テリィは静かに姿勢を正した。舞台の上なら、何千という観客の前でも臆することはない。けれど、この日だけは違った。胸の鼓動が、自分でもはっきりわかるほど早い。隣を見る。キャンディも少し緊張した面持ちで膝の上へ両手を重ねていた。ふと目が合い、小さく微笑み合う。その笑顔だけで、不思議と肩の力が抜けた。テリィは
六月末、大きな拍手に包まれて千穐楽を迎えた。劇場には最後まで熱気が残り、終演後も取材や支援者への挨拶が続いた。主演として舞台に立ち続けたテリィにとって、それは充実した日々であると同時に、次なる大作『ロミオとジュリエット』への助走でもあった。その本格的な稽古が始まるまで、テリィたちのチームは2週間ほどの休暇が与えられていた。プロポーズのあとも、二人は以前と同じように手紙を交わした。仕事の予定を確かめ合い、まずはポニー先生とレイン先生へ、自分たちの口から婚約を報告したいという手紙を重ねなが
教会を見て回るようになってから、テリィの手紙には少し変わった話題が増えた。舞台のことや劇団の仲間のこと、ニューヨークで見かけた出来事などは、以前からよく書いていた。けれど最近は、その中に必ずと言っていいほど、二人の結婚についての話が混じるようになった。――キャンディへ。今日、また教会を見てきた。夜公演まで少し時間があったんだ。マネージャーに候補をいくつか調べてもらって、俺は人の少ない時間に中を見てる。誰かに知られて新聞にでも書かれたら面倒だから、結婚式のことはまだ伏せてもらってる。
じつはこの数ヶ月、タウンハウスの裏側では、小さな波紋が何度も広がっていた。ニューヨークで長く自分の手で暮らしてきたキャンディは、ロンドンに来てもつい、洗濯物を庭に干したり、子どもたちの靴を玄関で磨いたり、キッチンで皿洗いを手伝おうと台所に入ったりしてしまう。当人に悪気などない。むしろ、働く人々への敬意と、「一緒に暮らしているのだから、私にもできることを」という思いからくる自然な行動だった。しかし、古参のメイド長ベネットは、何度も胸に手を当てていた。料理人ハドソンも、眉間に皺を寄せることが増
大きすぎる机の上に、真新しい羊皮紙と羽ペンが置かれていた。その前にちょこんと座る少年の姿は、部屋の広さに比べてあまりに小さかった。まだ四歳、背筋をまっすぐに伸ばそうとしても、椅子の背には届かない。「テリュース、手元を見なさい。……そう、そこに“G”と書くのです」鋭い声が背後から飛ぶ。冷ややかな調子の「ミセス」は、母親というよりも監督官だった。彼女の白い指が紙の上を示すが、その指先には温もりはなく、ただ命令の矢印のように冷たく突き刺さった。テリィは小さな手で羽ペンを握り、ぎこちなく紙の上
部屋には、穏やかな静けさだけが満ちていた。窓の外では、夜風がカーテンをわずかに揺らしている。互いの鼓動だけが、こんなにも近くに聞こえる。テリィはそっとキャンディの頬へ手を添えた。彼女を見つめる青灰色の瞳が、ゆっくりと細められる。「……愛してる、キャンディ」囁くたび、その想いが伝わるように。唇が静かに重なる。何度も、ゆっくりと。急ぐことなく、互いのぬくもりを確かめるような口づけだった。キャンディは目を閉じ、その優しさを受け止める。何度も唇が重なり、離れては耳元へ愛の言葉が囁かれる
翌朝。キャンディが目を覚ましたとき、窓の外にはやわらかな朝の光が広がっていた。昨夜降りていた冷たい空気はどこか遠のき、風が白いカーテンを静かに揺らしている。しばらく、ぼんやりと天井を見つめた。胸の奥を探るように、ゆっくり息を吸う。不思議だった。まだ悲しみが消えたわけではない。スザナのことを思えば、胸は今でも痛む。テリィと離れていた長い年月を思えば、切なさも残っている。けれど昨夜までのように、心が締めつけられる感覚はなかった。まるで長い間、固く結ばれていたものが、少しだけほどけたよ
長い救護活動を終え、ようやく自宅の扉を開けた。玄関を閉めた瞬間、耳にこびりついていたサイレンや人々の叫び声が、まだ頭の奥でこだまする。静けさが返ってきたはずの家が、むしろ不気味に思えた。マーサが振り返り、小声で「おかえりなさいませ」と言ってくれる。その目に浮かんでいたのは安堵と心配。彼女は眠る子を見守ったまま、気遣うように静かに立ち去った。ここは安全な場所だ。そうわかっているのに、胸の鼓動は荒く、肩は強張ったままだった。寝室へ入ると、ベビーベッドの中で長男が小さな寝息を立てていた。
冬のニューヨーク。雪は夜の名残を薄く残し、舗道の端に白く積もっていた。テリィは黒のコートの襟を立て、帽子を深くかぶっていた。マフラーの奥に隠れた横顔を見つける者はいないが、それでも、通りを行く人々の視線が気になるほど、今の彼は有名になっていた。ブロードウェイを離れた裏通り。ショーウィンドウに光る“Cartier”の金文字を見つけたとき、胸の奥が小さく震えた。舞台ではどんな言葉も自在に操れるのに、あの夜だけは、言葉より先に心が溢れてしまった。指輪ひとつさえ、用意していなかった自分が、
ニューヨークの初冬。曇り空の下、柔らかな雪がちらちらと舞い始めていた。キャンディが暖炉の前で子どもたちのマフラーを編んでいると、玄関ベルが鳴る。キャンディは郵便物を持ってくると、その封筒には見覚えのある紋章が刻まれていた。「グランチェスター家からだわ」キャンディは驚きに息を呑み、すぐにテリィに差し出した。テリィは封を切り、黙って読み進めた。眉間に刻まれる皺が深くなっていく。やがて紙を膝に置き、低く呟いた。「……やはり来たか」「なんて?」キャンディが問いかける。テリィは目を閉じ
改札の向こうへキャンディの姿が消えても、テリィはしばらくその場を動けなかった。人の流れだけが絶え間なく続いている。遠くに聞こえる列車の発車ベル。行き交う人々の声。駅はいつもと変わらない。やがて小さく息を吐く。そしてようやく踵を返した。劇場街へ戻る道を歩く。けれど頭の中は別の場所にあった。キャンディ……今日一日、何度その名前を呼んだか。別れてから7年経つというのに、再会したのは昨日だというのに、まるで昨日まで隣にいたみたいだった。テリィは苦笑した。本当に変わらない。自分も、あいつも、
ロンドンでの最後の公演を終え、ニューヨークへ戻ってから数ヶ月が過ぎていた。SMTでの一年は、テリィの人生を大きく変えた。『ロミオとジュリエット』は成功を収め、劇評家たちはこぞって彼の名を取り上げた。ニューヨークへ戻った今も、その余韻はまだ街のあちこちに残っている。だが、華やかな喝采とは裏腹に、テリィの日常は驚くほど静かだった。新しく借りたペントハウスもそうだった。以前暮らしていた安いアパートとは比べものにならない広さだったが、引っ越して間もない室内にはまだ開けられていない箱がいくつも
秋の夜明け前の病棟は、静寂という名の緊張で満たされていた。壁にかけられた時計の針が、深夜三時をゆっくりと指している。キャンディはその前で体温表を持ちながら、一度だけ深呼吸した。(……大丈夫。わたしはできる。絶対に)入職してから半年が過ぎ、夜の勤務を勉強する日がとうとうやってきた。もちろん、新人看護婦が看護行為を自立してできることはまだ少ないが、患者の体位変換、オムツ交換など、担えることはたくさんあった。そのひとつひとつが命に関わることを、キャンディは理解していた。先輩看護婦のミリー
手紙は、それから何度も読まれた。最初の日は三回。翌日は二回。その次の日は一回だけ。けれど読まない日はなかった。診療所での忙しい一日を終え、部屋へ戻る。ランプに火を灯し、引き出しを開ける。そこにはいつも同じ封筒が入っていた。ニューヨークの消印。差出人は「T・G」。そして中には、テリィの手紙。文章は決して長くない。けれど行間には、言葉にならなかったものがたくさん残されている気がした。「あれから一年が過ぎた」「一年たったらきみに連絡しようと決めていた」「思いきって投函する」そして
シカゴ行きの列車へ乗り込むと、マーチン先生はすでに窓側の席へ腰を下ろしていた。キャンディの姿を見つけると、穏やかに笑う。「友だちとは会えたかね」その問いに、キャンディも自然と微笑んだ。「はい。会えました」短い返事だったが、それだけで十分だった。列車がゆっくりと動き出す。ホームが流れ、駅舎が遠ざかり、やがてニューヨークの街並みも窓の向こうへ消えていった。しばらくすると、二人の話題は自然と看護大会へ移っていた。発表の内容や質疑応答のこと。他州から来た看護師たちの研究報告のこと。
映画館の中は思った以上に混み合っていた。夕方の上映ということもあるのだろう。ホールには多くの観客が集まり、上映開始を待ちながら思い思いに席へ着いている。テリィとキャンディも中央より少し後ろの席へ腰を下ろした。館内の灯りはまだ落ちていない。周囲では映画の評判を語る声が聞こえる。「最後がすごいらしいわ」「誰が犯人なのか全然わからないんですって」「エレノアの演技が素晴らしいらしいわよ」そんな言葉があちこちから聞こえてきた。テリィは苦笑する。どうやら本当に評判の作品らしい。その横でキャン
その言葉に、キャンディの目から新しい涙が零れた。前へ進んでもいい。ポニー先生の言葉は、確かにキャンディの心を軽くしていた。テリィを愛していることを、罪のように思わなくてもいい。スザナを忘れなくても、あの日の自分を否定しなくても、彼と生きる未来を選んでいい。そう思えた。けれどひとつだけ、まだ心に残っていることがあった。キャンディは涙を拭うと、しばらく俯いていた。「先生……あのときの私たちは……どうして、あんなふうに別れなければならなかったのでしょう」ポニー先生は黙ってキャンディを見つめた
婚約してから数日後。稽古を終えたテリィは、マンハッタンの法律事務所を訪れていた。古い煉瓦造りの建物の二階。ここへ来るのは、初めてではない。あの日、テリィはロンドンから忽然と姿を消した。それはキャンディを学院に残すためだった。二人は罠にはめられたが、キャンディだけが退学になる可能性があった。アードレー家の養女としてロンドンへ留学していた彼女にとって、学院を追われることは、単に学校を辞めるというだけでは済まない。自分が退学になる代わりに、キャンディを残してほしい。そのために、テリィは自分が
ポニーの家の大きく開け放たれた窓からは、焼きたてのクッキーの甘い匂いが午後の風に乗って流れ、丸いテーブルには、湯気の立つ紅茶が静かに並べられている。そのテーブルを囲むように座っているのは、キャンディ、アニー、そしてパティの三人。それぞれが別々の場所で新しい時間を生き始めてから、以前のようにただ他愛もない話をしながら笑い合う時間は、いつの間にか少なくなっていた。だからこそ、こうして三人だけでゆっくり顔を合わせる午後が、たまらなく懐かしく感じられるのだ。ポニーの家の窓を揺らす風も、遠くから聞
劇団の稽古場に入ったクラークは、思わず首をかしげた。「まさかテリュース・グレアムさんだったとは……もちろんあなたのことは存じています。がしかし――ショパン役が自ら弾く?通常なら舞台袖で私が演奏し、俳優は弾いているふりをするものです。観客に違和感を与えぬための工夫を考えるとしても、俳優に本当に弾かせるなど聞いたことがない」舞台監督が微笑んで答える。「今回はそこが勝負どころなのです。観客の目の前で、ショパンの魂が宿るように見せたい。そのためには“演じる”だけでは足りません」半信半疑のまま、
団長の説明は、さらにしばらく続いた。推薦者の名前。オーディションの日程。ストラトフォードで行われる選考内容。そして、合格した場合に結ばれる契約について。テリィはただ静かに耳を傾けていた。入団した頃や再入団の頃なら、信じられなかっただろう。代役の台本を抱え、舞台袖で出番を待っていた男が、今こうしてストラトフォードへの推薦状を前にしている。もちろん浮かれてはいない。推薦は入口に過ぎない。本当の勝負はこれからだ。それでも――心のどこかが震えていた。幼い頃、遠い世界の出来事だと思ってい
結論最初に結婚するのは誰だ?編集部で議論した結果は以下の通り。第1位ケビン・マクグラス→突然恋に落ちて電撃結婚しそう。第2位マイケル・アンダーソン→気付いたら周囲に結婚を勧められていそう。第3位テリュース・グレアム→恋愛より舞台を優先しそう。だが、一度決めたら誰よりも早いかもしれない。果たして本誌の予想は当たるのだろうか。それとも三人とも独身街道を突き進むのだろうか。今後も目が離せない。――もっとも、当の本人たちは「大きなお世話だ」と笑うかもしれないが。特別アンケ
扉が、ゆっくりと開いた。光が差し込んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。その光のなかに現れた彼女を見たとき、テリィは、呼吸の仕方を忘れた。(……キャンディ)一歩。また一歩。足元から、時が溶けていくようだった。彼女が近づくたび、過ぎてきた季節の断片が蘇る。にせポニーの丘の笑顔。ロンドンの石畳で風に吹かれていた横顔。あの冬の日、涙をこらえながら背を向けた姿。すべてが、いまこの一瞬に流れ込んでくる。(こんなにも綺麗になるなんて、誰が想像できただろう)白いヴェールの下で微笑む彼女。
その頃、テリィは劇場にいた。朝の稽古場にはいつもの活気が戻っている。俳優たちの発声練習、大道具係の掛け声、台本を読み合わせる声。昨日と変わらない光景だった。だが、テリィの頭の中だけはまったく違った。稽古場の片隅で団長と打ち合わせをしながらも、ふとした拍子に思い出すのはキャンディのことばかりだった。昨夜ソファで眠っていた姿、毛布を掛けた時の寝顔。今頃は起きただろうか。朝食は食べただろうか。そんなことばかり考えている自分に苦笑する。「テリュース?」団長に呼ばれて我に返った。「ああ
映画館を出ると、シカゴの夜はすっかり深まっていた。街灯の明かりが濡れた石畳を照らし、行き交う人々の吐く白い息が夜へ溶けていく。しばらく二人は並んで歩いた。映画の余韻がまだ胸の中に残ったまま。「面白かったわ」キャンディがようやく口を開く。「最後まで騙された」「俺も」テリィは笑った。「でも、途中から犯人探しどころじゃなくなったけど」「あら、どうして?」「俳優の癖だな。表情とか間とか、そういうのばかり見てた」キャンディは思わず吹き出した。やっぱりテリィはテリィだった。やがて二人は
プロポーズから、ひと月ほどが過ぎた。6月のニューヨークは、日に日に夏の気配を濃くしていた。その日、昼公演を終えたテリィは、楽屋へ戻ると壁の時計を見上げた。夜公演までは、まだ時間がある。着替えを済ませ、鞄を手に取ったところで、マネージャーのフランクが声をかけた。「今日も行くのか?」「ああ」「ずいぶん熱心だな」その言葉に、テリィは少し照れたように笑った。「彼女はニューヨークの人でないから。それに、1️⃣度しかないことだからな」フランクは呆れたように肩を竦めながらも、その顔には笑みが浮か
館の広い庭園では、同じ年頃の貴族の子どもたちが集められていた。小さなポニーが並び、簡易のクリケット用のバットとボールが芝の上に置かれる。「僕が一番にやる!」年長の少年がボールを手にすると、年下の子が不安そうに後ろに下がった。その様子を見ていたオリヴァーが、すっと前に出た。「じゃあ順番を決めよう。僕が最初にやって、そのあとは小さい子からにしようよ」「どうして?」と少年が不満げに言う。「小さい子は待ってると飽きちゃうだろ?そのほうがみんな楽しいよ」言い切ると、オリヴァーは手にしたバ
時計の針が9時を回ってしばらくした頃、ようやく玄関の鍵が回った。「ただいま……」聞こえてきた声に、キッチンにいたキャンディがすぐに顔を上げる。「おかえり、テリィ!」ぱたぱたと玄関へ向かうと、テリィはコートを脱ぎながら、いかにも疲れたという顔で立っていた。「遅くなったね」「ゲネプロ近いといつもこんな感じだよ」テリィは苦笑しながらコートを掛けると、ふわりと温かな香りが漂ってきた。「いい匂いだな……もしかしてこの匂い」キャンディとキッチンへ向かう。キャンディが笑う。「オニオンスープ
夜更けの静けさが、窓辺から流れ込んでいた。リビングにはランプがひとつだけ灯り、テリィはソファに腰を掛けて台本をめくっている。キャンディはベッドに腰を下ろし、髪を解きながらその背中を見つめていた。「……今日は遅くまで稽古だったんでしょう?少し休んだら?」声をかけると、テリィは軽く肩を竦めただけで、視線を台本から外そうとしない。「まだこのシーンに納得いかなくてな」指先で示されたページには、大きな書き込み。そこに記されているのは、舞台で恋人役と抱き合う場面だった。キャンディの胸に、ち
シカゴで迎えた二日目の夜。窓の外には街の灯りが広がり、部屋の中は柔らかなスタンドの明かりに包まれていた。夕食を終え、二人はテリィの部屋で他愛ない話を楽しんでいたが、時計が9時を回る頃になると、キャンディはバッグから数冊の資料を取り出した。「少しだけ勉強してもいい?」「ああ。研修の資料か?」「うん。明後日から始まるから、忘れないうちに確認しておきたくて」そう言うと、キャンディはソファへ座り、資料を開いた。テリィはコーヒーを淹れながら、その様子を横目で眺める。「真面目だな」「だって、お