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ジャングルジムのような格子状のオブジェに施された無数の小さな電飾が、キラキラと輝く。まるで夜空の星雲の中で、2人が歌っているかのようだ。黒のレオタードの衣装に縫い込まれたきらびやかなスワロフスキーが、電飾に呼応するように瞬く。1979年11月12日の「夜ヒット」、ピンク・レディーは、西武球場での公開放送に続き、今回はスタジオで「キッス・イン・ザ・ダーク」を歌った。暗闇の歌にしては眩しすぎるほど、セットはゴージャスな雰囲気である。美術さん、照明さん、電飾さん、なかなかやるじゃないの!「夜ヒット」
1978年5月15日。ピンク・レディーが「夜ヒット」で「サウスポー」を歌うのは、この日が3回目。例の野球のユニフォーム調のコスチュームは、いくつか色違いのバリエーションが作られていて、この日はまず、オープニングメドレーで黒の衣装を着て「UFO」を歌った。恐らく前の仕事で着用したままフジテレビに移動して、オープニングに登場したと思われる。その後、自分たちの歌の番では、改めてブルーを基調とした別の衣装に着替えて現れた。2人の背中には、それぞれカタカナで「ミー」「ケイ」の文字が。これ、当時テレビ
ピンク・レディー旋風が日本を席巻していた頃、ブームを支えていた当時のファンたちは、どのようにして彼女たちの楽曲やパフォーマンスに接していたのだろうか?よく知られているように、ピンク・レディーのブームは子どもたちから火がついた。そして火をつけたのは、他でもないテレビである。2人がデビューした時(1976年)、僕は田舎の小学5年生だったが、ピンク・レディーの歌を聴くのは、専らテレビだった。「ペッパー警部」がヒットしてから、彼女たちは毎日のようにテレビに出ていたので、子どもたちは新曲が出ると、歌と
1977(昭和52)年は、サザンオールスターズのプロデビューが決まった年である。当時、学生バンドだったサザンオールスターズは、「イーストウエスト'77」というコンテストに出場し、そこで認められたサザンは、遂にプロの世界に入る事となった。今回は、サザンオールスターズのプロデビューが決まり、沢田研二の『勝手にしやがれ』と、ピンク・レディーの『渚のシンドバッド』が大ヒットし、そして、キャンディーズが「普通の女の子に戻りたい!」と解散宣言して大騒ぎとなり、プロ野球では、王貞治が通算7
いつもブログをお読みいただき、ありがとうございます。2023年も、ついに大晦日ですね。今年の年越しは、ミーちゃん(未唯mieさん)が金沢で行われる「カウントダウン・コンサート」に、そしてケイちゃん(増田惠子さん)は横浜アリーナで「第7回ももいろ歌合戦」に出演されるとのことです。楽しみですね。大晦日といえば、ちょうど45年前、1978年の12月31日は、ピンク・レディーが「UFO」で第20回日本レコード大賞を受賞した記念すべき日でもあります。78年12月31日「第20回日本レコード大賞」(「
ケイちゃんが22歳になった1979年9月、ピンク・レディーの所属レコード会社、ビクターが打った販売戦略は極めて異例のものだった。日本を除く世界40カ国で、5月にワーナーから同時発売されていた「キッス・イン・ザ・ダーク」を、国内での14枚目のシングルとして9月5日にリリース。そして、そのわずか4日後(9月9日)に、15枚目のシングル「マンデー・モナリザ・クラブ」を発売したのである。「夜ヒット」では、9月10日(奇しくも月曜日)に後発の「マンデー・モナリザ・クラブ」が先に歌われた。この曲には、
コアなファンの方ならご存知だと思うが、ピンク・レディーには、シングルレコードとしてリリースしたにもかかわらず、当時から今に至るまで(たぶんこれからも)テレビやステージで1度も歌っていないという「曰くつき」の楽曲がある。今回は、そのシングルのB面曲を、できるだけ手短に取り上げることにする。<基本情報>タイトル:AMENIC(逆回転のシネマ)作詞:糸井重里作曲:梅林茂編曲:EX発売日:1981(昭和56)年1月21日A面曲:LastPretenderピンク・レディーの「Last
1970年代はテレビと歌謡曲が娯楽の王様だった。ピンク・レディーは、その2つが一緒になって生み出したエンタテインメントの最大のヒット商品だったと言ってもよい。2年以上続いた大ブームの時期には、テレビでピンク・レディーを見ない日はなかった。当時は家庭用の録画機器も普及していなかったため、彼女たちの出演映像は大半が残っていないが、テレビ局などが公式に提供し、現在DVDなどで観ることができる映像の中から、印象的なシーンをピックアップしてみたい。ファンの方にはどれもお馴染みの内容になるが、改めて気にな
ケイちゃんこと増田惠子さんがソロデビュー40周年を記念して、11月28日に初めての配信ライブを行うことが決まった。この日を心待ちにしているファンの方も多いはずである。増田惠子40thアニバーサリー配信LIVE高音質・高画質のライブストリーミングで心躍るライブ体験をあなたにthumva.com今から40年前、1981年のこの日、ケイちゃんのソロ歌手としての最初のシングル「すずめ」がリリースされた。ピンク・レディーの解散から約8か月後のことだった。この時の芸名が現在の「増田惠子」ではなく「増田け
1978年3月13日の「夜ヒット」、ピンク・レディーは7週間ぶりの出演。この夜、初めて7枚目のシングル「サウスポー」を披露した。レコード発売の12日前だが、この頃になると、ピンクの新曲というだけで、世間の関心、期待は並々ならぬものがあったようだ。スポニチは、発売日よりも2か月も早い1月23日に、次の新曲のタイトルが「サウスポー」であることを早くも報じている。記事には「レコーディングがほぼ終了している」とある。後年、関係者たちが明かした有名なエピソードだが、「サウスポー」は当初は全く違う曲で、
いよいよ今年も残すところあと2日。ピンク・レディーのアルバム「ウィ・アー・セクシー」に関する過去記事は今回が最終回ということで、例によってセルフリブログでございます。歳末“蔵出し”祭りはめでたく(?)きょうで終了しますが、明日も投稿しますので、どうぞよろしくお願いします。ケイちゃんに叱られる!(別館)ピンク・レディーをもっと知る!kayrose65.wp.xdomain.jp
先週の金曜に放送された映画『妖怪学園Y』の特別番組の感想です!だいたいはネットで公開されてる内容がほとんどでしたが、映画公開前の復習には良かったと思います!映画『妖怪学園Y』のOP曲担当は人気歌い手莉犬さん!作詞ピノリーノ(レベルファイブ日野社長)作曲サカモフ(坂本秀城さん)日野社長ついに作詞家としても目覚めたのね笑作曲の坂本秀城さんはスマブラや龍が如くシリーズのゲームサウンドの作曲で有名な方で、レベルファイブ作品だと『タイムトラベラーズ』『怪獣が出る金曜日』に関わっていました
「やっぱり大きいわね」ピンク・レディーがフジテレビの人気番組「夜のヒットスタジオ」に初めて出演したのは、1976年12月20日。「ペッパー警部」でデビューしてから4か月後のことだった。この時、2人に会ったばかりの司会の芳村真理さんは「やっぱり大きいわね」と口にし、井上順さんも「大きいですね」と頷いた。「ピンク・レディーは背が高い」というのは、当時しばしば言われていたことである。例えば、社会学者の藤竹暁氏は<実物のピンク・レディーというのはかなり大きいでしょう。しかも、あのアクションもかなり大
今から31年前、昭和が終わり平成が始まった年に、お笑いやバラエティ番組を中心に昭和のテレビ史を回顧する『昭和のTVバラエティ』(太田出版、1989)という本が刊行された。監修・執筆者は、放送作家の高田文夫氏である。この中で高田氏は、昭和53年(1978)のテレビ界を振り返り、こう記している。時代のキーワードはなんたってお笑いではなく、ミーとケイのピンクレディー。このふたりの売れ方のものすごさというのも前代未聞。まさに寝る暇もないといった感じで1日十数本の番組をかけもち、本番直前にとび込んで
1978年といえば、その2年前から日本中を席巻してきたピンク・レディーの大ブームが絶頂を極めた年である。テレビと歌謡曲が娯楽の王様だった時代。彼女たちはCMタレントとしても引っ張り凧で、多い時には10数社のコマーシャルに出演、テレビで見ない日は無い活躍ぶりだった。今回取り上げるB面曲は、この年に発売されたある商品のCMで使われ、広く親しまれた楽曲である。<基本情報>タイトル:キャッチ・リップ作詞:阿久悠作曲:都倉俊一編曲:田辺信一発売日:1978(昭和53)年6月25日A面曲:モ
この8月でデビュー45周年を迎えたピンク・レディー。「スター誕生!」でスカウトされたミーちゃんケイちゃんが、プロ歌手を目指して故郷・静岡から上京したのは、デビューの約4か月前、1976年4月12日のことだった。2人が東京で初めて住んだのは、渋谷区富ヶ谷。山手通りと井ノ頭通りが交わる辺り、NHKや代々木公園、東京大学駒場キャンパスなどに近い、都心の住宅街である。近年は渋谷の繁華街の奥にありつつ、静かで落ち着いた佇まいが魅力の「奥渋」エリアの一角としても注目を集めている。この街で、輝かしいキャリ
検索からこのブログにたどり着く方は、"ピンクレディー身長"で来る方がいるようなんですが、なるほど、ピンクレディーの身長・・・えっ、いやっそんなもん、知らんてっ(笑)!どうも過去に書いた「洋楽女性アーティスト身長まとめ」の「ピンク」、「レディー・ガガ」の身長が原因のようですね…(^―^;)しかし、せっかく来てくれた人の為に、調べてみましたよっ、ピンクレディーの身長( ̄ー ̄)bミーちゃん/165cmケイちゃん/162cmどうですか、お客さ~ん(
スタジオのフロアに並べられた夥しい数の電球が、滑走路の誘導灯のように点滅する。まだLEDのなかった時代、暖色を帯びた光が熱を感じさせる。その中で、スパンコールの衣装をきらめかせ「カメレオン・アーミー」をハードなアクションで歌い上げるピンク・レディーの2人。1979年2月5日の「夜のヒットスタジオ」、この年最初の出演である。「カメレオン・アーミー」は前年12月からオリコン週間チャートで6週連続1位。ピンク・レディーにとって最後の1位獲得曲となったが「S・O・S」から9曲連続、通算63週の1位獲得
今回は結論から書きます。Q・ピンク・レディーはなぜ解散したか?A・最も大きな理由は、メンバーの一人が当時の交際相手との結婚を望み、解散を申し出たことによる。加えて、背景には当該メンバーと所属事務所の関係の悪化があった。紅白歌合戦出場辞退、アメリカ進出など話題作りを優先する事務所の強引な手法や、交際を巡って「仕事を取るか結婚を取るか」と迫る上層部のハラスメント行為などによって、事務所に対するメンバーの不信感は極限にまで募っていた。ただし、上の事情は2000年代にメンバーが著書で明らかにするまで
【歌詞に【スパンコール】が入っている曲】■1986年のマリリン(本田美奈子.)(作詞:秋元康・作曲:筒美京平)♪接吻(くちづけ)の後はため息が出ちゃう月の雫のスパンコール車のルーフに金のラメ♪■ダンシング・ヒーロー(EatYouUp)(荻野目洋子)(作詞:BAKERANTHONYRICHARD(GB1)・作曲:KYTEANGELINAFIORINA)♪スパンコールのシンデレラ・ボーイDoyouwannadancetonight夢の
ピンク・レディーのシングルB面曲について、取り止めもなく書いている。今回はシングル4作目にしてミリオンセラーとなった「渚のシンドバッド」のB面で、ある意味ピンク・レディー史上「最大の問題作(?)」かもしれないこの1曲を取り上げたい。<基本情報>タイトル:パパイヤ軍団作詞:阿久悠作曲・編曲:都倉俊一発売日:1977(昭和52)年6月10日A面曲:渚のシンドバッド前々回の記事で「りんごと歌謡曲は相性が良い」などと書いたが、さて今回はパパイヤである。『【B面deピンク・レディー】ピ
ピンク・レディーのシングルB面曲をリリース順にたどっている。今回取り上げる18作目は、A面曲ともども、かなり奇を衒った突飛なタイトルが目を引くユニークな楽曲である。<基本情報>タイトル:ザ・忠臣蔵’80作詞:伊藤アキラ作曲・編曲:川口真発売日:1980(昭和55)年5月21日A面曲:世界英雄史通算18作目、80年になって2作目のシングルは、前作から作家陣を“総取っ替え”する形となり、作詞は伊藤アキラ氏、作曲と編曲は川口真氏が担当した。残念なことに両氏とも昨年相次いで亡くなったが、伊