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現在DVDで視聴できるピンク・レディーの映像の中で、「UFO」の歌唱映像をピックアップし、当時テレビで放送された日付順に鑑賞している。今回は1978年3月と4月に放送された3件の映像を取り上げる。78年3月4日放送「8時だョ!全員集合」(「PinkLadyChronicleTBSSpecialEdition」所収)歌謡曲全盛のあの頃、人気歌手はだいたい3か月に1枚のペースで新曲のシングルレコードを出すのが一般的だった。「UFO」は77年12月5日、次のシングル「サウスポー」は78年
1980年9月1日。ミーちゃんケイちゃんは赤坂プリンスホテルで記者会見を行い、翌81年3月末をもって、ピンク・レディーを解散することを発表した。2人とも「ピンク・レディーとしての活動は使命を果たし終えた」と考えたこと、そしてそれぞれの価値観が違ってきたので、次のステップに進むため、別々の道を歩むことにしたと、解散の理由を語った。会見の様子を伝える当時の記事によれば、2人とも「終始にこやかに笑顔を絶やさなかった」(スポーツニッポン)といい、「新しいものへの出発を発表する場のような雰囲気だった」(
10月20日から『いけるところまでやってみる』と、とりかかったこの衣装制作。スパンコール生地のノースリーブワンピース、ちゃんとできました。もちろん2着ですこのスパンコール生地は楽天市場のMYmamaさんで購入しました。ミシンで縫えるし、コンシールファスナーも無事に付けられてほっとしました。\インスタからクーポンGET/140cm幅スパンコール生地2ミリ全7色■布スパンコールダンス舞台衣装生地バトンコスプレコスチュームハロウィンクリスマスXmas仮装2
1976年12月20日の「ペッパー警部」から81年3月30日の「OH!」まで、ピンク・レディーが「夜のヒットスタジオ」に出演した37回分の映像を見てきた。最初は感想と思い出などをさらっと書くつもりが、回を重ねるに従って、いろいろ調べたいことが出てきて、調べた以上は書き込みたくなり、特に後半はやたらと長くなってしまった。辛抱して読んでいただいた皆さん、ありがとうございます!「夜ヒット」に関しては、カメラが動き過ぎるとか、振付をちゃんと映していないとか、スモークを焚きすぎるとか、いろいろ不満も書い
「ピンク・レディーですか?」ヴァネッシーズのバーテンダーは繰り返した。「ええっと、ジンにレモンジュース、グレナデン…アップルブランデーに卵と濃い目のクリームですね。とても濃厚で、甘いですよ」こんな書き出しで始まるのは、アメリカのポップカルチャー雑誌「ローリング・ストーン」(RollingStone)の1979年9月6日号に掲載された<PinkLady:Japanesebubblegum>と題する記事。筆者は、著名な中国系アメリカ人の音楽ライターで作家のベン・フォン=トーレス(Ben
1978年は、ピンク・レディーの年であった。データのおさらいになるが、シングルレコードの毎週の売り上げランキング(オリコン週間チャート)では、「UFO」「サウスポー」「モンスター」「透明人間」「カメレオン・アーミー」の5曲によって、全52週中51週でベスト10入りを果たし、そのうち実に30週で1位を獲得。しかも5曲とも1位に輝いている。年間ランキングでも「UFO」「サウスポー」「モンスター」が1〜3位を独占。6位の「透明人間」を加え、4曲がベスト10にランクインした。これはやはり「渚のシンド
おはようございます💖✨たぬたぬです💖✨✨✨✨💕✨✨✨今日もブログにお顔を見せてくださりありがとうございます💖✨✨✨✨🌈✨✨✨お待たせしました〜♪さて本日は懐かしの昭和歌謡第2弾❗❗🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟ピンク・レディーペッパー警部(1976)🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟…をお届けしま〜す💕✨それではお聴きください💖✨✨✨✨🌈✨✨✨レッツラゴー❗❗【ペッパー警部】は1976年8月25日に発売されたピンク・レディーのデビュー曲。B面は『乾杯!お嬢さん』。作詞は阿久悠さ
叶正子(かのうまさこ/本名:藤井正子/1952(昭和27)年6月23日~)は、熊本県出身の歌手。ヴォーカル・グループ「サーカス」のメンバーとして知られる。2つ年下の弟・高(かのうたかし/長男/1954(昭和29)年7月26日~)と、4つ年下の央介(かのうおうすけ/次男/1956(昭和31)年9月27日~)がいる3人姉弟の長子が正子で、後に2人の弟は正子の誘いでサーカスに加入、ともにデビューする。正子はビートルズが好きでファンクラブに入っていた。弟・高の誘いで1
ピンク・レディーの最大のヒット曲、「UFO」。斬新な歌詞、サウンド、衣装、振付、そしてミーちゃんケイちゃんの卓越したパフォーマンスによって、歌謡曲の歴史の中でも異彩を放つ独特の世界観を作り上げ、日本中の老若男女を魅了した。あの頃テレビの前で一緒に歌い踊った昭和世代だけでなく、今なおCMやネット動画などを通して多くの人に親しまれる、世代を超えた名曲である。前回の記事で述べた通り、ピンク・レディーが活動した1976〜81年にかけて、国内のテレビで放送され、現在DVDで視聴できる2人の歌唱映像を
1970年代後半の2年ほどテレビで見ない日はなかったピンク・レディー。その最大のヒット曲「UFO」について、当時国内のテレビで放送され、現在DVDで観ることが出来る歌唱映像32件を、放送日順に鑑賞している。今回は、78年1月後半に放送された3件を取り上げる。78年1月26日放送「ザ・ベストテン」(「PinkLadyChronicleTBSSpecialEdition」所収)過去2回の記事はこちら↓『ピンク・レディー「UFO」全DVD歌唱映像をめでる(1)』ピンク・レディーの最大の
ケイちゃんこと増田惠子さんがソロデビュー40周年を記念して、11月28日に初めての配信ライブを行うことが決まった。この日を心待ちにしているファンの方も多いはずである。増田惠子40thアニバーサリー配信LIVE高音質・高画質のライブストリーミングで心躍るライブ体験をあなたにthumva.com今から40年前、1981年のこの日、ケイちゃんのソロ歌手としての最初のシングル「すずめ」がリリースされた。ピンク・レディーの解散から約8か月後のことだった。この時の芸名が現在の「増田惠子」ではなく「増田け
●世界に翔くピンク・レディー!話題のアメリカ制作盤‼︎ついに完成全米ヒット・チャート急上昇中の「キッス・イン・ザ・ダーク」をはじめ、強裂なビート・ナンバーからメロディアスなバラードまで全10曲を収録。(LPレコード帯のコピー。原文ママ)現在インターネット上の主要な音楽配信サービスでは、ピンク・レディーがリリースした12のオリジナルアルバム(ベストアルバム以外のもの)を聴くことができる。これらのアルバムについてリリース順に書いてきたが、今回から11作目となる「ピンク・レディー・インUSA
近年、東京で話題のエリア、“奥渋”の一角としても知られる渋谷区富ヶ谷は、ミーちゃんケイちゃんがデビュー前から住み始め、新人時代を過ごしたピンク・レディーゆかりの街である。富ヶ谷での生活はどんなものだったのか?そして2人にいったいどんな出来事があったのか?今回も当時の資料や関係者の回想などをもとに探っていく。前々回、前回の記事と併せて、お読みいただければ幸いである。『【デビュー45周年】何があった?ピンク・レディーの富ヶ谷生活(1)』この8月でデビュー45周年を迎えたピンク・レディー。「スター
1970年代はテレビと歌謡曲が娯楽の王様だった。ピンク・レディーは、その2つが一緒になって生み出したエンタテインメントの最大のヒット商品だったと言ってもよい。2年以上続いた大ブームの時期には、テレビでピンク・レディーを見ない日はなかった。当時は家庭用の録画機器も普及していなかったため、彼女たちの出演映像は大半が残っていないが、テレビ局などが公式に提供し、現在DVDなどで観ることができる映像の中から、印象的なシーンをピックアップしてみたい。ファンの方にはどれもお馴染みの内容になるが、改めて気にな
千葉県の成田空港が「新東京国際空港」として開港したのは、1978年5月20日のことだった。ピンク・レディーの軌跡に重ねるなら、ちょうど「サウスポー」がオリコンシングルチャートの首位を独走していた時期だ。新しい日本の空の玄関口が出来たことで、翌79年には日本人の出国者数が初めて年間400万人を超えた。とは言っても、現在と比べると4分の1にも満たない。バブル期の海外旅行ブームはこれより10年ほど後になる。まだまだ多くの日本人にとって、海外は遠い存在だった。そんな時代に、日本国内で大ブームを巻き起こ
ピンク・レディー最大のヒット曲で、今なおCMなどで使われ、世代を超えて親しまれている名曲「UFO」。今回は、そのB面となった、知る人ぞ知るあの曲を取り上げる。<基本情報>タイトル:レディーX作詞:阿久悠作曲・編曲:都倉俊一発売日:1977(昭和52)年12月5日A面曲:UFOこれまでも指摘してきたように、阿久悠氏が手がけるピンク・レディーのシングルでは、A面曲とB面曲の歌詞に何らかの呼応関係が見られることが少なくないが、それは今回も当てはまりそうだ。A面の「UFO」は、不思議な能
年が明けて1981年。解散まで2か月を切った2月9日、ピンク・レディーは「夜ヒット」に出演し、前回と同じく「リメンバー」を歌った。この日の新聞ラテ欄の番組表には、久しぶりに「ピンクレディー」の文字があった。緑と赤に染めた羽を縫い込んだコスチュームで歌う2人の背景には、ミラーボールといくつかの光源が配置され、「夜ヒット」お得意のクロスフィルターを使った光の演出が施された。今回もワンコーラス歌ったところで、後方の共演者たちが席から立ち上がって盛り立てる。間奏では、当時の生放送では珍しく、コマ送りの
オーチャードホールで上演された音楽劇「トムとジェリー夢よもう一度」を観ました。今回、ケイちゃん(増田惠子さん)はジェリーのお母さん役で出演。観る前はなんとなく、出番は少ないのかな、と思っていましたが、実際には想像していた以上に出演シーンが多く、ちょっと得した気分になりました。ほんとうにケイちゃんらしい、お茶目で可愛らしいママでした。オペラ歌手や宝塚出身の女優さんなど、歌の上手な人がいっぱい出演している中でも、さすがケイちゃん、歌声は特別な存在感を放っていました。長年クラシックバレエをされ
ステージの床下から、ステージの周り、客席の後方とふんだんな照明がスリバチ状になったコロシアムの底を幻想的に浮かび上がらせ、ピンク・レディーが舞い、歌っている。開演前に主催者側から配られた紙テープが雨のようにふりそそぐ。歌が聞こえないくらいのラブコールが響きわたり、のっけからエキサイティングだ。ヤング歌手の野外コンサートらしい熱気が会場をつつみ、いい感じである。(スポーツニッポン、1977年7月27日付)小出し小出しで恐縮だが、前回に続いてスポニチの記事を引用させていただいた。ピンク・レディ
今から31年前、昭和が終わり平成が始まった年に、お笑いやバラエティ番組を中心に昭和のテレビ史を回顧する『昭和のTVバラエティ』(太田出版、1989)という本が刊行された。監修・執筆者は、放送作家の高田文夫氏である。この中で高田氏は、昭和53年(1978)のテレビ界を振り返り、こう記している。時代のキーワードはなんたってお笑いではなく、ミーとケイのピンクレディー。このふたりの売れ方のものすごさというのも前代未聞。まさに寝る暇もないといった感じで1日十数本の番組をかけもち、本番直前にとび込んで
前々回、ピンク・レディーの曲がアメリカでヒットしたという話を書きましたが、(ピンク・レディーの身長)←こんなタイトルだけど(^◇^;)>そのアメリカでの活躍が、どうも調べれば調べるほどスゴいものなので、ちょっとまとめてみます!さて、ピンク・レディーの楽曲『KissinTheDark』が米でヒットしたのは1979年のことでしたが、1980年になると、なんと彼女達はアメリカ3大ネットワークであるNBCで1時間の冠番組を持つようになります。番組タイトルは、その名も「P
検索からこのブログにたどり着く方は、"ピンクレディー身長"で来る方がいるようなんですが、なるほど、ピンクレディーの身長・・・えっ、いやっそんなもん、知らんてっ(笑)!どうも過去に書いた「洋楽女性アーティスト身長まとめ」の「ピンク」、「レディー・ガガ」の身長が原因のようですね…(^―^;)しかし、せっかく来てくれた人の為に、調べてみましたよっ、ピンクレディーの身長( ̄ー ̄)bミーちゃん/165cmケイちゃん/162cmどうですか、お客さ~ん(
今回は結論から書きます。Q・ピンク・レディーはなぜ解散したか?A・最も大きな理由は、メンバーの一人が当時の交際相手との結婚を望み、解散を申し出たことによる。加えて、背景には当該メンバーと所属事務所の関係の悪化があった。紅白歌合戦出場辞退、アメリカ進出など話題作りを優先する事務所の強引な手法や、交際を巡って「仕事を取るか結婚を取るか」と迫る上層部のハラスメント行為などによって、事務所に対するメンバーの不信感は極限にまで募っていた。ただし、上の事情は2000年代にメンバーが著書で明らかにするまで
ユニークな楽曲とミニの衣装、奇抜な振付、そしてミーちゃんケイちゃんの唯一無二の歌声と溌溂としたキャラクターで、日本中を虜にしたピンク・レディー。年に300本もの番組に出演するなど、テレビと歌謡曲の全盛期を象徴するスターだった。現在DVDなどで観ることができる当時の出演映像の中から、2人の活躍を振り返っている。今回は、昭和のアイドルが当たり前にこなしていた水着での歌唱映像をピックアップする。「SinglesPremium」DVDより引用(以下の画像も同じ)今回も前回と同じく、2011年にリリ
『夏・体験物語2』の中古DVDを見つけて衝動買いしてしまった。若い頃、ドラマ観てたしね。あっ、でも中山美穂が出演してた方はこっちの『2』じゃなかったんだな。もう忘れてた。でもこの夏、充分に楽しんで観たぞ(笑)!それにしてもこのドラマ、今、観ると適度に滅茶苦茶で刺激がある。基本的に学園ドラマなのだが、吉幾三がバカバカしいくらいエロい教師役で、おそらく主人公クラスの教師では史上最低の男かも(爆)!?時には愛情で生徒を平手で…いや、女子生徒をグーパンチでぶっ飛ばしちゃう時もあるのだ!その
「やっぱり大きいわね」ピンク・レディーがフジテレビの人気番組「夜のヒットスタジオ」に初めて出演したのは、1976年12月20日。「ペッパー警部」でデビューしてから4か月後のことだった。この時、2人に会ったばかりの司会の芳村真理さんは「やっぱり大きいわね」と口にし、井上順さんも「大きいですね」と頷いた。「ピンク・レディーは背が高い」というのは、当時しばしば言われていたことである。例えば、社会学者の藤竹暁氏は<実物のピンク・レディーというのはかなり大きいでしょう。しかも、あのアクションもかなり大
ジャングルジムのような格子状のオブジェに施された無数の小さな電飾が、キラキラと輝く。まるで夜空の星雲の中で、2人が歌っているかのようだ。黒のレオタードの衣装に縫い込まれたきらびやかなスワロフスキーが、電飾に呼応するように瞬く。1979年11月12日の「夜ヒット」、ピンク・レディーは、西武球場での公開放送に続き、今回はスタジオで「キッス・イン・ザ・ダーク」を歌った。暗闇の歌にしては眩しすぎるほど、セットはゴージャスな雰囲気である。美術さん、照明さん、電飾さん、なかなかやるじゃないの!「夜ヒット」
いつもブログをお読みいただき、ありがとうございます。2023年も、ついに大晦日ですね。今年の年越しは、ミーちゃん(未唯mieさん)が金沢で行われる「カウントダウン・コンサート」に、そしてケイちゃん(増田惠子さん)は横浜アリーナで「第7回ももいろ歌合戦」に出演されるとのことです。楽しみですね。大晦日といえば、ちょうど45年前、1978年の12月31日は、ピンク・レディーが「UFO」で第20回日本レコード大賞を受賞した記念すべき日でもあります。78年12月31日「第20回日本レコード大賞」(「
この8月でデビュー45周年を迎えたピンク・レディー。「スター誕生!」でスカウトされたミーちゃんケイちゃんが、プロ歌手を目指して故郷・静岡から上京したのは、デビューの約4か月前、1976年4月12日のことだった。2人が東京で初めて住んだのは、渋谷区富ヶ谷。山手通りと井ノ頭通りが交わる辺り、NHKや代々木公園、東京大学駒場キャンパスなどに近い、都心の住宅街である。近年は渋谷の繁華街の奥にありつつ、静かで落ち着いた佇まいが魅力の「奥渋」エリアの一角としても注目を集めている。この街で、輝かしいキャリ