ブログ記事292件
「また来ます。多分すぐ。」「舞台で忙しいんじゃないの?」「忙しいです。でも、だから来たいです。」「ふふ。そっか。」「はい。」潤は少年っぽい笑顔で、小さく頷いた。「じゃあ、お待ちしてます。」忙しいときほど大好きなことをしたくなる気持ちは、僕にもよく分かる。僕の絵を潤がそれほど好きだというのが、少しくすぐったい。「はい。あ、大野さん。」「ん?」「舞台終わったら、またどこか外で会いましょうよ。」「はは。終わるのまだ先でしょ?始まってもないんだから。」「楽しみにするものがあると
ここ数年の僕の毎日は規則正しい。でも、同じようでいてぜんぜん違う日々。それは、割と誰でも同じなのかもしれないけど、僕は今の職につきたいと思った時、この仕事はちょっとだけ特別だと思っていた。他の仕事をしたことがあるわけじゃない。僕は、小学校3年生の頃から描き続けて来た絵を生業にしたため、40歳になってこの仕事が2つ目なのだ。バイトもしたことがない。したいとも思わなかった。だからって人生経験が足りないとか、そんなことを思ったこともない。ただ、大好きな一つのことに集中できたラッキーな人
潤はそれから一週間ほど美術館に来なかった。舞台が毎日あったことを考えると、当然だったかもしれない。でも、僕の心はやっぱり沈みきっていた。会いたくて、でも自業自得なのだと、そんな気持ちを抑え込んだ。もう、僕の絵にさえも会いたくなくなったのだろうか。そんなことを考えた。翔子さんは、なんだかすべてお見通しみたいだった。でも、僕が居心地悪くなるようなことは一切言わなくて。ただ、到着してもうすっかりと溶け込んだベンチに、たまに座りに現れた。翔子さんの存在感が、僕には心地よかった。電話し
『ねえ、明後日って仕事休めないの?』ビデオコール中、潤が言った。「なんで?」『明日こっち来てよ。』「あ?」『あ?じゃなくて。』潤は少し苛ついているように見えた。そんなこと滅多に無いから、慣れないホテル暮らしに疲れてきたのだろうと思った。「疲れてる?」『・・・ん。』「俺が行ったってダメだろ。マッサージとか受けてんの?」『ダメじゃねえし。多分もっとちゃんと眠れるようになるもん。』伏し目がちなまま、潤はあまり僕を見なかった。「ほんとかよ。」『なるよ。来てよ。』そう言って僕
「ごめん。」彼女が言う。「うん。どした?」「あのね・・・。あ!垂れてる!」彼女が僕の方を指差して、僕は何がなんだか分からずになんとなく一歩下がってみたりした。「ソフトクリーム!」「ん?・・・ああ!」手にしていたソフトクリームが溶けはじめて、もう少しで僕の手に垂れるところだった。「あぶね。」僕は下からコーンを舐めあげた。「はい。これ。」彼女がティッシュを差し出してくれる。「あ、ありがと。」「引き止めちゃってごめん。」彼女は明らかに恐縮していた。「ふふ。」「あのね?」
潤は常々、僕に訴えている。「どうでもいいことに思えても話してよ。」僕はその訴えにうまく応えられていなかった。潤の顔を見ると、嬉しくてほとんどのことは頭の隅っこに追いやられてしまう。わざわざ隠していることもなければ、引っ張り出して話すこともなくて。「情報の価値は聞いてから俺が決めるから。」「全部?ちーーーさいことも?」僕はどこで線を引けばいいか分からなかった。「んー。じゃあ、何か起こったとき俺の顔が浮かんだとするでしょ?そしたら話して。」「なるほど。例えば旨いもん食って、潤と食べ
「あら、じゃあ、調度いいからお願い事できるかしら。」急なお休みをもらうからと、翔子さんに直接会いに行ったときだった。2泊できるように、休館日の翌日を休みにしたかったのだ。「お願い事、ですか。」「ええ。明日のとは別に。ついでにちょこっとでいいの。」そう言って、翔子さんはあるパンフレットを僕に手渡した。大阪にある美術館の特設展のものだった。「その中にある絵なんだけど。」僕はパンフレットをめくる。一枚の絵が目に飛び込んできた。「うふふ。」翔子さんが嬉しそうな笑い声を立てる。パン
「胸がいっぱい。」僕は箸を置いて言った。「お腹でしょ?」「胸だよ。」僕はドキドキが収まらなくて、もう噛んでも飲み込めない。「もうちょっと食うから待って?」潤が察して優しい声を出す。「全部食って。待てるから。」「待てそうな顔じゃないし。」そんな風に言う潤が色っぽく見えてしまって、僕は余計にソワソワしてしまった。「大野さんの方が俺のこと恋しかったじゃん。」潤が嬉しそうにそう言って、ご飯を口に入れる。モグモグと動く唇さえも、もう見ているべきものじゃなくなっていた。「大丈夫なの
「こんにちは。」目も、眉までも笑顔の潤が声を落として言う。「どうも。」また会えた喜びを押し殺して、僕もヒソヒソと応える。「あの。」潤が近くて、思わず体を反らして距離を取る。「あの、俺。」少しも気にしていないように潤が続ける。「実は俳優をやってて。」「え。へえ。」「舞台ばっかやってるんですけど。良かったらコレ。」潤が差し出したのは、キレイな青い色のチケットだった。星が散りばめられた夜空のようなところに『Bewithyou』と書いてある。その下にはキャスト、場所・日程
※色分けが正しく表示されない場合は、こちらから記事に飛んでくださいBeWithYou(足跡)/JO1作詞:OUOW,STAINBOYS作曲:OUOW編曲:OUOW1STALBUM『TheSTAR』初回限定盤Green2020.11.25独りぼっちで立ち尽くした僕は足を踏み出して歩き続けた時は流れめぐる景色通り過ぎたらたどり着いたんだうつむいたままで気がつけば残された遥かな足跡こんなに近くに君はいたんだね二人歩んだ道のり何も怖くはない僕らの夢
「それいつの話?」潤の目が怒っていた。「なんだよ急に。」「だから、それいつの話?」「ん・・・もう一ヶ月くらい前かな。潤と一緒に会ってから何日か後。」「会ったの?」「偶然ね。」「そういうの話してくれって言ってんの。」潤の声が少し大きくなる。「・・・悪い。」僕はあの日のことを思い浮かべた。「潤の顔見たら忘れちゃったんだよね。」「はあ?」「彼女に潤が俺の恋人だって言ったの。」「・・・うん。」「そしたら、すげえ会いたくなっちゃって。」「俺に?」「そ。」僕らはソファに座
「東京帰ったらさ。」「ん?」潤は買ってきたお弁当のご飯を頬張っている。そして、ちょこっと手を挙げて、続きを待つように合図する。「大野さんのカレー食べたい。」ご飯を飲み下してから潤が言う。「ん。いいよ。」「大野さんちで。」「ふふ。うん。」潤はまたモグモグと口を動かしながら、僕をまっすぐと見つめている。表情はとても優しくて、瞳は潤んでいて、肩の感じはリラックスしているように見える。「疲れてない?」今日は2回公演だったと聞いたし、あまり眠れていないと言っていたから、少し心配だっ
「今?」「うん。」「・・・ごめん。もうだいぶ待たせてるから。」「・・・そっか。」「大事な用?」「ううん。そんなことない。今度連絡する。」「この間もなにか言いかけたじゃん。」「へへ。ただ懐かしいだけ。」長いこと大好きで、短い間でも付き合っていた人のことだから、何かをごまかしているのくらい分かった。でも、さっき片思いの頃の気持ちを感じてから、僕は潤のところに早く行きたくて仕方なかった。「そっか。じゃあ、俺行くわ。」「あ・・・うん。ふふ。飲みすぎないでね。」「ふふ。大丈夫。今夜
翔子さんとの食事のことを言わなかったのを潤が怒ったのは、そんな出来事があったからだった。僕だってわざと潤から何かを隠しているわけではないけど、潤を優先するあまり、忘れてしまうことが多々ある。『俺が知らなくてもいいって勝手に決めただろ。』「・・・ん。まあ、決めたっていうか・・・。」『また忘れてたとか言うなよ。』「忘れてはないけど。」『けど?』「ごめん。」『・・・・。』「確かに俺が悪い。食事中、潤のこと思い出したもん。だから言うべきやつだって分かってたし。」『・・・考えたの?』
翔子さんが去ってからも、僕は彼の背中を見つめ続けた。きちんと紹介してもらって出会ったら、どうなるだろう。僕が興味を持っているのよりも強い気持ちを、彼は持っているかもしれない。そのことが、僕を迷わせていた。知り合ってしまったら、それを取り消すことはできない。会うことにするなら、もちろん仕事が終わって着替えも済ませてからになる。ここにほぼ毎日いると知られるのは嫌だった。「おっ。」思わず声が出た。彼が振り向いて、僕を見た。慌てて小さく会釈をする。彼も座って体をひねった姿勢で軽く会
「遅かったね。」待ち伏せていた潤が玄関で僕に抱きつきながら言う。僕は走ったから息が切れていて、さらに嬉しくて言葉が出なかった。代わりに強く抱きしめ返す。「会いたかったか?」潤が吐息と共に聞く。「会いたかったよ。」僕も囁く。ククッと潤が笑って、僕もそれに呼応する。「電車混んでた?」「ちょっと。」「水曜だしな。」肩組みに変えて、僕は靴を脱ぐ。「今日ちょっと観たい映画があるんだけど、いい?」「お、珍しいね。」「大野さん、疲れてるから寝ちゃうかな。」「あんま飲まなければ大
「ちょっと。」潤は引っ張られながら抗議をしたけど、僕は聞かなかった。「ねえって。」「ただいま。」潤の部屋のドアの前で僕は振り向いて微笑んだ。「・・・おかえり。」まだ少しムスッとしている潤が応える。「疲れた。」「俺だってだよ。」「ふふふ。」「ふっ。」潤が呆れたように笑って、僕らはやっとちゃんとお互いを見つめ合った。「なんなんだよ。」「ほんとは手つなぎたかったんだよね。」「え?」「でも潤が嫌がるかなと思って。」「それで腕掴んだの?」「うん。」潤は声を立てて笑った。
そうして僕は割と頻繁に潤のところに泊まるようになった。回数を重ねても、ベッドに入る前、僕らは必ず照れた。「新玉ねぎ、めっちゃ美味かった。」全く突飛な、どうでもいいことをどちらともなく話し出す。「春キャベツも新じゃがも美味いし、春は最高だな。」「な。」「菜の花、今年あんまり食べてないな。」「苦くて美味いよな。」「うん。大人になるとああいうの美味いね。」そしてピタッと黙って、僕らは静かに抱き合う。ただ抱き合って眠ることもあれば、息を荒くして揺れ合うこともある。どちらにしても、僕
これを恋と呼ばないなら、なんと呼べばいいか分からない。そんな気持ちに、心を含む全身が囚われていた。昨日、眠れなかったのは僕の方だった。潤が視界にいた数々の景色。どれもこれもを描いてみたかった。久しぶりにキャンバスを前に座った。でも、どんな色をのせても、なんとなく違う気がして。結局、色とりどりのキャンバスができただけで、なにひとつ形が見えてこなかった。「しっかも、今日は来ねえし。」疲れた体を伸ばしながら独り言を言う。「タイミング悪・・・。」しかも、潤も僕も、連絡先の交換を言い
潤と出会ってから、今日で2年が経つ。1ヶ月前から一緒に住み始めた僕らは、喧嘩もせずにうまくやっている。「今日3時ね。」「あい。」「ああ・・大野さんの豚汁相変わらず最高。」「ふふ。」「いつもありがと。」潤の笑顔が僕のなによりのご褒美だ。「俺もう行くね。」「はい。あ、これ毎日使ってるって、もう言ってくれた?」潤が指しているのは、同棲記念に翔子さんがくれた沖縄ガラスのグラスだった。単なる同棲だからと断ろうと思ったら、「他にお祝いできる日が無いもの。」と表情を曇らせるので、僕が折れ
「大野さん!」僕はカーテンコールからしばらくして、楽屋の脇のベンチに陣取った。東京で顔を合わせたスタッフが裏まで通してくれたのだ。「おう。」僕は踊りだしそうな心臓をなだめて、潤にいつもどおりの挨拶を返した。「いつ着いたの?来てるの知ってたらもっと急いだのに。」潤が満面の笑顔で僕の横に座る。「開演ギリギリ。」「そっか。・・・・。」潤が近すぎるくらい近くで僕を凝視している。「ふふ。近いね・・・。」「へへ。・・・ちょっとそのまま。」そう言うと、潤は笑顔のまま僕を凝視し続けた。
あまりにきっぱりと宣言されて、僕もそれを当たり前なのだと受け止めた。僕だって嫉妬はしてきた。これからもするかもしれない。潤が嫉妬してくれるのだって、僕への気持ちの現れだと感謝したい。「今日みたいにちゃんと言えるかは分かんないけど。」僕らはリビングで水を飲みながら窓の外を眺めていた。「うん。」「急に不機嫌になったらごめんね?」「ふふ。」「嫌いにはならないから安心して?」「ふふふ。安心できるかは俺の精神状態にもよるかな。」「そりゃそっか。」潤が目を伏せる。やっぱりすごくキレ
「それに、もっと観たくなりました。」潤は少しだけテーブルに乗り出して言った。さっき注文したばかりのコーヒーを、両腕で包み込むような格好になる。なぜだか、そのコーヒーが羨ましいような気持ちになる。「聞いてます?」「ああ、うん。」「どこかにもっと展示されてますか?」「ない。」「・・・そっか。」わかり易くがっかりしている潤が、腕の間にあったコーヒーカップを弄ぶ。男らしく大きいのにキレイな手だ。「描いてないってことですか?」「ん、いや。あるけど、展示はされてない。」僕は無理に潤
当然ながら、潤の家に誘われて僕は一瞬戸惑った。あの声の主がいるんじゃないのかと思ったのだ。「外がいいですか?」逡巡した僕を見て、潤がすぐに尋ねる。お互いが少しずつ敏感になっている。僕は気付かれないように、一度深く息を吐いた。「いや、いいよ。お邪魔していいの?」「はい。是非。」いつものようにハキハキとではなく、穏やかな言い方だった。「じゃあ、そうさせてもらう。」僕も優しい声が出るように、笑顔でそう応えた。「良かった。主演のお祝いにいいワインもらったんで、大野さんと飲みたいなっ
電話する勇気が出るまで、僕は何時間も潤の番号を睨んだり他のことをしたりした。あまり遅くなっては、潤のために良くない。電話してくれと頼んでおいて、諦めて寝てしまうような男ではないことは、もう分かっていた。寝不足になれば、芝居の練習に響く。僕は決心すると、それでもじれったいくらいにゆっくりと潤の番号を指で触れていった。『大野さん?』こちら側で一回目の呼び出し音が終わるか終わらないかのタイミングで、潤が応える。「あ、うん。遅くなっちゃって。」『いえ。電話してくれてありがとうございます。
「俺、実は演出もしたくて。」僕が今夜の演出についての苦言をほんの少し口にすると、潤が話し始めた。「俺だったらこうしない、ああしない、は言い出したら切りがないほどあって。でも今回は演者としての比重が主演として初めてな分だけ大きくて。何も言わないで全部任せようって、始めに決めちゃったんです。」「うん。」真っ直ぐな瞳で語る潤に、僕は相槌だけで応えた。「だけど、観た人がそう思ったなら言うべきだったのかな。」そう言って、潤はカレーをひとくち口に運ぶ。伏し目がちになると、まつげの長さが際立つ。
潤が来た時、僕はまた翔子さんと椅子について話していた。結局、翔子さんも僕も、2つのデザインに甲乙つけることができなかった。故に、どちらのベンチをどこに置くのが一番心地よいのかを検討していたのだった。「この部屋の子たちを少し動かそうかしら。」「なるほど。」「この子をこう・・・こちらに持ってきたら。」翔子さんは作品を自分の子供のように愛おしむ。結果、「この子たち」とか「この子」なのだ。「ここのグループはそろそろ1年経つんですね。」僕は4枚ほどの、小窓くらいの大きさの絵を指して言った
潤があの声の主について話してくれたのは、付き合いはじめて半年くらい経った頃だった。僕らは暖かくなった陽気を祝うように、昼から公園に軽食を持って出かけることにした。「外、久しぶりだね。」「最近、暗くなってからばっかりだったもんね。」「大野さん、今日何時頃までいられんの?」「ずっと。」言って、僕は潤に向かって微笑んだ。最近の僕の休みは、ほほ全部が制作活動に費やされていたから、潤が聞いたのだ。もう2ヶ月くらい、夜の1時間ほどしか会えていなかった。「いいの?」「ふふ。嬉しそうだな。」
「大野さん、目閉じてると微笑ってるね。」「・・・ん?」僕はまだ寝ぼけたままで返事をした。「まつ毛の線が、なんか微笑ってるみたいに見える。」「・・・ふふ。・・・ずっと起きてたの?」「いや。10分ぐらい。」「おはよ。」「おはよ。」「なんか、菩薩みたい。」薄目で見たそんなことを言いながら微笑む潤は、天使の様だった。「はずいな。」「はは。もうちょっと寝るのか?」「いや。起きる。」せっかくの2人の時間を寝て過ごすのはもったいなかった。「ははは。寝癖っ。」潤が僕の頭のてっぺんを
「ご都合悪いかしら。」「ふむ・・・。」「やはり、2つを比べてみないことには。それには同一人物が両方を吟味するのがいいかと思ったのだけど。」翔子さんはちょっと困惑した表情を見せた。僕は、翔子さんを困らせるのも嫌だった。「両方をひとつずつは・・・、駄目ですかね。」僕は、見てもいないのに適当な提案をしていると、言ったそばから反省した。でも、翔子さんはそう思わなかったようだった。「とりあえず、写真だけお見せするわ。私は両方とも好きなの。あなたもそうなら、それが一番いい選択だわ。」微笑ん