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なにも「言わない」人は、なにも「思っていない」人ではありません。語彙力がまだ足りない子どもが、なにも「言わない」からといって、なにも「思っていない」わけじゃない。外国に行ったときの(語彙力の乏しい)じぶんの姿を想像すると、「言わない」が「思っていない」と同じではないと体感できます。そして「思っている」ことを、安心して言える場所というのは、これからもっともっと需要が高まっていく気がします。ネットはそういう人の欲望を解放したひ
スポーツの試合を観ていると、たまに「完膚なきまでの敗北」を目にすることがたまにあります。そういう場面を目撃すると、「あそこまできれいに負けると、むしろ気持ちよさそうだな」と思ってしまうんですよね。じぶんのなかの奢りを素直に受け止められる瞬間が、「完膚なきまでの敗北」でしょう。大人になって日常生活をしていて、「完膚なきまでの敗北」を経験することってほとんどないんじゃないでしょうか。むしろ負けないように気をつけながら生活している
時間というフィルターは、信頼をあらわすひとつの指標です。昔のものが今に残っているということは、先人たちが「これは残すべき」として、努力した結果だと思うからです。さらにどんなに時がたっても、その時代その時代でそれぞれに「いい」と思わせる「なにか」を持っていたということでもあるわけですよね。長く残ってきたものを注意深く観察してみると、「シンプル」というのがひとつ共通点としてあるように思います。本質以外の枝葉末節をはっきりカット
こんな田舎じゃ夢もみられない。そんなことばを残して、東京へ向かった若者がいたのもいまはむかしでありまして、ネットさえ繋がっていればどこにいてもチャンスはある…そんな時代になりました。本社を地方へ移転する企業もあります。Amazonで頼めば東京に行かなくたってなんだって買える時代になりました。むかしにくらべて地方もインフラが整ってきたけれど、それでもやっぱり東京にしかないものがあります。たとえば、渋谷・新宿に行けば、
イメージでもの言う危うさは、イメージというものがいま現在のじぶんとの「関係性」で驚くほど変化するからなのだと思います。「隣街の奴らなんて大嫌い!」そんなふうに毛嫌いしていた隣街にひとりでも仲のいい友だちができると、意見も変わったりするものです。「アイドル好きなんて気持ち悪い…」「鉄道好きってなんかこわいんだよね…」「あの国の人たちってなに考えてるの?」好きを言うときには、べつにかまわないと思うけれど、嫌いを主張したり大声で叫ぶなら
なにをがんばるかは、じぶんで自由に決めていいはずです。「どうして努力しないの?成長したいのなら努力しなさい。◯◯になるには努力が必要」その◯◯になるかどうかは、その人が自由に決めていいはずで、努力や成長というのは◯◯までのあくまで過程の話だと思います。努力や成長ということばを耳障りがいいからと多様して、まるでそれ自体が目的かのようにやたらめったら努力するのは、しんどいと思うんですよね。そういうのが好きな人もいるけれど。
子どもはよく親に叱られます。しかし、大人になるとその機会は、途端に少なくなりますよね。新社会人のころなら、まだ先輩が叱ってくれても、じぶんが部下を持つようになったり上の人が少なくなってくるとお叱りは一気に減ります。さらにいまの時代は、逆恨みされる可能性もあって、ますます叱らなくなった気がします。そもそも叱るって、エネルギーが必要ですからね。めんどくさいのです。ということで、一定の年齢を過ぎると、ぼくらはじぶんの
・星の王子さまの冒頭で、"ぼく"が一枚の絵を見せて訊いてくる場面があります。「これこわくない?」「帽子がなんでこわいの?」「おとなは、みんなそういうよね。これは、象を丸呑みにしたウワバミの絵だよ。」最初は帽子にしか見えなかったこの絵も、一度この話を知ってしまうと、"象を丸呑みにしたウワバミ"にしか見えなくなってしまいます。この絵を帽子ではなく、"象を丸呑みにしたウワバミ"と一度認識してしまうと、もう他の解釈はむずかしくなる。