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忘我の境地、それは真我です。忘我の我とは、自我のことです。自我、つまり「私」がいないところが、忘我の境地です。この文章を書いている私は、真我探求を終えた者ですが、では、「私」が全く出てこないかというと、そういう訳ではありません。徹底的に明け渡しをした、真我に従順な自我は残っています。しかし、この従順な自我でさえ、大抵は真我(純粋意識)と一体化せず、ただ観照されています。恐らく、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジ、老子などの大覚者は、この従順な自我でさえ、ほとんどなかったのだと
今回は、「私はいない」を体験する方法のレッスン1を書いていきます。「私はいない」の「私」とは、ネタバレをすれば、自我です。本当の私である真我ではありません。探求の初期には、これがなかなか理解できません。この自我とは何でしょうか。それは、個人的な私の思考です。簡単に言えば、心と思っても良いでしょう。20世紀最大の覚者ラマナ・マハルシは、真我探求において、自らの内側で「私は誰か」と問うことを推奨しました。「私は誰か」と問うことで、私の源まで到達するのです。この源に留まり続けることによって
一度アップした記事を手違いで削除していしまい、再度アップします。翻訳家である、髙木悠鼓さんのワークショップで使われた資料を基に語りました。髙木さんのサイト主な活動www.simple-dou.com「主体」が対象物になるプロセス*ニサルガダッタ・マハラジの教えによる、主体(本質)である絶対無意識から、世界が出現するプロセス(1)非現象(絶対無意識)の状態。「私だけが在る」ので、「気づき」がない。意識以前、すべての観念以前、「ある」対