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「咳をしても一人」「障子あけて置く、海も暮れ切る」こんな素敵な句を詠むのは、どんなにステキな人なのかと思っていたら、偏屈で破天荒なオヤジだった。自由律俳句に於いて、動の山頭火、静の放哉と称される漂泊の自由律俳人尾崎放哉(本名:尾崎秀雄、1885(明治一八)年1月20日―1926(大正一五)年4月7日)は、鳥取市吉方町出身で、最後の8カ月を過ごした終焉の地が小豆島土庄町。士族の家に生まれ、東京大学法学部卒業後、生命保険会社でエリートコースを進むもスピンアウト。京都、神戸
なんかさ、今日ってずっと曇っててムシムシしてて、暑かったり寒かったり、変な悪夢見たり、こんなんじゃさBADBADBADじゃんね。それにね、自分の事もちゃんと守れなかった。それとね、人様に迷惑ばかりでね、さっさと去って死んじゃえばいいのに、大人になったら簡単に死ねなくなった。顔が、肉が、臓物が、全て気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。天気のせいでいいよね?こんなんなったって誰のせいとかじゃなくて自分が悪くても自分のせいじゃないもんね。エゴのせいだって言い聞かせるの。よく分からない。ストレ
ばいばい❔バイビー❔嗚呼僕の幸せだったあの瞬間よ終わり…𝗍𝗁𝖾𝖾𝗇𝖽震えたあの時のばいばいが本当にバイビーだったね。Theend君は僕の翼の傷を癒してくれた。白くケロイドに晴れるまで。。絶対に君の回顧録に残ってやんよ。君の脳内再生僕で繰り返すんだきっとね。ごめんね沢山酷な事言って。だってさぁ、君の記憶に刻みたかったんだ。僕は震えながら居たよ。君待ってた。君の事。だけど来なかった。雨が降り始めたからって理由で。君待ってた、あの最寄り駅で。だけど来なかった。泣いてい
こんにちは。宅配便俳句、略して「宅俳」の俳人、ゆきた山頭火です。いまちょっと仕事が忙しく、四コマを描くことができなかたため、今回は一コマになってしまいました…。今作は、俳句の形式にとらわれない「自由律俳句」となっており、この山頭火の得意とするところであります。みなさまも秋の虫の声を聞きながら、句など詠まれてはいかがでしょうか…?心の俳句シリーズ↓↓↓↓↓↓「27軒目心の俳句」「54軒目心の俳句②」「57軒目心の俳句③」
みなさま自由律俳句とゆーものをご存知でしょーか?五・七・五の定型のリズムをとらなくても良けりゃ季語を入れなくてもいい!ってゆーフリーダムな俳句です。何年か前に『伊集院光とらじおと』とゆーラジオ番組の中のコーナーで知って以来ほんのり気になっているんです。あたし。そんな風にほんのり気になったまま時が経過した今―。なんと!自由律俳句の本が手元に!ステキ本!装丁もカワイイ!ひょんなことでTwit
爽やかな夏の訪れ白き花姫空木(ひめうつぎ)大きさと反比例するおとなしさ莢蒾(がまずみ)陸游ぐアンモナイトで蘇りグレビレア白一重女優で言えば吉田羊難波薔薇(なにわいばら)燦々と花が鳴くころカロライナカロライナジャスミン頬染めて月の出るころ待ちわびる月見草ポムポムと増えるポップコーンバター味木香薔薇(もっこくばら)終わってもモドキを作り花期伸ばす黄梅擬(おうばいもどき)蜜求め長いトンネル蟻歩くカラー幾重にも花
ここから一歩も通さない理屈も法律も通さない誰の声も届かない友達も恋人も入れないTHEBLUEHEARTS「月の爆撃機」の冒頭である。作詞甲本ヒロト。最初に知ったのはマキシマムザホルモンのアルバム「予襲復讐」を購入した時だ。同アルバムは,発売開始1年後くらいにやっと買った。わたしがMTHのCDで買った初めての作品。それについても色々あるけれど今回は省略。3曲目「鬱くしき人々のうた」の前,アルバム2曲目に「鬱くしきOP~月の爆撃機~」が収録さ
分け入っても分け入っても青い山~種田山頭火(たねださんとうか)読み・・・わけいってもわけいってもあおいやま簡単現代語訳・・・道なき道を分け入って、どんどん進んで行っても、青い山は果てしなく続いていく。この俳句は、「自由律俳句」であり、季語の入っていない「無季自由律俳句」である。そして、「切れ字」や「言い切り」のない、「句切れなし」。※「切れ字」・・・強く言い切る時や、一旦そこで場
かわいい。kawaiiを頬張ってみたくて。イチゴを飼ってみたの。きもちわるい牙を剥き出してた。可愛いかなって思って学校の帰り道あの子と一緒にいちごみるくをはんぶんこした。あの子の方がふわふわ可愛くて。私の中からドロドロとした吐瀉物を「マッズ」っつって吐き出した。駅のトイレで。いちご嫌いなのに。だから嫌いなんだよいちご。わたしもかわいいのに。わたしの部屋もいちごみるく色みたいにぬいぐるみも机も壁も全部染まってるのに。これ以上kawaiiを奪うな。いちごミルクに溺れて死にた
・竹の皮脱ぎて何処にかぐや姫日本人に古くから親しまれてきた、五七、七五調。流れるような調べには、思わず引き込まれてしまうものがあります。俳句は定型を原則としていますが、どうしても十七音ではおさまりきれない場合が。その場合は、どこまで字余りが許されるのか。字余りについては、芭蕉の時代に、すでに議論されており、基本は十七音を前提としたうえで、次のような意味のことを述べています。「たとえ七字余ったとしても、句の響きがよければ構わないが、たとえ一字の字余りでも、それが口の中