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銅像茶屋は、八甲田山の雪中行軍で奇跡的に助かった後藤房之助伍長の銅像近くに建てられてるお店です。2018年を最後に閉鎖してたそうです銅像茶屋6年ぶり再開へ十和田八幡平国立公園内の県道青森田代十和田線沿いにあり、経営難などのため2018年シーズンを最後に閉鎖していた食堂兼土産物店「銅像茶屋」(青森市)が、27日から建物正面にある出店部分の営業を再開する…www.navitabi.jp私は2017年10月に行きました。近辺の地図です雪中行軍遭難の地の看板がありま
(五聯二大隊遭難事故判明前の地元紙「東奥日報」の記事を抜粋)1月18日「軍旗祝典雑観……余興は綱引、集合銃剣試合及び雪戦の三つであったが……特に雪戦は此地方では書生等の能くやるもので……」1月21日「別項の如く歩兵第三十一聯隊は昨日を以て雪中行軍に出発せるが、同隊教育委員福嶋大尉より……」「歩兵第三十一聯隊の行軍に本社社員弘前支局詰なる東海勇三郎を派遣せるが……」1月23日「歩兵第三十一聯隊……三戸郡に入りて戸来岳を通過して当地に着し梵珠山を経て北郡に入り……高山深谷
五聯隊が事故報告で予行行軍とする―実質的には事前偵察・練成訓練となる田茂木野までの行軍が実施されたのは、1月18日(土曜日)。第二大隊が行軍に関する命令を下達して、参加者の基準や細部を示したのは、1月21日(火曜日)。田代に向ったのが1月23日(木曜日)。この事実から浮かび上がるのは、周到に準備された演習ではないということ。参加基準が示されたのが21日なので、下士兵が準備できる時間は21日と22日のみ。糧食、燃料、調理器具、露営資器材、橇等の受領、その後、橇への積載
漁夫の利ビゴー画(写真・図説・総合日本史第12巻近代Ⅲ日本近代史研究会から抜粋)魚(朝鮮)釣ろうとしている日本と清、さらにロシアがそれを横取りしようと狙っている(雪中行軍遭難事故を理解するうえで時代背景は重要)南下するロシアとの対立は深まる明治28年(1895)4月に日清講和条約(下関条約)が調印され、日清戦争は日本の勝利で終結した。これによって日本は遼東半島(主要都市に旅順や大連など)を領有することになった。しかし、その領有に反対するロシア
五聯隊は、三が日を過ぎると、1年に一度のお祭り「軍旗祝典」の準備に取り掛かる。その行事は二大隊が田代に向かった1月23日の1週間前の1月16日に実施された。来賓、将兵の父兄、付近住民等を迎えるための飾りつけや出し物等を準備した。当然、式典や余興の予行も行なわれた。将兵は、1年に一回のこの行事を楽しみにしていた。来賓らが帰った後には、下士卒が酒を酌み交わし歌ったり踊ったりして楽しむのだった。軍旗祝典(『雪中行軍記録写真特集行動準備編』小笠原弧酒)五聯隊
明治34年軍旗祝典(小笠原弧酒編・著『八甲田連峰雪中行軍記録写真特集行動準備編』)明治35年1月16日歩兵第五聯隊の軍旗祝典が催された。今でも自衛隊は駐屯地創立記念行事、自衛隊創立記念行事として記念式典、観閲行進、訓練展示、装備品展示等を行っている。その当時の徴兵された兵卒らにとって、軍旗祝典は1年に1回のお祭りで一番の楽しみとなっていた。来賓や一般見物者が帰った後、大宴会となるのだった。酒を酌み交わし、歌を歌う、金盥をたたいて踊りだす、その日ばかりは上下の関係を忘れて楽し
1月24日(五日目)の記事(宇樽部から戸来(金ケ沢))はない。間山伍長の手記から抜粋する。二十四日午前六時出発し戸来を指して前進す其の日の行程たるは三嶽山(※1)の危険を冒すものなれば……午前十一時五分枯の沢に於いて昼食を喫し時に気温朝〇下拾度昼〇下拾参度夕は〇下拾五度…飯は凍りて石の如く……風雪横面より背后より吹すさび本年稀情(※?)なる寒なるを以て……戸来村の手元にある〇井内(※2)に着す時に在郷軍人等歓迎焚火を燃やし〇井内村の田澤宇之方に休憩所を設け酒餅の待遇実に甚
『八甲田山消された真実』発売記念トークイベントが下記のとおり行なわれます日時:1月31日(水)1830~2030場所:大盛堂書店3階(東京都渋谷)内容:八甲田遭難事件を語り尽す参加者:春日太一さん、羽根田治さん、伊藤薫詳細はhttp://www.taiseido.co.jp/event20180131.htmlできる限りわかりやすくお話ししたいと思っています。
1月25日(6日目)…2月4日東奥日報朝六時半金沢村を出発して三本木村に向かう……一本松に出て国道を歩みて三本木に着せしは四時二十分……伍長齋藤祐吉氏は凍傷にて足腫れて歩行容易ならず今日出立前に衆勧めて馬橇に載せて五戸に至らしめ五戸より汽車にて帰営せしめることとせり(間山手記から抜粋すると)「金崎旅館に舎営せり其の夜村民より煮餅役場より酒菓子を待遇せられ……」この日の朝食は高木勉の『われ、八甲田より生還す』によると「帆立貝、豆腐味噌汁、茄子漬」となっている
1月29日の新聞は以外にもあった。それには三十一聯隊雪中行軍四日目(23日)の状況が書かれている。昨夜十和田村(※1)に於ける宿舎は五カ所に分ち本部は工藤祐紀に設けられる……今朝六時三十分十和田村を発して東に向かい進軍せり……小倉山に向かう登ること一丁余此の辺亦絶壁更に下りて湖畔に達す即ち湖畔を行く而も怪厳老樹其の前途を遮り危険言うべからず……湖畔に一家有り老搵の外に男女の子二人居たり……暫時茲に休憩したる後北進せり……草鞋亦甚だ重くして歩行に難むよって草鞋を棄て
山口少佐の死因について、軍の書類は「心臓麻痺」となっている。青森衛戍病院(青森市史別冊歩兵第五聯隊八甲田雪中行軍遭難六十周年誌昭和38年)映画や小説は、「山田少佐は心臓を打ち抜いて自殺」としていた。原作の新田が拳銃自殺としたのはなぜなのか。小笠原弧酒が拳銃自殺説を唱えていたからだった。新田のネタ元は小笠原なのだ。平成になると「クロロホルム暗殺説」が出現する。当時の一部新聞には父が自殺をすすめたというような記事はあったが、それは捏造記事だったよう