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三社祭以来、久しぶりに浅草神社を訪問しました!世界有数の観光地として名高い浅草は、平日でも沢山の観光客でごった返していますが、ここ浅草神社の境内だけは常に落ち着いた雰囲気で、ゆったりとした時間が流れています。ぴしゃりと背筋が伸びる―。そんな空気に触れながら、今回も参拝をさせていただきました。そんな格式高い浅草神社の境内には、実は沢山の記念碑が設置されています。数ある碑のなかでも今回は、こちらを紹介させていただきたいと思います。週刊少年ジ
後編では北東側の地下壕を見ていきます。地下壕手前の水源は江戸時代からの灌漑用のため池で、昭和46年(1971年)に丸山ダムとして整備されました。ダム湖を周回する遊歩道が設けられていますが、地下壕はその先にあります。案内板があるとは思っていませんでした(^^;看板からほどなくして「地下壕D」が口を開けています。では入っていきます。入るともれなくコウモリさんたちのお出迎えを受けます。土砂が堆積している所を乗り越えていきます。出口が見えましたが低い位置にあ
こんにちは。4月の中旬にゲントに行きました。友達とも会い、知らないお店やエリアにも連れて行ってもらいました。街歩きの途中、彼女も入ったことがないと言う教会にも寄りました。観光スポットとしては無名、だけど行かないのももったいないほど素晴らしい教会でしたので、写真を残しておきます。Onze-Lieve-VrouwenSint-Pieterskerk(聖母・聖ペテロ教会)はシント・ピータース広場にあります。ロマネスク様式の美しい教会は、630年に聖アマンドによって設立されまし
ついひと月前ですが、終戦記念日の広島の平和記念式典に参列してきた方から広島みやげをいただきました。現地の方から「日持ちのするものを」といただいたもののおすそわけで、甘さ控えめでとても美味しい、広島では名店と知られるお店のチョコレート味とレモン風味のワッフルです。ちなみに広島に来たからには名物のお好み焼きを食べようと計画していたところ、当地の方はお好み焼きは普段からいつも食べていて食傷気味と日本そば屋で会食することになり、お好み焼きは残念ながら滞在中に食べる機会はなかったものの、真夏の広島の名店
住所天塩郡遠別町久光遠別町天塩の由来は天塩川、アイヌ語の「テシ・オ」「テシュオ」(梁(やな)・ある)から。遠別町の由来は、アイヌ語の「ウェンペッ」(悪い川)からと言われているが、実際は「ウイベチ」(相語る川)からだそうだ。他にも、「ウイエベツ」(さわがしい川)、という意味もあるそうだが、いずれにしても稲作の実る肥沃な地を造りだす川だけに後者であって欲しいと願う。久光の由来は、当初本原野といい、その後第三部落と呼ばれていたが、その後九皐となった。しかし部落外の人に読み難く、1939(昭和
山野駅跡を訪問山野駅跡は地元の集会所になっていました駅名標と車輪を撮影がありましたので撮影また「山野駅跡之碑」の記念碑がありました山野駅は1988年2月1日に山野線廃止と共に廃駅となりました
下関市みもすそ川町の火の山山頂には「火の山公園」がありますが、園内に【戦艦大和の砲弾】が置かれています。火の山公園の場所には、明治期に築城された下関要塞火の山砲台がありました。戦後、この遺構の一部を保存しつつ公園として整備されましたが、砲台については既にブログでレポートしましたので、詳しくはそちらをご覧ください。『下関要塞探訪①~火ノ山砲台第四砲台(前編)』◆起工:明治22年(1889年)1月4日◆竣工:明治24年(1891年)2月28日◆除籍までの経過:・大正8年(1919年
宇部市野中にある「旅順陥落記念碑」を紹介します。記念碑は野中公会堂の前、、、と言うか民家の玄関先に立っていますので、写真を撮る際に家の方を見かけたら一声かけた方がよいかと思います。記念碑に彫られている「明治三十七八年戦役」は日露戦争のこと、「旅順陥落記念」はロシアの旅順要塞を日本軍が攻め落としたことを記念するものです。これまでも何度も掲載していますが、日露戦争についての説明です。日露戦争(日露戦役、明治三十七八年戦役)】明治37年(1904年)2月から翌年9月にかけ
福島市荒井にある「ふくしま自治研修センター」です。9月8日(日)、ここである記念石碑の除幕式がありました。今回、動画撮影の仕事をいただきました。9月7日(土)、東北自動車道から、安達太良(あだたら)山…、福島市へ向かいました。前日の打ち合わせ会に参加しました。福島市飯坂町平野、福島交通飯坂線踏切。飯坂線桜水の車庫。福島のフルーツライン(県道5号線)です。道路の両側には、これからの季節賑わう数多くの果樹園があります。今日の宿泊場所、昨年12月にOP
撮影日2019/08/16殉職之碑場所は福島県福島市松川町金沢慰霊観音像謀略忘れまじ松川事件1999年に東日本旅客鉄道労働組合が建てたもの慰霊碑脇をEH500形電気機関車が通過監視塔は事件後に設置された?写真右に慰霊碑あのへんがほぼ事故(事件)現場にあたる事故を起こしたのは上り列車脱線地点はカーブ入り口地点らしい列車は赤矢印方向に飛び出したんちゃうかこれは松川記念塔公園JR東日本労組が建てた慰霊碑とは別物こっちは松
これまで宇部市、山口市南部を紹介してきましたが、今日から美祢市の遺構を見ていきます。美祢市の遺構地図を掲載します。今回紹介するのは「大嶺炭田(海軍煉炭製造所採炭部)」ですので、山口県全域の地図で場所を確認します。では簡単に概略を書いていきます。大嶺炭田は、現在の美祢市西部の大嶺町から豊田前町に至る東西10㎞、南北12㎞に及ぶ広大な炭田で、明治10年(1877年)ごろに発見されたと言われています。(諸説あり)大嶺炭田で採掘される石炭は燃焼時に煙や臭いがほとんど出ない炭化が