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私達はほとんど予想で生きています。どういうことかというと、目の前の事実に予想や偏見を付け足して、あたかもそれが真実のように思い込みながら生活しているのです。何度も言っていますが、私達の本質は意識です。体や思考は私ではありません。朝目が覚めると、意識の中に世界と体が現れます。同時に思考も出始めます。目覚まし時計を見ると、針は7時を指しています。誰もがこの目覚し時計は硬いプラスチックや金属で出来ていると疑いません。しかし、それは触ってみるまで、硬いと断言できないはずです。なのに、経験から硬
世界にはあなたしかいません。このあなた(本当の私=真我)は、体でも心でもありません。つまり、人間ではありません。あなたは、無限の大きさを持つ透明な画用紙のようなものです。この透明な画用紙に、ずっと自動的にドラマが再生されているのです。このドラマが一つの肉体の目を視点に流れていき、しかも他の肉体の心の声は聞こえないのに、この肉体の心だけは聞こえています。そのため、肉体が物心つく頃には、私は肉体(人間)だと勘違いしてしまうのです。でも、真実はそうではありません。全ての背景にある透明な画
真我実現(覚醒)すると、つまり悟りを開くと、すべてのベースは真我(アートマン或いは意識)であり、その中でドラマのように世界が展開していっていることが解ります。この真我は内側にあり、世界は内側にあります。そして、外側は存在しません。覚者イエス・キリストは言いました。「神の国は内側にある」覚者ラマナ・マハルシは言いました。「内側を見るようにしなさい。そして、それを習慣にしなさい。」覚者ニサルガダッタ・マハラジは言いました。「「私は在る」をつかみ取りなさい。そしてほかのすべてを手放しなさ
私達が体験している世界は、すべて意識が動かしています。意識は、何の意志もなしに自動的にすべてを顕現します。もちろん、私達が自分だと思っている体も意識が顕現します。私達の思考も、意識が自動的に顕現します。すべては、意識のものです。では、意識とは何か。この意識こそ、本当の私、つまり真我です。ところが、私達はすっかり体と心が自分だと勘違いしてしまいました。しかし良く観察すれば、この真理は明白なのです。さて、すべては意識です。だから、何が起こっても、意識のせいです。個人のせいではあ
普通の人は,有名な神社ほど,ご利益があると思って,有名な神社にお詣りにいくと思う。しかし,有名な神社ほど,実は穢れていることが多い。特に,公的性格が強い神社はよくない。本当に霊格の高い人間は,そのような神社へは行かない。公的性格が強い有名な神社には,磁場が強い場所もあるが,しかし,磁場が強い境内にも邪気だらけの場所が点在する。波動が分かる人なら分かると思う。では,本当に神聖な力が満ちている神社は,どのようなところかといえば,縁がないといけない神社である。誰でもいけるような神社ではない
覚者ラマナ・マハルシは、静かにしていなさいと言いました。静かにとはどういう意味でしょうか。おしゃべりをするなと言っているわけではないのです。静かに心の中を見なさいと言っているのです。これが、内観です。思考は自動的にどんどん出てきます。この思考は内側に出てきます。では、内側はどのようになっているのでしょうか。目を閉じて内側を見てみると、やっぱりいろいろな話し声(思考)が流れてきます。でも、話し声(思考)が流れてくるということは、そこに空間がなければなりません。この空間は、話し声(
心を探しましょうと書くと誰しも、心は大切なものだものねと思うでしょう。しかし、それは思い違いです。どういうことかというと、今目の前に犬がいるとしましょう。あなたはそれを犬が歩いてる!と認識します。そして、「かわいいな」と思うとします。この「かわいいな」という思考が、心の一つです。実は、この「かわいいな」は、見られています。何から見られているのでしょうか?それは、真我である意識です。犬の姿を認識しているのも意識であり、あなたの思う「かわいいな」を認識しているのも意識です。つまり
ウクライナ語で出版されたパイロットババ猊下の著書『ヒマラヤ・シッダヨガ』第3章より、機械翻訳したものをご紹介します。我が師パイロットババ猊下の物凄くスケールの大きいお話です。これまで世界中に覚者=仏陀は数々存在しましたが、パイロットババ猊下程の偉大な覚者は存在しませんでした。人間でありながら24番目のアヴァター様としてヒマラヤのアヴァター様達に認められている、マハヨギ・パイロットババジ猊下の偉大さが理解できます。この話が頭ではなく実際に理解できる人は、これまで知らされてきたサマーディを遥
肉体(人間)の悩みの根源は、ほとんど人間関係にあります。誰しも、肉体が生きている間は、この人間関係のせいで、自分を取り巻く世界に惑わされます。さて、肉体が覚醒(悟り)への道や真我探求に足を踏み入れてない場合は、この人間関係や多くの悩みを改善しようと、自己啓発本などを読み漁ることになります。しかし、何度も言いますが、世界は自動的に動いており、起こったことはそうなるようになっていました。なぜ世界は自動なのかは、このブログのあちこちに掲載してますから、ぜひご参照ください。人間関係の話に戻りま
世界は流れていきます。世界は途切れることなく変化していきます。今、悲しいことが起こっても、一週間後には、状況が一変しています。世界は止まりません。真我実現した肉体は、このことを徹底的に理解しています。そう、徹底的に!です。だから、今使用している肉体にとって、困難な出来事が起こったとしても、ただ静かに見ているだけです。なぜなら、世界は、状況は変わるからです。しかも、何か頑張って状況を改善しようと奮闘することなどありません。なぜなら、何もしなくても状況は変わるからです。ただ、静観
「許す」ということは覚者にとっては当然の行為です。世界では、いろいろなイベントが起こり得ます。実際には、個人というものはありませんが、辛いイベントに巻き込まれた個人は、怒りや悲しみを味わいます。しかし、その出会ったイベントでさえ、起こるべくして起こりました。そして、そのイベント内での人間関係の複雑さや、感情の縺れも起こるべくして起こっているのです。このイベントのせいで、自らのマインドに怒りや悲しみ、憎しみが生まれても、やはりそれは自動的に起こるべくして起こっている。だから
心はどこにあるのでしょうか?そもそも心とは何なのか考えたことがあるでしょうか。人は人間社会に出る頃から、つまり幼稚園や保育園に通う頃から、イヤな気持ちを感じるようになります。これは、人間関係を構築する上で、避けられない行程です。そこから、生涯、自分のイヤな気持ちに苦しみながら、人は生きていくのです。さて、この苦しみから脱却しようと、ある日真我探求(悟り)の道に入り真我実現すると、圧倒的に人生が楽になります。なぜなら、自分は体でも心でもなかった!と知るからです。しかし、真我実現してい
同じ年齢の人達より若く見える群れない(精神的に自立している,能力的に高い)目が普通の人と違う(魂が低い人間は動物的な目をしている,逆に動物でも,魂が高いと,魂の低い人間より,澄んだ目をしている)俗世間の話に興味がないテレビはほとんど見ない食べ物に気をつけている(添加物などを避ける)とても気が利くしっかりとした自分の考えを持っている(人に左右されない)空気が読める想像力がはたらく(魂が低く,動物的な人間ほど,想像力がはたらかず,後先考えず行動をしてしまう。犯罪
マイトレーヤの最初のインタビューお姿を拝見することが難しいマイトレーヤですが、すでに世界各国のテレビやラジオのインタビューに応じています。1982年にクレーム氏はロサンゼルスの満員の記者会見で、マイトレーヤがロンドンに住んでいることを発表されました。ABC、CNN、CBS、NBC、BBC、タイムズ紙、ニューヨーク・タイムズ紙、米国のすべての主要新聞から、90名以上のジャーナリストが参加し、BBCの衛生中継で放送されたことがシェア・インターナショナル誌上で報告されています。マイトレーヤの最初
本当の本物の覚者とは、私という概念のいっさいない認識がいっさい働いていない生まれての赤ん坊である。生まれたての赤ん坊は、すでに成仏そのものであり、如来そのものだ。それは大人になった人間達がかつて体験したことだ。大人になった今でも誰一人例外なくすでに無我無心あり、本来の面目そのものであり、如来そのものだ、だから、生まれたての赤ん坊を誰しもが体験しているのだから
困ったことややりきれないことも当然起こります。では、この困ったこととは誰にとってでしょうか?もちろんそれは自我にとってです。自我とは、個人の思考や感情のことです。しかし、真我に困ったことなど何もありません。それどころか、嬉しいことも楽しいこともないのです。真我の性質は、静寂であり沈黙です。ただ静かに存在する永遠不滅のスペースであり、純粋意識です。この真我である純粋意識は、世界にそれしか存在せず、他者がいないため、私という感覚がありません。ただ、あるだけです。その中に、ある肉体を中
逃げると聞いて、あなたはどう思うでしょうか。日本人は特に、真面目に生きましょうと学ばされます。それが幼少時より叩き込まれるため、嫌なことから逃げたら、何か罰が当たるのではないかと考えてしまうのです。このブログでは、覚醒について綴っていますが、この逃げるという行為は、覚醒したものにとっては当然の行為と言えます。逃げるという行為は、覚者にとってはそのイベントに干渉しないということです。世界は個人の力で動いているわけではありません。あなたという個人さえも(厳密には個人さえもいませんが)真我
関わらない。関わらないで良いことには関わらない。これは、覚者にとっては当然の論理です。しかし、関わってしまって、何とも困った事態に陥ってしまったら。その時は、関わってしまったことを後悔する必要ありません。なぜなら、関わるようになっていたからです。全ては意識が動かしており、個人の力ではありません。しかし、普段は『関わらないで良いことには関わらない』という姿勢を持っていたほうが良いでしょう。この考えを徹底していた大覚者こそ、ラマナ・マハルシです。彼は訪問者が質問してきたときも、ほと
行動はすべて自動的に起こりますが、覚醒していない人と覚者の行動には違いが見られます。覚醒してない場合、自我に影響された複雑な行動が起こります。覚者は自我に影響されない澄んだ行動が起こります。覚者の思考は起こったとしても、変化する景色として観照されます。この思考は、ほとんど行動と結びつかないため、無駄な動きが発生しません。しかし、自我に囚われている目覚めていない人の行動はどうでしょうか。例を上げてみます。明日、大切な会議があります。準備は万端に出来上がっています。しかし、心配で居
静かにしていましょう。沈黙していなさい。すべては、真我である意識の中で、自動的に変化していき、それは個人で変えることができません。安心して、時の流れに任せておくことです。すべてはそうなるようになっているのですから。沈黙していましょう。心を覗いて、言葉が出てきているスペースを凝視しなさい。そこは、沈黙の空間。目を開くと、その空間に世界が映って見えるだけです。この沈黙の空間こそ、本当のあなたです。あなたは身体でも思考でもありません。沈黙の空間こそ真我、そして原初の力です。これ
【導師スワミ・アディティヤナンダ・ギリジ師のご紹介】スワミ・アディティヤナンダ・ギリジ師は1989年に師の師で、「インド2000万聖者の最高峰」「現代の仏陀(覚者)」と称賛され、インド政府が公認するシッダマスターである『マハヨギ・パイロットババジ猊下』が開発されたサンカルパヨガを習ったヨギからそれとは知らずに実践中に最初のサマーディを成就されました。*以後スワミジ師とお呼びいたします)サマーディは、仏教では集中という意味に矮小化されていますが、実際はニルバーナ(涅槃)やモク
無執着(捨てる)こそ、幸せをもたらします。幸せとは静寂です。この世界は、意識の中に立ち上がります。意識こそ本当の私であり、真我です。誰でも、自分は体であり心だと思っていますが、そうではありません。意識の中で、世界も体も心も自動的に動いているのです。これを実感するには、真我実現しかありません。さて、すべては自動的に動いていますから、個人にはすべてどうすることもできません。したがって、結果は個人でコントロールできるものではないのです。だから、無執着に努めることです。執着なんて何の
世界には必然のイベントしか起こっていません。どんなことが起こっても、そうなるようになっていました。例えば、道端に落ちている石ころに躓いて派手に転んだとします。その石ころがその場所に落ちているのは必然でした。そして、自動的に自分の目が石ころを認識しませんでした。また、石ころにつま先が当たるような歩き方も自動的に起きました。派手に転んで、膝を擦りむいて、悔しさが沸き起こるのも、自動的に起こります。どんなイベントも必然です。この必然という言葉は、自我にとってではありません。真我である原
「縁がある」と言いますが、これは本当でしょうか。答えは、本当です。この話をするに当たって、まず縁を作るのは誰か、ということを考えねばなりません。世界は意識(真我)の中で、自動的に動いています。人ももちろん自動的に動いているのです。大きな力で、水が流れていくように、人も動いていきます。そして、人と人は出会います。世界も人も自動という大きな力で動かされており、出会いは個人の力で起こるのではありません。また、出会った人と人の間に起こる感情や思考もまた自動です。この自動が、縁を作っている
Switch版のドラゴンズドグマダークアリズン始めました。こういう洋風なオープンワールドゲームするのは初めてなのでドキドキしてます。私みたいなトロい奴がちゃんと戦えるのか、エンディングまでいけるか不安ですが頑張ります主人公のキャラメイク細かく作れて楽しいですね〜。職業は弓とダガーが使えるストライダーにしました。可愛く作れた気がする…!可愛い+美人じゃないですか!?主人公気に入りました村を襲撃したドラゴンに心臓を奪われてしまう主人公。それでも生きてるってどういう仕組みなんだろうね?でも
こんにちは、しゅんすけです。今日は足元を見て歩くというお話です。………人間しゅんすけさんが内観を続けていた頃こんなに辛いの?これいつまで続くの?早く終われよよくもこんな道を勧めてくれたな…そんなセリフを、師匠に言いたくなったものです。………それはどんな時だったか…?と言えば【足元をみて、一歩一歩あるいていくこと】に疲れていた時でした。自分が始めたことなのに…僕も、先輩(覚者)たちの景色をみたいと思って始めたことなのに…先輩(覚者)たちは足元を見て歩い