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夏昼偶作柳宗元南州溽暑酔如酒隠几熟眠開北牖日午独覚無余声山童隔竹敲茶臼夏の大気は熱を帯びて重く、目に見えぬ波であるかのように寄せ、──波間にあれば、思いはまるで酒に酔っているかのように揺れる。北の窓を開ければ、涼風はしずかに寄せてくる。──酔いは洗い流されてゆくのか。──ひじ掛けにもたれたまま、いつしか眠りの底に沈んでゆく。──どのくらい眠っただろうか、ふと夢から覚めれば、風は変わらず吹いている。眠っている間にも吹いていたのか、──人の声は
主婦向け家庭円満カウンセラー☆カスミンです。最近、儒教に興味を持ってネットで調べていましたが、本でも読んでみよ!と思い読んでみました。難しいかな?と思ったので、超訳論語から。超訳論語の中のあるページが目に止まりました。私は、これを読んで『孔子は、善悪ではなく自分の心に正直な人を正直者と言ったんやな』と解釈しました。さすが孔子は良いこと言うな〜フムフム満足していましたが、なんせ超訳で詳しい説明もなかったので、どうなんだろ?と自己満足で終わるのも嫌なので調べてみました
み吉野の山かき曇り雪ふればふもとの里はうちしぐれつつ題しらず俊惠法師新古今和歌集巻第六冬歌(588)熱と色彩とを失ってゆく、この日々。冬の灰色の雲が、山々の姿を隠しはじめる、──山裾には人里が静かにひろがる。いにしえの時代から、神々が見つめてきた、人の故郷、──そうして人の日々。山々から吹き降りてくる、零度の風。熱と色彩とが残っている季節には、ほほえみもまた残っていたのだが、──神々の座は、いまは
俳聖松尾芭蕉の「奥の細道」は、次の言葉から始まる。月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人也ここでは「過客」と「旅人」という表現が用いられている。「過客」とは、通り過ぎて行く人を意味し、これも「旅人」と解釈される。それなら芭蕉はなぜわざわざ「旅人」を、別の呼び方に変えたのだろうか。個人的には、「月日」と「行きかふ年」を、同じ意味での旅人として扱うべきではないと考える。これを見てゆきたい。日々は過ぎゆき、戻ることはない。現在のいっさいは過ぎてゆき、いまのものではなくなり続け