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(2014年10月他ブログ掲載。青文字は今のコメント)旅行の〆は、行きたいと思っていた維新ふるさと館タクシーで直行しました。運転士**の生誕地だとか、明治維新150年へのカウントダウンで維新ふるさと博をやっていること、おはら祭りがあることなどいろいろと話してくれます維新ふるさと館維新ふるさと館-–鹿児島市|西郷隆盛|大久保利通|明治維新|ishinfurusatokan.info維新ふるさと館は幕末の薩摩の様子と維新を支えた英雄のエピソードが満載。体感的な展示や立体映像を
今年6月に2泊3日で鹿児島へ旅行に行きましたが、行きたい場所をリストアップして3日間で希望する場所を全部は周れませんでしたがどうしても行きたかった場所の1つが特攻基地のあった知覧でした。当初は知覧(陸軍)、鹿屋(海軍)、万世(陸軍)の特攻基地を周りたかったのですが韓国岳、高千穂峰、開聞岳に登ることを優先した為、知覧だけになってしまいました。昨年暮れに映画「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。」のロケ地として使用され注目を集めた茨城県阿見町(霞ヶ関の西側)にある予科練平和記念館へ
靖国神社の『遊就館』を訪れてから、特攻隊についてYouTubeで見まくっていました。そこで出会ったのが、特攻隊の穴澤利夫さんの生まれ変わりと言っている少年。しかしながら。特攻隊の生き残りの方が、穴澤利夫さんの生まれ変わりであることを真っ向から否定をされているのです。少年が知覧から神風として出撃したと言っていますが、神風は海軍が編成した部隊で、知覧は陸軍(振武隊)であったので知覧からの出撃はなかったと話されているのです。特攻隊の歴史は本当に悲しく悲惨なものです。語り継がなければいけない
陸軍第79振武隊田中富太郎少尉直協【98式直接協同偵察機】田中富太郎少尉(特攻戦死後二階級特進大尉)です。以前描いた戦闘機ですので、スケッチブックの絵も若干薄くなってしまっています。この絵を描いた時に、ご家族の方から当時コメントをいただいたのを覚えています。それで、ご家族の方からコメントをいただいたのが初めてだったので、嬉しさと感謝の気持ちを込めて、田中富太郎少尉(大尉)の出身県の護國神社を訪れたことがあります。何年か前の出来事になりますが。当時、季節は桜が咲いている時期でした。
おはようございます!(^o^)丿よりタフに!より美しく!より笑顔に!あなたを鍛えて、壊して、癒やす空手師範の田中です。一昨日(4/23)のこのblogの記事、この日1日で、普段の約20倍のアクセス数があり、私はひっくり返りました・・・アクセス解析をチェックしてみると、3年位前に書いたこの記事のアクセスがとんでもないことになっていました。もうすぐ終戦記念日|好きなものに対していつも正直でありたい空手師範の独り言この記事はここ2週間くらい前からか
日本でいちばん知覧で研修されている武田勝彦さんの知覧研修に参加させていただきました。特攻平和会館は、何十回と訪れていますが、武田さんからまだまだわたしが今まで知らなかったことを学ばせていただきました。「特攻の母」と呼ばれる鳥浜トメさんこの観音堂の掃除を毎朝されていたそうです。病床にあっても観音堂の清掃を気にしていたらしい。そんなエピソードだけでなく、沖縄で生き残った人たちが特攻に感謝していた話などいろんな話をしてくださいました。武田勝彦さんの会です護國の祈りー
旅のチカラ×プロジェクトのなぎです義弟夫婦が箱根に行ってきたようで美味しいシュークリームもらいましたごちそうさまです********************************旅行記の続きです次の日、8:30にチェックアウトして↓『2025/4月/鹿児島知覧へ⑥~宿泊は目の前の「さくら館」~』旅のチカラ×プロジェクトのなぎです今年もチューリップが満開です********************************さて
高倉健さん、まっすぐしていて、律儀で実直で、暖かさが伝わる、大きな存在感のある俳優さん。。。高倉健さん主演映画「ホタル」のモデルとなった、濱園重義氏についてや、ロケ地の垂水市海潟漁港をブログでアップした記事の再アップをしたいと思います鹿児島県は、特攻基地となった、鹿屋,串良,国分,出水,知覧,万世の飛行場から多くの学徒出身の少・中尉や予科練出身の少年兵の方々が、戦場へと向われましたが。。。それぞれの場所には、現在、慰霊塔や記念碑、観音堂などが建てられ、慰霊と平和への願いを込めています。。
知覧特攻平和会館を見た後に向かったのが〝特攻の母〟として慕われた鳥濱トメさんが営んでいた「富屋食堂」へ行きました!知覧は、大東亜戦争末期、沖縄に上陸した米軍に対し、20歳前後の若者達が250kg爆弾を飛行機に積み、敵艦に体当たりをしていった〝特攻隊〟の陸軍最大の特攻基地となっていました。陸軍は、特攻隊員の食事などの場として「富屋食堂」を軍の指定食堂としました。ここでは、食事の他に身の回りのお世話などもされていました。その跡地に平成13年(2001年)10月に外観は当時のままに
特攻隊員遺書特攻隊員の手紙で泣けると有名な遺書がありまして、それが【大石伍長の遺書】で、【静ちゃんへ】という妹あてに書いた遺書です。私が2020年頃に書いていたブログでも一度書いたことがあるのですが、当時私はどこで見たのか忘れたのですが、【大石伍長の遺書というのは存在しない】という記事を見ました。それで、私も探してみましたところ、『伍長』というのだから陸軍なわけです。陸軍沖縄特攻で探してみましたが、【大石伍長自体がいない】のです。あとは、フィリピン方面の特攻隊なのかと思いましたが、私は