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3年前の記事の続編。『アメマスの謎①空白地帯の謎』北海道の釣り人にとって、おそらく身近なターゲットであるアメマス。特に海のアメマス釣りは冬~初春にかけて北海道のルアー/フライマンの数少ないターゲットだ。僕も…ameblo.jpこれにも書いたが、浜益で釣れるアメマスの謎について、少しわかった事があるのと、引き続き疑問かつ今後調査する事があるので、続きを書くことに。まずわかった事その①。増毛にある保護水面河川の信砂川と暑寒別川は、アメマス資源が豊富であるという事。特に暑寒別川について
こんにちは『怪異妖怪記事資料集成』四巻(国書刊行会)からご紹介をしておりますが、前回、北海道旭川市にある神居古潭について取り上げました。今回は補足として神居古潭関連の話をお伝えします。◇◇◇◇◇神居大橋(現在、工事中で不通)H.T.Infoさんからお借りしました■それは伝説からはじまった神居古潭はアイヌ語で神のいるところを意味します。ここの石狩川は急流部で水深70mもあります。10万年前、北海道は海で隔てられ2つに分かれていました。4万年前の大
いつもエサ釣りばかりしてる私。旦那が大物を釣りたいといい、それではエサ釣りではダメだね。って話になり、ルアーで挑戦しに石狩川の旭川よりかなり上流へ。旦那はほぼ初心者のルアー釣り。私はルアーは全くやったことがないので、いつもの餌釣りを。ま、こんな川で目の前にしか投げられないエサ釣りしても埒あかないよなって思いながら、暇つぶしに投げてみる。そうしたら、根掛かりもうっって引っ張ると、え?かかってんじゃん!!慌ててずるんっと引き上げると、斑点の魚が!見たことないけど、これってア
北海道の難読地名横綱格「濃昼」!!濃い昼(こいひる)と書いて「ごきびる」と呼びます。アイヌ語の「ポキンピリ」(意味は崖の陰)という語に由来。アイヌ語由来の地名はピッタリ!!集落に登る朝陽は崖の陰に隠れています。ドローンで濃昼漁港を撮影。手前から島防波堤、西防波堤、集落から伸びる内防波堤。冬の時期には北西の風に強く避難港として利用されているようです。増毛側にある西防波堤基部の大きな断崖。覆いかぶさってくるような迫力があります!!反対の厚田側にも大きな山と断崖が
ご訪問ありがとうございます♥7年ぶりに夫の故郷、旭川へお墓参りに帰省しました。旭川といえば、このお方。玉置浩二《あの頃へ》Mステyoutu.be安全地帯の大ファンである私旭川に来ると、いつもこの曲↑がずっと耳で鳴ってます今回の帰省では、義理のおにいさんが、車でいろんなところへ連れていってくれました♥こんなところにも。こちら↑(写真左の三角屋根)は、安全地帯がデビューする前、毎日こもっていた練習場だそう。玉置さんの声量なら、あの奥の山まで届いていたことでしょう。
家族でおでかけ行き先は江別。それぞれの希望を取り入れたおでかけ江別行くなら、ランチはここ行きたい🙋私の希望でまずはこちら。江別河川防災ステーション。の、2階にあります。。江別ホルモン食堂ブロ友さん🐭に教えてもらったお店(お天気が残念だけど)石狩川と美原大橋を望めるテーブルに着席メニューお肉屋さんの経営なので、肉料理がオススメなのかな🤔どれもリーズナブル食券機で食券を購入します。お水(冷緑茶もあり)、サラダのドレッシングやカレーの福神漬けなどはセルフサービスです。じゃん
日本釣振興会北海道地区支部の山田さんより、旭川のサクラマス・シロザケ情報が届きましたよ~稚魚が観察できる時期になったそうです以下、山田さんからの文章です。***旭川のさけ・ます復元を見守ってくださる皆さまへ日本釣振興会北海道地区支部の山田です、ご無沙汰しております。昨年秋に、旭川市内を流れる石狩川水系忠別川で、海から遡上してきたサクラマスとシロザケが子孫を残すため産卵していました。ひと冬、川底で成長して産卵床から稚魚が泳ぎ出て、稚魚の観察時期になりました
来週のお仲間との鮭釣り遠征に向けて事前練習を日本海側での鮭はまだ聞こえて来ないのでどうせ釣れないのならと、家から一番近くて大河である石狩川河口付近へ念の為、石狩川河口のサケ・マス規制を確認両岸1,000mまで規制GoogleEarthをもとに薮をかき分け砂道を走り、河口規制ギリギリのポイントへ石狩市のゴミ処理施設のちょうど裏あたり。それにしても便利な世の中になったなー付近を見渡しても規制範囲を明示するような標柱などは見えず。Yahoo天気によると今朝明け
函館本線の納内・伊納間は、上川盆地方から石狩平野に抜ける石狩川の峡谷に阻まれる交通の難所であった。アイヌ時代、ここを舟で通過することは難しく、場合によっては陸揚げし陸上を曳いて通過していた。アイヌはここの他空知川、雨竜川などにもある同様の個所を、神の住む聖地として「カムイコタン」と名付けていた。いずれも通行上の難所である。明治期に官営鉄道・上川線を設ける際にもここは難所で、峡谷の北岸を舐めるような形でいくつかの小さなトンネルを交えて造られ1889年(明治31年)に開通した。以降北海道