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おはようございます。まずは今朝の工事現場(^^♪21日、日曜日に行ったローテンブルク、最終回です。町壁に登りました寒かったです、、、。バスタイ(要塞)で下りました。(町の端っこ)塔の中に塔の中から下りて要塞周り中心部へ戻ってきましたこの後、移動しました。最後までお付き合い
ご訪問、ありがとうございます。いつも、いいね、コメント、フォローありがとうございます代々木ライブyoutu.behttps://youtu.be/QmgIbPYgO9E「satとは警察」の検索結果-Yahoo!検索Yahoo!検索による「satとは警察」のウェブ検索結果です。search.yahoo.co.jpランキングに参加しています。ポチっと押していただけると更新の励みになりますに
今日は“愛のトンネル”内の遺構をレポートします。第一砲台(旧第二砲台)と第二砲台(旧第三砲台)を繋ぐ軍路には全長約90mの隧道が設けられており、公園整備に伴い“愛のトンネル”と言う愛称が付けられました。隧道の中には2階構造のレンガ造りの部屋が大小12部屋も残っており、これらは弾薬の一元管理を行う弾薬元庫と旧第一砲台(旧)の物と推測されています。猿島の砲台は明治14年(1881)に着工、明治17年(1884)に竣工しましたが、おそらく同時期に構築されたのではないかと思われます。猿島
久々の由良要塞探訪です。友ヶ島第四砲台は長らく立入禁止でしたが、昨年2022年12月より解禁となりましたのでレポートを掲載します。砲台の履歴は以下の通りです。◆起工:明治23年(1890年)11月29日◆竣工:明治25年(1892年)5月25日◆備砲:二十八糎榴弾砲6門(明治32年12月備砲完了)、十二糎加農砲2門◆砲座設置標高:75m、72m◆廃止:昭和10年(1935年)3月、要塞再整理にて廃止※由良要塞の概略はこちら→→→見取図です。地下弾薬庫から砲座間
先月1年ぶりに友ヶ島を訪れましたが、新たに確認した遺構がありましたのでレポートします。友ヶ島第三砲台左翼観測所の東方150m地点に観測所と思しき遺構があります。史料で確認が取れませんでしたが立地的に第三砲台の関連施設と思われますので、「第三砲台の補助観測所」として書いていきます。なお第三砲台は4回に亘ってレポートしましたので下記をご覧下さい。==============・その1(地下弾薬庫)・その2(砲座)・その3(地下弾薬庫、掩蔽部)・その4(地上施設)・友ヶ島の施設概
深山第二砲台は第一砲台の南、標高105m地点に築城されました。第一砲台と同じく28㎝榴弾砲6門と15㎝臼砲4門を持ち、加太瀬戸に侵入せんとする敵艦を撃退する任務を持っていました。第二砲台の履歴です。◆起工:明治25年(1892年)1月18日◆竣工:明治26年(1893年)10月31日◆備砲:28㎝榴弾砲6門、15㎝臼砲4門(明治31年3月備砲完了)◆設置標高:105m/106m◆経過:大正11年度(1922年度)、演習砲台に改築◆廃止:昭和6年(1931年)9月・全部除籍
神ノ島電燈は低砲台の左後方50メートル、標高41.8mの高地に設けられました。竣工したのは3砲台の陣容が揃った翌年の明治34年(1901年)3月31日です。ドイツ製「シュッケルト」式90㎝射光機を備え、平時は昇降機井(電燈井)の下部に格納し、有事に照明座に引き揚げて照射するスタイルでした。各地で見られる明治期の電燈所と同じ作りです。なお昭和4年度(1929年)には改造され、アメリカ製「スペリー」式90㎝射光機に換装されるとともに、電力を供給する電燈機関舎も石炭火力からディーゼル機関に改めら
先日、4年ぶりに小呂島を再訪しましたので砲台の記事を書き直します。小呂島(おろのしま)は玄界灘に浮かぶ福岡県西区に属する島で、姪浜渡船場から北西約40㎞の位置にあります。150人ほどが住む有人島ですが、戦時中この島には陸軍の砲台と海軍の防備衛所が置かれていました。壱岐要塞の砲台位置図で場所を確認します。島に渡るには福岡市の姪浜渡船場から市営渡船に乗船して65分の船旅となります。日帰りできるのは火、木、土、日で、往路は姪浜・午前9時発、復路は小呂島・午後1時20分発の一便のみです
津和瀬洞窟砲台は、福岡県宗像市の沖合に浮かぶ大島の南西部に構築されました。洞窟砲台構築に至る経緯は下記リンクをご覧下さい。◆下関要塞の本土決戦準備→→→なお洞窟砲台が設置されたのは津和瀬地区の南方です。『下関要塞守備隊戦史資料』では「大島砲台」と記載されていますが、元々北部にあった砲台も大島砲台ですので、混同を避けるために「津和瀬」と名付けています。昭和20年(1945年)2月下旬のキ号演習発動により、下関要塞が保有する15㎝加農砲は洞窟陣地を構築して移設することになり
こんにちは!ゆっきーなです約3ヶ月ぶりの更新になってしまいました・・・笑7月にトルコ旅行、8月は日本に一時帰国をして、9月からは娘が息子と同じ学校に通えるようになったりと、いろんなことがあった3ヶ月でパソコンを開くということすら忘れてしまっておりました😂学校の時間が伸びて一日の自由時間がかなり増えたので、更新頑張っていこう!!と思っています✊そしてそして、大変ありがたいことに・・・最近バーレーンで出会った方々から、ブログみました!という声をいただくことが
その3では右翼観測所から見ていきます。第四砲台最大の見どころ...それは観測所直下に設けられた回廊です(・∀・)真ん中のレンガ積みされた八角形の中に観測所に上がる螺旋階段があり、その周囲が回廊のようになっています。特別この空間になにかある訳ではないのに、なぜこんな造りにしたのでしょうか。回廊には2つの窓があります。そのうちの1つ。灯り置きかな?奥から高塁道の出入口を見ています。観測所への階段です。螺旋階段です。見上げるとこんな感じ。初めて見るスタイ
明治37年(1904年)2月、日本とロシアは戦争に突入しました。本土沿岸の陸軍要塞には部隊が配備され射撃準備を整えましたが、海軍においても湾口や海峡に水雷の敷設や水雷艇による警戒が行われました。紀淡海峡には水雷の敷設は行われませんでしたが、その代わりに、深山地区の男良谷(おらだに)に水雷砲台(発射場)が明治37年6月1日に設置されました。由良要塞は陸軍なのでこのカテゴリーで海軍は関係なくね?って感じですが、戦時下には由良要塞司令官が陸海軍部隊を統率しましたので、併せて紹介していきます。何
その2では砲座を見ていきます。弾薬庫③横の階段を上がって高塁道へ。左折すると第3砲座、右折すると第2砲座ですが、まずは第3砲座から。見ての通り荒れていますね。って言うか砲座は3つともあまり状態がよくありません。*************************************高塁道に戻ります。奥は第2砲座ですが、右壁には2つの階段があり、その一つは指揮所に上がる階段です。指揮所は左翼と右翼に1つずつ配置されています。指揮所への狭い階段です。階段を上がって行き止
友ヶ島には昭和期に建設されたと思われる穹窖砲台が残っています。穹窖(きゅうこう)砲台、つまり敵から秘匿するために洞窟をこしらえて、その中に火砲を据え付けた砲台のことです。現存しているのは1つの砲座だけで、巷間では第五砲台の備砲である斯加式三十口径十二糎速射加農を移設したと言われています。第五砲台のレポートはこちらをご覧下さい。『由良要塞探訪⑳~友ヶ島第五砲台』◆起工:明治33年(1900年)1月2日(現代本邦築城史による)◆竣工:明治38年(1905年)3月31日(現代本邦築城史によ
★★★157分アメリカ邦題:ナバロンの要塞原作:英作家アリステア・マクリーンの小説監督:J・リー・トンプソン出演:グレゴリー・ペック、デヴィッド・ニーヴン、アンソニー・クイン、アンソニー・クエイル、イレーネ・パパス連合軍は、ナバロン島にあるドイツ軍の難攻不落の要塞砲を破壊するため、登山家のマロリー大尉(グレゴリー・ペック)を中心に少数精鋭部隊を編成、要塞を爆破する作戦を立案した........~~~~~この映画は、第2次世界大戦中のエーゲ海における連合軍とナチスドイ
見取図です。「揚弾井C」です。弾を揚げるクレーン支柱は残っていますが、揚弾井(縦穴)は埋められています。支柱を上から。「立坑C」周辺です。「立坑C」をアップで。縦穴とその手前に金具付きの台座?があります。ちなみに穴はTVで塞がれていましたので、撮影後に戻しました。「揚弾井C」と「立坑C」の空間を引きで撮影。やっぱりココが砲座っぽいよなぁ。この空間の真下に「地下弾薬庫後部外壁B」があります。4つ目の揚弾井となる「揚弾井D」です。揚弾井の内部。下
友ヶ島には近年の台風や豪雨災害により通行止めの箇所があります。島北東部の虎島に向かう道も通行止めが続いていましたが、現在は案内センターにて許可を受ければ虎島手前の「閼伽井の碑」まで通行することができるようになっています。地図に記してみました。なお島西部の海岸沿いの道は2022年10月11日現在通行禁止でしたが、復旧工事中でしたので最新の情報は自治体からのお知らせをご確認ください。さて、今回紹介するのは友ヶ島第四砲台の左翼観測所です。通行制限の道沿いに隠れていますので行ってみる
4年ぶりに再訪した小呂島ですが、一番の目的は電燈所を探すことでした。電燈所は射光機(探照灯、サーチライト)による夜間時の警戒と加農砲の射撃補助が任務でした。要塞砲台に付属設備として構築され、小呂島にも砲台北方島端高地に設けられたことが史料に書かれています。地図で確認します。電燈所の正確な場所は不明ですが、「砲台北方島端高地」は北端にある標高44mピーク以外に考えられませんので、砲台から北に向けて伸びる交通路を辿ってみました。途中から激ヤブになり道をロストする場面もありましたが、
宗像の大島には10回以上渡島していますが、砲台の記事は4年前に書いて以来更新していませんので、この度全面的に書き直します。***************************「大島」は福岡県宗像市神湊(こうのみなと)の北西約6.5kmの沖に浮かぶ島で、「筑前大島」、「宗像大島」とも呼ばれています。約500人が住む周囲約15㎞の島ですが、大東亜戦争中には陸軍の砲台や海軍の防備衛所が置かれていました。昭和15年の下関要塞砲台配置図で場所を確認します。大島全景。大島は響灘と
まずは見取図です。2番砲座南側の海軍標石がある辺りから回り込んで見に行きます。以前に探索された方々のおかげか道筋がついているので、藪を漕ぐことなく行くことができます。と言うことで到着です(・∀・)「電燈室」に繋がるトンネルが口を開けて待っています。トンネル右手、「頭部室」が置かれていた場所を見ています。壊れているし藪っているのでよく分かりませんね。右手の擁壁。たぶん「発射室」まで繋がっていたと思われます。擁壁を辿って進みたいところでしたが、この先ゲキ藪なので無理でし
遺構探索は陸海軍の砲台・見張所に絞って行っています。◎陸軍…要塞の砲台・堡塁・関連施設、北九州の防空陣地◎海軍…警備隊/防備隊所属の防空砲台・見張所・防備衛所・関連施設◆目次◆~クリックで各ページが別ウインドウで表示されます下関要塞(明治/大正期)[概略]砲台:[田ノ首*][筋山*][老ノ山*][田向山*][笹尾山*][古城山*][門司×]火ノ山砲台*:[概略][第一][第二][第三][第四][補助施設][低観測所]堡塁:[戦場ヶ野×][一里山×][金比羅山×][龍司山*]
2024/03/03-17:00撮影のWTWウォーターワールドヒデセイジフルピーターライニックリアンマリナーゆりヘレン国旗ディーコンたくやラッキーマギーヴァーノンジミージェットホワチャックなんとリアンマリナーが真後ろの席に座ったので・・・いつもとどこか違う!と思ったらリアンさんのラスト回でした気が付けば、周りは新旧関係者がいっぱい覚えている限りで2015年から出演されていていつでも会える存在だと思っておりましたこうやって誰でもラスト回は存在するんですね今
こんにちは!ゆっきーなです前回のショッピングモール多すぎる説〜紹介編〜をご覧いただいた方、ありがとうございます!みなさま、夏休みはどうお過ごしですか??こちらは7月末にトルコ旅行と8月に最初で最後の一時帰国が控えていてそろそろお土産の準備を本格的に始めていかないとな〜〜なんて思いつつ子どもたちやお友達と毎日楽しく過ごしています♫さて、今回は渡航から1ヶ月間の記録をお届けしようと思います。2022年のラマダンは3月末くらいに
兵舎跡から遊歩道を辿って5⃣の中部砲台跡に進んで行きます。来島中部堡塁の履歴です。◆起工:明治32年(1899年)5月20日◆竣工:明治34年(1901年)3月31日◆備砲:二十八糎榴弾砲6門(明治34年10月備砲完了)◆砲座設置標高:78m◆廃止:芸予要塞廃止に伴い、大正13年(1924年)12月に除籍◆特記:日露戦争時の明治37年8月、二十八糎榴弾砲2門を撤去して中国大陸に送付、旅順攻囲戦にて活躍※芸予要塞の概略はこちら→→→中部堡塁は島の最高峰(標高100m)
ここ最近下関要塞の記事書き直しが多いですが、今回は2年前にレポートした角島砲台の記事をあらためて書いていきます。まずは昭和期の下関要塞配置図で場所を確認します。角島砲台の履歴です。◆起工:昭和14年(1939年)7月1日◆竣工:昭和15年(1940年)9月26日◆備砲:ラ式十五糎加農4門(昭和16年6月備砲完了)◆設置標高:60m/63.5m◆任務:角島西北方海面における敵艦船の航行妨害、敵軽艦船(潜水艦)の攻撃に対し我が輸送船の海上交通を掩護する◆特記:砲台西南方の標
うぁあああせっかく記事を作成していたのに、途中でデータがフリーズして記事が飛んでしまいました。今アールグレイティーを飲みながら、記事を作り直している所です。・・・ロンドン塔の祟りでしょうか???ロンドン塔といえば、英国史に名を残す処刑場。正式名称は「女王陛下のロンドン塔の宮殿および要塞(HerMajesty'sRoyalPalaceandFortressoftheTowerofLondon)といいますが、英語では「TowerofLon
ノルウェー・オスカーボルグ要塞
演習砲台はその名のごとく火砲の取り扱いや射撃の教練を行う砲台です。各地の要塞はその規模に応じて複数の演習砲台を設けていましたが、明治期の由良要塞においては以下の3ヶ所となります。深山演習砲台和歌山市加太明治32年(1899)建設由良演習砲台淡路島東南側の洲本市由良明治28年(1895)建設福良演習砲台淡路島西南側の南あわじ市福良明治32年(1899)建設遺構の有無ですが、福良はホテル建設で消滅、由良は砲座などが現存、深山は昭和期に作られたと思われる観測所が現存していま
ルルドで是非したい事の一つがるるどの泉での沐浴でしたので、今朝は断食をして沐浴場に急ぎましたな〜んてね、嘘ですよ。ルルドは2泊なのでゆっくりしようと目覚ましを掛けなかったら、目覚めたのが沐浴の始まる9時でした〜。急いでシャワーをして、何も食べずに(ノソノソと)走ったと言うわけです。ミサが始まっていたマサビエルの洞窟前を通り過ぎ、、、沐浴場についたら、待ち時間は1〜3時間と聞いていたのに、待っている人が殆どいませんでした。直ぐに中に案内され、カーテンの向こうには
軍事博物館を見た後は、『⑲軍事博物館へ。砲弾実物&謎の男前&セルビアの敵マップ』サラエボでは戦争博物館に行きましたが、ベオグラードでは軍事博物館に行きました。カレメグダン公園にあるんですが、ここは紀元前4世紀にはすでに要塞が作られていた…ameblo.jpその隣にある「中世の拷問器具の博物館」へ行きますこれ、普通の建物でやってるならまだしも、昔の要塞の一部分?でやってるので、中に入ると、とにかく暗い!そしてカビ臭い!一枚目に撮った写真が、iPho