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(1981年西武ファンブックより)練習の熱心さが実って守備、バッティングとも一段と成長した。パワーのあるバッティングをさらに向上させるとともに、コンスタントに打てるようにするのが課題。昨シーズンの倍以上練習すると張り切っている。【1981年の西岡良洋】西武在籍:2年目(20歳)、背番号69一軍成績:公式戦出場なし【イースタンリーグ成績】打撃成績:63試合、149打数43安打、打率.289、1本塁打、16打点、5盗塁
【1979年の吉田大介】西武在籍(練習生):1年目(16歳)、※クラウンライターから残留、背番号82一軍、二軍試合出場なし。1977年秋平和台球場で行われたクラウンライターライオンズのテストに参加。テストには、約80人の中学生が集まり、2名が合格した。そのうちの一人が投手志望の吉田大介だった。(1979年当時の記事コメントより)小学校5年生の時からリトルリーグで活躍していたし、野球好きの父にずっと鍛えられてきた。テストは新聞広告で知って中学生が相手なら絶対に負けない自
【1979年の太田浩喜】西武在籍(練習生):1年目(16歳)、※クラウンライターから残留、背番号83一軍、二軍試合出場なし。1977年秋平和台球場で行われたクラウンライターライオンズのテストに参加。テストには、約80人の中学生が集まり、2名が合格した。そのうちの一人が内野手志望の太田浩喜だった。(1979年当時の記事コメントより)野球は草野球くらいで本式にやったことはなかった。中学時代は陸上部。テストを受けた動機はプロ野球の試験を受けるチャンスなんてめったに無いし、
★2020年7月1日(水)に掲載したブログのアップデート版です★西武ライオンズカルビープロ野球チップスカード【通算298枚目】カルビー1984年No.45(表面)カルビー1984年No.45(裏面)
★2020年7月12日(日)に掲載したブログのアップデート版です★西武ライオンズカルビープロ野球チップスカード【通算299枚目】カルビー1984年No.49(表面)カルビー1984年No.49(裏面)
(1981年西武ファンブックより)1日も早くプロのスピードに慣れることだ。バッティングフォームがしっかりしているので将来が楽しみな選手のひとり。練習で腕を磨き、実戦で自分の持つ力を出し切ることが先決【1981年の国松慶輝】西武在籍:1年目(19歳)、※新人=大商大堺高からドラフト外で入団、背番号65一軍成績:公式戦出場なし【イースタンリーグ成績】打撃成績:8試合、11打数2安打、打率.182、0本塁打、1打点、0盗塁【1981年当時の記事写真とコメント】基礎を身に
前回のブログで紹介した「西武ライオンズ球団結成披露パーティー」では、球団歌「地平を駆ける獅子を見た」も発表されました。作詞:阿久悠、作曲:小林亜星、歌は松崎しげる。【1979年当時の記事写真】阿久悠氏は、今更私が語るべき必要もないくらい音楽界で多くの業績を残した代表的な作詞家でした。一方で、野球好きであり、西武以外にもダイエーや阪神にも作詞を手掛けた歌があります。手がけたヒット作の一つピンクレディーの「サウスポー」がありますが、1977年のオールスターゲームで後に西武に在籍した
★2020年5月28日(木)に掲載したブログのアップデート版です★西武ライオンズカルビープロ野球チップスカード【通算297枚目】カルビー1984年No.42(表面)個人的に片平選手のこのカードはお気に入りの1枚です。サインは、二軍監督時代の1995年頃に直接ご本人から書いて頂きました。カルビー1984年No.42(裏面)
西武OB戦翌日の3月17日(日)にMINTGAMES池袋店で行われたデストラーデ氏のサイン会&2ショットサイン会へ行ってきました。イベント2日前にはチケット予約も完売しており、当日会場には約60人のファンが集結。西武黄金期のユニフォームや帽子を着用したファンたちも10人位いました。ユニフォーム着用していたうちの一人は私です(笑)。オーレは前日のOB戦で右膝を故障していたのでイベント開催の心配をしていたのですが、松葉杖を突きながら来てくれました。今回書いて頂いたサインです。「H
10月3日に所用で代々木方面へ出掛けたついでに原宿まで足を運んでみました。人混みを避けたくてJR原宿駅の新旧駅舎だけ見てさっさと明治神宮へ向かうつもりでしたが、ふと、以前この原宿の地にも西武ライオンズの聖地と呼べる場所があった事を思い出しました。原宿駅を出て明治神宮の参道入口方面へ向かったすぐの交差点付近(写真のこの場所)に、かつて国土計画の本社がありました。現在は、地下鉄の出入口と商業施設らしき建物(写真右側)になっています。国土計画本社に隣接していたコープオリンピア(写真左端)はいま