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9月15日。母が亡くなる3日前の事です。iPhoneのメモに記録していたのでブログに残していきたいと思います。朝、👓くんの運転で家を出た。今回は、母の母(ばぁちゃん)と👓くん、私と、娘1と娘2と、弟(5歳♂)で草津へ行くことにしました。嫌な予感がしていました。これが、最期になるような。。途中サービスエリアで休憩しながら、病院に着いたのはお昼過ぎ。病室に入ったら、母の姿が見えました。そして、隣には簡易ベッド。パパが前日から泊まっていたので‥。先週よりも、痩せた母がそこ
しばらくは、過去の経緯と現在を更新していきます。〜2018年1月25日腹腔鏡検査〜朝からソワソワ。祖母と合流し、母の待つ病院へ。【お腹減った〜!】と母。食べる事が大好きだった母。年末からたくさん我慢したね。夕方には、呼ばれるとの事で、着替えを手伝って、髪の毛を二つ結びにしてあげる。【二つ結び‥なんか面白いね(笑)】【似合わない(笑)】オペ室の前まで母を見送った。【頑張ってね。】【うん‥】オペ室のドアが閉まった。しばらく、動けなかった。やけに薄暗いオペ室の廊下。どう
予定時刻を大幅にこえて、銀色の小さなトレーを持って主治医は戻ってきた。『お待たせしました‥。予想をはるかに超えた状況でした。』『摘出した腫瘍などは、ご家族にきちんと見せます。こちらが卵巣です。』と主治医が言った。銀色のトレーの上には、私の掌ぐらいの大きさの卵巣‥だったものがあった。卵巣は破裂していて、直接的な死因は、ここからの出血だったらしい。破裂した卵巣の中にはBB弾のような黒い塊がいくつもあった。『この、黒いのが、癌です。』主治医はそう言った。‥こんなも
母は少し頷いてくれるだけ。時々痛みで顔を顰める。母が会いたかった人。母の祖母。私の、ひいおばあちゃんです。癌になった事を伝えていませんでした。【必ず良くなる】そう信じていたから‥伝えられずにここまできてしまった。【ともちゃん、おばあちゃん来たよ。】私が伝えると、母は目を開けて【おばあちゃん‥来てくれてありがとうね。】と笑った。しっかり、おばあちゃんの顔を見て。病院着を整えて話をした。(ともちゃん‥かわいそうに‥ごめんね、おばあちゃん知らなくて‥。変わってやれたら
47歳、女性。2017年12月、近医受診後、胆嚢癌の診断。2018年1月、腹膜播種の確認。その後徐々に状態悪化、卵巣出血など併発。9月18日、当院入院後、同日夜死亡された。部検時、腹腔内はほぼ腫瘍で占拠されているような状態。腹水はなし。胸部は肉眼的には著変ないものの、横隔膜の左胸腔側には腫瘍の播種像を認めた。脾臓および腎臓は、用手剥離可、肝臓、膵臓、十二指腸は一塊となっており剥離は不能であった。骨盤腔も腫瘍に占拠されており、既存の卵巣組織の確認は不能、子宮はかろうじて子宮口が確
あやだけでも、戻ってこれないか?とパパに言われた。運転して、妹達を送って、パパの車を置きに行って‥今やっと帰ってきて、、また名古屋から草津を1人で運転、、。冷静に無事辿り着ける気がしなかった。私は断った。あぁ‥また後悔が一つ増えたなぁ。また後悔するんだろうなぁ‥。【じゃあ‥薬、使うな‥】とパパ。【わかったよ‥】と私。あぁ‥名古屋、帰ってこれなかった。もう、仕方ないね‥。さっきが最期のお別れか。もう話す事も。生きたまま名古屋に戻ってきて、温もりをもう一度感じる事も
更新がゆっくりでごめんなさい。母の最期の数日間の事を書くのは、やはり、中々キツイです。今週土曜に、49日の法要があります。その時に、母の事を想って書きたいと思います。残された私たち。。毎日育児に奮闘しながら、生きている。大好きなともちゃんが居なくなってからも、当たり前に朝が来て。季節が変わった事を感じながら起きて、バタバタと朝ごはんの支度をして、娘1を幼稚園バスに送り出して、洗濯や掃除をして晩御飯の支度をして、娘2のお世話をしていると、あっという間に、娘1が幼稚園から
先程、草津から名古屋の自宅へ帰宅しました。朝からバタバタと用意を済ませ、必要な物の買い出しをして、母の待つ病院にお昼過ぎ着。マッサージをしてあげるために、ニベアのムース乳液を買ってきたので、ハンドマッサージ。血流をよくするマッサージをしても、全然温まらない母の手。少し前までは、【腕、太っ!(笑)】と笑っていた母の手。いつしか母の手は、私の腕よりも細くなり。指も細く折れそうな程に。あんなに暖かかった母の手。私の手で温めても温めても冷たい母の手。‥どうしてこんな事になってしまったの
すぐかなぁ。さみしいな。さみしいな。さみしいなぁ。それから痛がっては眠って‥途中で誰かと会話をしての繰り返しだった。👓くんとも喋った。【ごめんね、色々と。】と母。こちらこそ、色々とご迷惑をおかけしてしまいましたね、、【この子の事、よろしくね。】と母。もちろんです、任せてください‥。ともちゃん、初めてだねあやの事を誰かに託してくれたの。そんなに、👓は信頼できる良い奴だった?あんまりかっこよくはないかもしれないけど、こいつならあやの事も、子供達の事も任せられる、と思った?
何度も更新しようとしては、やめて‥の繰り返しで、年が明けてしまいました。母がいない初めてのお正月‥。病理解剖の結果も出てきたので今日からまた更新したいと思います。病理解剖の結果を書き終えたら、このブログは終了です。もう少しだけ、私たち家族にお付き合い下さいね。〜9月16日〜朝起きて病院の近くのホテルで朝食をとる。こんな時に思うのは、母の事ばかり。旅行好きだったな‥ビュッフェ好きだったな‥ここにともちゃんが居たらな‥この先心の底から楽しめる事は無いんだと思った。私には母が必
皆様、約1年の間、私の不定期更新ブログを読んで下さいましてありがとうございました(後で画像を色々添付するので、先にばぁば〈デブ期〉とゆづの花火写真)初めは手探りの中情報探しの為に始めたブログでした。そしていつからか母も読者になっていて‥きちんと完結してほしいと言われました。【同じように苦しんでる人が居るのかもしれないんだから、あんた更新ちゃんとしなさいよ。】そう母に言われました。本当は完結なんてしたくなかった。だって、完結は終わりを意味する。ずっとずっと、記録を残したかっ
9月17日朝から病院へ行った。明らかに調子が悪そうだった。眠る‥痛がる‥眠る‥痛がる‥その繰り返しだった。草津総合病院での主治医の話を聞いて、家族でセデーションについて話し合った。セデーションは水曜に名古屋で行う。‥今日は月曜。明日火曜日に名古屋に戻って‥会いたい人に会って‥セデーションで眠らせてもらう‥。母の希望だった。主治医との話を終え、一人で母の側に行った。やせ細った手を握って眠るばかりの顔を見てたら涙が止まらなくなった。母の前では泣かないと決めたのに。母
9月18日に母は家族、友人、みんなに見守られながら旅たちました。何とか草津から名古屋に戻り、慣れ親しんだ病院で、大好きな主治医のところで。驚くぐらいの人が母の最期に会いに来てくれました。夕方に、みんなにお別れをして、ミタゾラムを使いました。母が望んでいた終末期鎮静。セデーションです。それからは、意識がない中、友達と同窓会の中に居るような賑やかな時間を過ごし、家族や、親友たちが、みんな部屋に入った数分後に、静かに息を引き取りました。この時間を待っていたかのように。ともちゃん。もう痛く
20日、お昼前に母のところへ。天気は雨。【湯灌】のため‥母の大切な友人1人と、私と妹で立ち会った。一緒に立ち会ってくれた母の友人は、入院中、1日も欠かさず病院へ来てくれた。「よく、髪洗わされたよね‥。」「きちんと乾かさないと怒られるよね。」と母の友人と話をした。身体を洗ってもらって、髪を洗ってもらって、母らしい服装に着替えさせてもらい、軽く化粧をしてもらった。化粧をした後に、「少しお顔整えますね‥」と言われ、母の鼻や口に大量の詰め物をした。妹はその光景が辛かったよ
9月18日夜中。パパからのLINEは続く。0時42分睡眠薬を点滴で流している。【少しでも眠れるといいけど‥。】0時45分俺はともみに嫌われたかもしれない。大事な決断の時に戸惑った。約束したのに‥。【そんな訳ない!それに戸惑うに決まってるよ】0時51分あの後、ともみは頷くだけで、一度も目を開けてくれない。【オキファストでフワフワしてると思うから‥】1時7分また痛みだした。オキファストフラッシュして、ミタゾラムを0.2づつ始めた。なんとか今日は帰れるようにする。【や
久しぶりにブログを開くと何やら仕様が色々と変わっていて、不安になりますね😅お久しぶりです。もう、更新するつもりは無かったのですが、有難い事に、心配してメッセージをくださる方、同じ境遇の方、治療や草津総合病院の質問など…たくさんの方からメッセージやコメントなどを母が亡くなった3年弱経った今でもいただいております…(本当にありがとうございます😭)私は、元気にやっています😊母が亡くなって、しばらくは落ち込んだり眠れなくなったり泣いたり…情緒不安定になって辛くなって正直死んでしまおうか。と思っ
死亡確認がされて、残された家族や、友人達はみんな泣いていた。不思議と私は涙が出ませんでした。お出かけが大好きなともちゃん。食べる事が大好きなともちゃん。人と話す事が大好きなともちゃん。癌は、ともちゃんから何もかもを奪いました。大好きだったお出かけも、できなくなった。最後のお出かけは、最初に草津を受診した時。あの時、もう末期の症状が出てきていて、身体はとても辛かったんだろうと思う。でも、自分の中でこれが最後のお出かけになるかもしれない。って、わかっていたよね。だから、行
皆さま、説得力のあるコメントや、励ましのお言葉やメッセージ、本当にありがとうございます。おっしゃる通り。家族の望みよりも、やっぱり最後は本人の気持ち。ツライのは母本人で。その母がまだ治療を望むのなら。それは尊重してあげる。それ以外の選択、私には無いです。だから、昨日の迷いや不安はなくなりました。祖母の望み、パパの望み。それぞれ思う事はあるかもしれないけど。ここまできて、私は、母が決めた事がしたい。母が決めた事が、私の決めた事。今日は朝から、採血をして、炎症の数値はある
19日、朝8時頃に母が居る病院へ向かった。正直、眠れたのか、眠れていないのか‥よくわからないまま朝を迎えた。病室の前には葬儀屋さんが居た。「この度は、ご愁傷様でございます。」そうか‥ともちゃんは死んだんだ‥。病室へ入って葬儀屋さんは合掌し、母の遺体をベッドからストレッチャーに乗せ白い布のようなもので全身を覆い、病室を出た。霊柩車までは、主治医も同行した。母の主治医は、本当に素晴らしい先生だった。最初はハイパーサーミアで知り合った先生。物腰は柔らかく、真面目な優しい先生