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昨日、あんなに辛そうな顔をして眠っていた妻今日、面会すると昨日よりさらに元気になったようで…私が集中治療室に入っていくと「パパ」と笑顔を返してくれた…思えば、こころなしか?点滴によるものか?治療のせいか?顔にも張りが出て、皮膚の表面にも水分がいきわたっているように見えた私は仕事にかまけて、この人はいつまでも私の傍にいてくれると…思っていたでも、恩恵をうけていながら、一緒いたのに、黄疸、胃の不調、腕や胸部の赤い発疹等の身体の変調も気にかけてあげていなかった男は一般的にそんなも
主人が集中治療室へ運ばれる。「これから、しばらく会うことができません。」そういわれた。コロナの関係で面会ができないとのこと。「しっかり休んでね」息子と一緒にそう言って別れた。入院についての書類を何枚も書いた。パニックになっているときに字を書く、書面を読む、判断する。これを行わなきゃならないのがつらい。看護師さんを信じるしかない。さて、お店の電気を消しにいかなきゃ。戸締りしなくちゃ。診察券探さなくちゃ。息子を帰し
こんにちは、現在術後療養中のうさぴこです9泊10日の予定だった入院期間が、予後良好のようで退院が1日早まりました久しぶりの自宅でのんびりくつろいでおります。やっぱり我が家はいいな〜今回の記録も、忘れないうちに記録しておきたいと思います。『子宮全摘開腹手術・入院日記①初日〜病院まで〜』こんにちは。現在術後療養中のうさぴこです本日より一時的に「闘病・入院生活」のジャンルに登録をさせていただきました。都内某病院に9泊10日の予定で入院…amebl
~ちぴの紹介~現在特別支援学校の小学部4年生重度知的障害・自閉症・睡眠障害・発語少々の強度行動障害認定を受けた男の子です。……………………………………………………重度知的障害児「ちぴ」との暮らし・対策に追われる日常・2021年に新築したマイホームのことなどをブログにしていますおはようございますまさかまさかの事態が次々に起こる新年度まずこちら夫が転勤して通勤時間が以前は90分かかっていたのが20分になって喜んでいたのですが…まさかまさかの通勤手当が0円20分はかかってる
(息子が痙攣重積型《二相性》脳症と診断されたときの備忘録です)●2/1(金)もともと予約していた時間に病院へ行く。診察の前に採尿があったので、いつものようにコップをもらいトイレへ行く。これまではトイレに行き、「オシッコして」と言えば上手にできた息子。この日は「できない」と言った。お水を飲ませ、しばらく待ってもう一度トイレへ。3,4回繰り返したが採尿はできなかった。ただオシッコが出ないのではない。出せないんだ。そう思った。結局採尿は後回しにし、診察へ行くことになった。「さぁ
手術当日の朝は、9:00頃に点滴のための静脈ルートが確保され、点滴が始まった。手術開始が9:30だったので、その10分前頃には、点滴スタンドを押しながら徒歩で手術室へ向かった。手術室へ到着すると、病棟看護師から手術室看護師へと申し送りが行われ、直ぐに手術室へ通された。手術室へ通されると手術台の上に横たわるよう促され、全裸となり身体の上にはバスタオルとシートがかけられた。そして手早く、身体に様々な器具が装着されて行った。①オキシメーター(血中酸素飽和度測定器)②血圧計③心電図④フッ
火曜日のお昼お昼ご飯を食べようと仕事の手を止めたら携帯に知らない番号から電話がかかってきたご主人が会社で体調を崩して救急搬送されて来たが急変して今は大変深刻な状態です今すぐ手術が必要ですが今日うちの病院では手術できないため転院の準備をしているので今すぐ来てくださいその電話から4日旦那さんは一命をとりとめ今まだ、病院のICUにいるしばらくブログを中断するとしたのに拍子抜けするように早々と再開だこんなことしてられない、と思ったし一分一秒が惜しいくらい自分に出来る
*初めての方*PICUに入って5日が経った。今日も、パパと虹翔のところへ向かった。パパは1週間仕事を休んでくれた。パパの会社の人たちは本当に良い人たちばかりで、PICUに入った日に、パパが電話すると、一緒に号泣してくれて、仕事なんていいからそばにいてあげなって言ってくれたんだって。私たちの周りには本当に素敵な人がたくさんいる。虹翔の所へ行くと、先生がエコーをしていた。昨晩の様子を聞いた。痙攣は、何度かあったらしい。その度に点滴を入れてくれた。酸素は昨日のままで0.5L流している。
術後、声を掛けられストレッチャーで意識朦朧としながらもすぐに「今何時ですか!?手術できたんですか!?」と聞いた私。看護師さんがびっくりして「先生!患者さんが!」と言ったのを覚えてます(この時点で皆さんまだまだぼんやりしてるそうな…)。先生が「腫瘍が思ったよりちゃんと取れたよ!手術して良かったよ!」と答えてくれたのもはっきり覚えています。午前中でしたが、この日はそのまま集中治療室へ。スマホも本も何もなかったので、看護師さんが用意してくれたラジオに救われました。クリスマス前だったので延々クリ
学校から帰宅して、母と病院へ行った。母は、午前中も病院へ行ったらしい。ただただ血だらけの父をガラス越しに眺めた。こんな状態でいつまでいても仕方がないので、長居せず帰宅しました。午前中に見舞いに行ったら、あまりにも変わり果てていて、母も驚いたそう。私が見たらショックを受けるだろうと、私を連れていくのが心苦しかったと、後から聞かされた。続く(次回3/13更新予定!)⭐︎これまでのおはなし⭐︎↓↓↓『昔話〜第1話〜』ところが・・・。家に電話を
麻酔科医の先生と相談で太い血管に入れて貰うことが出来たのは救急搬送から6時間以上経っていた。集中治療室へ入院になったので面会時間が限られており、一旦帰宅しお昼の面会時間に合わせて再び戻るつもりでした。帰宅してから三時間が経つかどうかのタイミングで病院から容態が変わったので来ていただけますか?との連絡が…。集中治療室へ入ると先生方が代わる代わる心臓マッサージと強心剤投与を交互にして下さってるところでした。そこで主治医から何本も強心剤を試していますが全く反応してくれないんですと言われる。もう楽にさ
今から、約2カ月前に無事手術を、終えました。開胸/開腹手術です。多分。一番メスが、必要な、手術。画像乗せたいが、悩んでる。手術は、当たり前ですが、全く覚えてないが、目覚めた時、もう、ハンパないパニックと、痛み。これは、ホントすごかった。ホントに。今思えば、生きて無事手術終わった証拠なのに、信じられない位もう、痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて、なのに、呼吸器に、パニックに、なり、これ、説明出来ないんですが、いわゆる、マスクみたいな呼吸器でなくて
ご訪問ありがとうございます母が集中治療室に入りました。前回の話はこちら⬇️『母、集中治療室へ』ご訪問ありがとうございます救急搬送された母はやはり脳梗塞を起こしていて、集中治療室に入ることになりました。続きです。前回の話はこちら⬇️『やっぱり脳梗塞だった…ameblo.jp集中治療室で、母の容態はとりあえず安定しているということで、看護師さんから帰ってもよいとやっと許可が出た。母はまだ眠ったままだ。入院に必要な物が書かれたプリントを渡されて、明日持ってくるように言われる。集中治療室
皆様こんにちはなかなか書けなかったけど術後生きてます。麻酔をかけて一瞬で「フラウモーリー」って起こされました。うわーだるい沼。ここから24時間集中治療室にいないといけなかったのだが、パニックのせいか私は自分の動けない状態で周りに人がいなくなると脈拍絶賛急上昇しちゃうのである。足にはポンプたくさんのコードにつながってなぜか声はほとんど出ないし人の気配なくなるとぴぴーぴぴーって機械が脈拍反応して鳴りっぱなし、ぴぴぴー聞くともっとぴぴぴぴですぐ人がきてくれ
2023/11/21集中治療室手術後目が覚めた時には集中治療室にいた一人の看護師さんがずっと付きっきりでいてくださった女優さんかモデルさんかというくらい綺麗な看護師さんそんな事を考えながらなかなか眠れず…電気消してもらっても眠れず麻酔がまだ効いていてほとんど痛みを感じなかったので寝返りもへっちゃらな感じで何時間おきかに右向いたり、左向いたりしてクッションを挟んでくれたりした無性に喉が渇いて水が飲みたかった目覚めた時に主人がいて「喉渇いた」と言ったけど手術
2024/4/28(日)父の命日父は平成8年(1996年)4月28日に満88歳で逝った。だから今年で28年になる。私は55歳の働き盛りだった。でも前日は夜を徹して病院の集中治療室で見守っていた。その日の早朝4時過ぎだった。心拍数のモニターがピーという一定音とともに横一線の表示になった。その時の医師はまだ年若き神野君夫先生であった。母は父から10年後に逝った。その時も神野先生にお世話になった。父の時はR病院で母の時はT病
無事、一般病棟へ、移動しました!しかしながら、痛みは、やはり、ヒドく、痰が、上手く出せなく、看護師さんから頑張って吸引しよ!って言われても、もう、トラウマで泣いて泣いて拒否。痛みの、うなされがうるさいのか、一般病棟から、ナースステーションの、中に運ばれる。笑。二日間。あ、集中治療室で、呼吸器案件で、呼吸器外れた時はホントうれしかったのに。声が出ない。わたし、話せなくなってしまったのかと、思った。あーあーから、スタートして、名前を言うけど名前が、言えない。と、いうか、息が続かない。不思議。今
『ええ!!入院ですか??』びっくりしすぎて、だるさの嫌悪感が和らいだ。『肝機能の数値が異常に高くなってるからね。原因が分からないからしばらく管理入院。』入院準備してまた夕方に行けばいいと思っていた矢先……『このまま入院ね。』『ええ!!なんにも持ってきてないんですが……』外来で帰るつもりだったので何も準備していない。しかも、入院した部屋がNFICUという、母体胎児集中治療室で安静という形になった。個室の入院室では、部屋から出る事を一切許さ
「オヤジの熱が40度まで上がり、熱が下がらず集中治療室に…」と、長男からラインがきたオヤジも一生懸命に闘っているのかな祈る事しか出来ないけど頑張れオヤジ
*初めましての方*次の日。夕方になって看護師さんに今日の様子を聞いた。朝1回吐いちゃったみたいだけど、その後は順調にNGからミルクを入れられたらしい。1回自分でNGを抜いちゃって入れ直しをしたと聞いて、抜ける元気があってよかった!と思った。でも、全然笑わないって言ってた。寂しいよね、辛いよね。辛い時にそばにいてあげられなくてごめんね。早く治していくから、待っててね。ベッドに横になっていることしかできない自分が本当に本当に情けなかった。一緒に倒れてどうする、自分の健康管理もできないな
待合室に着いて少しすると汗をかいた先生がやって来ました。先生「手術は無事終わりました。」「大腸見られますか?」わたし「はい。」血が苦手な旦那は後ろを向いて…。17年息子の体で頑張ってくれたんだなぁと。先生「想定していたよりもひどくもう少し時間が経っていたらやぶけてしまうところだったと思います。悪い場所も8割切除ではなく9割ほど摘出しました。」先生にお礼を言って待合室をあとにした。あとは息子の麻酔が覚めるのを待つ。1時間ほどたっただろうか。麻酔から覚めたと連
診断名&治療方針が告げられ、ようやく正式入院です。保険証から?私の職業(薬剤師)は、どの医師も知っていました。まず、何度も申し上げますが気管挿管(涙)大袈裟にいうと、死んだ方がマジだと思うくらい辛かったです…もちろん、食事はなしで、鼻の穴から挿管された管から、流動食が胃に入ります。大量のステロイド点滴もきつかったです。後でわかることですが、ステロイドの副作用の中で、私は『血糖値の上昇』と『うつ症状』が出ました。また、喉がやたら
2018年5月定年退職しました。親友に誘われて始めたハンドメイドも少しづつイベント出店したり試行錯誤しながらの楽しい日々です。やっぱり物作りは楽しい‼︎と改めて思いました。7月の定期診察でも咳も痰もなく落ち着いていましたが、8月初旬から咳が出る様になりなんとなく嫌な予感がしていました。8月末には中学からの友人たちとのホテルお泊まり会の予定があるのでそれまでに悪化しない様にと祈る様な気持ちです。8月22日の夜夕飯の支度をしていたらゴホッと嫌な咳洗面所にダッシュ💨あぁ〜また洗面
救命センターのICUで過ごす夜はとても長くて心細くて看護師さんも忙しいのを分かっていながら付き合ってほしくて、なんとなく居て欲しいオーラを出していた。看護師さんが少しでもベッドを離れるときは必死にナースコールのボタンを探して握りしめた。モゾモゾしていると、看護師さんが戻ってきて言った。「○○さん、歯を磨いてみます?」は?歯??「気分がスッキリするかな、と思って。」
心停止を繰り返しながら救急搬送されたあと、私は目が覚めなくなったのか、眠らされたのか、とにかく6日間は意識&記憶がない。その間、私は何をしていたかというと・・・・・そうですお花畑にいたのですよく臨死体験から蘇生した人のお話に出てくるあれ。私も、まさか〜と思いながら聞いてたクチですが自分が見ることになるとは夢にも思っていなかった。でも・・・確かに・・・・見た。よく聞いていたのは「お花畑とその向こうに三途の川」でしたけど私
*初めましての方*初めて会う先生から、今の虹翔の状態について説明された。紙を渡された。悪いことばかりが書かれている。免疫不全症の疑いで入院中の虹翔くん。数日前より胃腸炎になり、嘔吐下痢の悪化から、脱水症状となりました。そして今日、午前中に一度、午後からまた痙攣がありました。パソコンを開いて、採血データを見ながら説明を聞いた。その画面を見ると、先生が話す前に、明らかに異常値だらけなのがすぐに分かった。ここへ来て、血液検査、頭部のCT、骨髄液の検査、脳波検査をしました。虹翔くんは現在
7月19日無事?手術が終了しました。手術開始が9時30分。そして麻酔から覚めて時間を聞くと22時30分位ですと。なんと13時間近くの大手術だったみたい。で、麻酔から目が覚めてからが大変。まず最初に来たのが超寒い。死ぬほど寒い。体がガタガタ勝手に震える。家族はこのまま死ぬんじゃないかと思ったそうだw布団乾燥機みたいなので強引に温めて貰ってなんとか落ち着いたと思ったら今度は痛みが痛み止めは遠慮なく言ってと言われてたので、遠慮なくお願い
手術後にSCU(私の場合はICUではなくSCUでした)で目覚める頭がふわふわ状態でスッキリしません私は…助かった?生きてる?あの不思議な感覚はどう表現すればいいのでしょうか手術前聴神経腫瘍のネット検索をしているとICUが地獄だった地獄だったという言葉を見かけましたが本当に地獄でした泣体力がない私は地獄以上でした泣とにかくダルい起き上がれない私の場合は吐いたり天井が回ったり頭痛などの症状はなかったもののとにかく眠いんです寝かせてください看護師『今日は何
朝イチの手術でした手術室へ行く前に、なんか麻酔の慣らし的な?忘れたけど注射をしてベッドごと移動しますね~ってもう、そこからは記憶ないんです尿道カテーテルは知らない間に入ってたよパンツは脱いだのか覚えてないT字帯ってのを用意してたのですがそれを着けたんだか、どうかも覚えてないT字帯ってほっそいヒモだけど何のために着けるんだろうね?なんか無くても差し支えないような…?あ、子宮筋腫のときは、ティージィーパンツってやつをはかされてましたね↓これ【在庫】白十字ティージーパン
*初めての方*PICUに入って3日目、入院して80日。生後120日。今日も仕事を休んでくれたパパと、面会時間を待って、宿舎から虹翔の所へ向かった。昨日の夜は、初めてパパと宿舎に泊まって、虹翔のことをじっくり話した。2人でカップラーメンやお惣菜を食べながら、きっと大丈夫だと、泣きあった。夜寝るときも、2人で泣いた。私もパパもまだまだ親になったばかり。この状況は、あまりにも残酷だった。私1人だったらきっと、永遠にメソメソしていたかもしれない。虹翔の前でも、何も話せず下を向いていたかも