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公立小中高の教員不足が今や社会問題となっています。各学校どころではなく各教育委員会は教員の確保に必死です。でも先進国と言われる国でもこれぐらいの教員不足は普段の状態で特に騒ぎたてするほどではありません。日本では以前からの職場での自発的な?助け合いでつじつまを合わせてきたことで問題化を避けてきました。それでかえって一遍に表ざたになって問題化してしまったのです。膨大な仕事量を要求し教員個人の努力に頼ることを不思議に思わなかったことも異常でした。現状での不足分をどうにかしたいなら今まで
また、オリンピックシーズンとなりました。以前、家事をしているとあるアスリートの対談が聞こえてきました。自分の競技に取り組む姿で人々に「感動を与えたい」という発言が聞こえてきました。別に彼女を批判したいわけではないので名前は挙げません。アスリートが「強く」「高く」「速く」を目指すのは言ってみれば本能に近いことです。どんな時にだって競い合う場が欲しい。挑むということは常に利己的なものです。わたしはそんな欲求にケチをつけるような無粋な人間ではありません。むしろ、その利己的な欲求や
能力不足は公民科だけの問題ではありませんが公民科は免許が取りやすすぎる(機会が得やすい)という点で最も問題になりやすいのです。かつての職場(高校)で「公民科」免許で採用され加えて「地理歴史(以下地歴)科」免許を取った同僚がいました。「公民」の教員免許は教職課程がある大学ならたいていのところで取れます。免許をもっている者があふれているということです。それに対して「地歴科」の免許が取れる学校は大変すくない。ところが旧「社会科」(公民と地歴に分離されていなかった)免許の教員は年々減っ
日本では教員・教師だけではなく相手を選ばず「先生」の呼び名を濫用します。どうも「先生」という言葉は「道徳」と深いかかわりがあるように思います。教えることと道徳の関係です。それがいつの間にか目上の者に対して一般につかわれる敬称になってしまったようです。わたしが子どものころマンガ家は尊敬されない職業でした。それが「先生」と呼ばれ「品行方正」を求められるようになったのは何とも言えないところがあります。「先生」と呼ばれないスポーツの監督・コーチも「生き方」を教えたがります。誰でも人生を語る